「『敬愛する長老へのお手紙−「この世代」というのは1914年の出来事を見た世代 ではないのですか』に対する返事 (7-22-99)」に対する返答

(8-6-99)

<前略>

私が拝見する限り、あなたは私の論点を巧妙に歪曲しているように思われま す。私が申し上げたかったのは、「世代」に関する見解の変更、「終わりの日」に 関する教理の変更などはありましたが、それによって「協会の教理は聖書から逸 脱していない」、という事実を申し上げたまでで、「エホバの証人は『教理の固 守』によって『組織』についている」ことを申し上げたかったのではありませ ん。 また、「教理に関係なくエホバに献身している」のでもありません。エホバの 証人はいくつかの基本教理を持っています。それは以下のサイトに書かれていま す。 http://www.watchtower.org/languages/japanese/library/br78/article_03.htm この中に、「世代」の教理は含まれていません。変更があったのはこうした基本 教理外のことです。 また、協会は「エホバの名を詐称している」わけではありません。「物見の塔 (watchtower)」は聖書用語ですし(イザヤ 21:8)、「エホバの証人」も聖書用 語です(イザヤ 43:10、コリ一 15:15)。ちなみに、イザヤ21章5節から9節と マタイ24章43節から51節を比較すると、さまざまな類似点があることに気付きま す。イザヤ21章の「油を注がれた君たち」は神に招かれて「食べたり、飲んだり」 していますが、マタイ24章の「召使い」も神から「食物」を与えられています。「見 張り番」はバビロンを滅ぼすメディア・ペルシャの軍(キュロスが指揮してい る)に注意を集中していますが、「忠実で思慮深い奴隷」は大いなるバビロンに 所属する「よこしまな奴隷」を滅ぼす「人の子」イエス・キリスト(イザヤ44章で は、キュロスとイエスが二重に予告されており、イエスは“大いなるキュロス” といえる)の到来に注意を集中しています。ですから、「見張り番」である「忠実 で思慮深い奴隷」は、「物見の塔」の上に立っています。ですから、エホバの証 人は自らの組織を「ものみの塔(Watch Tower)」と呼んでいるのです。 聖書の中には「真のキリストの弟子」を見分ける方法が明確に述べてありま す。それは、「彼らの間に愛がある」ことです。(ヨハネ 13:34,35)ここで 「愛」と訳されているギリシャ語は「アガペー」です。「アガペー」とは自己犠牲的 な愛を表しています。そのような愛を示しているのは誰でしょうか。ルワンダの 内戦時にそれは示されました。また、平時でもエホバの証人は神の王国を宣べ伝 えることによって、神と隣人にそのような愛を示します。彼らは「ものみの塔」や 「目ざめよ!」、その他をただ配布しているだけではありません。彼らはそうし た出版物を用い、聖書研究を行うことを目的としています。確かに、表面的には それは隣人愛とは結びつかないかもしれません。しかし、そうすることは、真理 を聞く人の「永遠の命」に関係しています。(ヨハ17:3)ですから、宣教は「隣 人愛」なのです。それ以上に「神に対する愛」です。 エホバの証人は「宣教」を行う時、お金を取りません。「宣教者」も無給です。 協会の自発奉仕者は一部払い戻し金を得ますが、その額はわずかです。そうした 払い戻し金は生活の足しにしかなりません。「あなたがたはただで受けたので す。ただで与えなさい」とイエスは言われました。(マタ10:8)この点は、オウ ムなどとは異なっています。また宣教は、「協会」のために行っているのではあり ません。かつて協会の会長ラザフォードが偽りの告白で牢に入れられたことがあ りました。その時もエホバの証人は宣教を止めませんでした。それは、神のご命 令だからです。(コリ一1:21)エホバの証人は協会が非合法となった時も宣べ伝 えることを止めません。政府よりも神のほうが上位だからです。(使徒5:29) 残念ながら、エホバの証人の理解は完全ではありませんが(コリ一13:1-13 )、他のどんな組織よりも神を愛していると公言できます。そして隣人も愛して います。ですから、「しつこい宣教」を行っているのです。「世」に属する人はそ のことに気付きません。それは、神が盲目にしているからです。ちょうど、子供 が親に怒られた時、「あなたはわたしのことを愛していない」といっているのと 同じです。その子供が親の愛に気付くのは子供が大人になってからです。しか し、すべての子供がそうであるわけではありませんね。気付く人も中にはいま す。 私はあなたが神の愛にお気づきになられるよう、願っています。エホバ神の祝 福があなたにありますように。

《編集者より》
これは、「敬愛する長老へのお手紙−『この世代』というのは1914年の出来事を見た世代ではないのですか」に対する返事に対して、投稿者が更なる回答を寄せて頂いたものです。まず、あなたの論点を整理してみましょう。今回のあなたのお手紙で明らかになったことは、あなたは「基本教理」と「それ以外の教理」とを分けて考えているということです。また、協会が「世代」の教理や「終わりの日」の教理を変えても「協会の教理は聖書から逸脱していない」と考えていられることが明らかになりました。そしてその「基本教理」はインターネットによって上のURLにおいて協会から示されている、というわけですね。

協会はこれまでにも何度も「基本教理」を発表してきましたが、それぞれ幾つかの違いがあります。ある教理はある時点で「基本教理」でしたが、次の時点では「基本教理」ではありません。たとえば、『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』の144ページにも同じように「基本教理」のリストがあり、その中には56項目の「基本教理」がありますが、協会のウェブサイトには42項目の「基本教理」があります。ということは、時が経つに連れて「基本教理」の数は減っているようですね。では一体どの時点の「基本教理」があなたが「固守」する「基本教理」なのでしょうか。

たとえば、ウェブサイトの「基本教理」では、1914年に関しては何も言及していませんが、『告げる人々』の「基本教理」では「わたしたちは今、1914年以来、この邪悪な世の「終わりの時」に生きています」とあります。この1914年という具体的な年は、「基本教理」なのですか、それとも「それ以外の教理」なのですか。確かに、今の出版物にも1914年の教えは出てきますし、『告げる人々』のリストに出ていることから見ても、これは間違いなく「基本教理」だあると言えます。しかしもう一方では、協会のウェブサイトの「基本教理」のリストにはこれは入っていませんので、これは「基本教理」ではないと言うこともできます。これは協会がどちらにでも都合のよいように「基本教理」を微妙に変えているとしか、私には思えません。仮に、数年後に1914年という年が協会によって捨て去られ、ウェブサイトで述べているように、ただ漠然と「わたしたちは今『終わりの時』にいる」として具体的な年を述べない教理に変わったとしましょう。その時もあなたはきっと、「これは協会のウェブサイトの基本教理に出ていないことだから、基本教理以外の変更だ」と言い張り、それ以前に1914年がはっきりと基本教理であったことを話さないのではないでしょうか。

もう一つの例をとりましょう。ウェブサイトの「基本教理」には「十字架」がありますが、『告げる人々』のリストには「十字架」は述べられていません。仮に数年後、考古学の知見が増えて、イエスが十字架に懸けられたことを示す証拠が圧倒的になり、協会がこの教理を取り下げて、「イエスが杭に懸けられたか十字架に懸けられたかはわからない」という教理に変わったとしましょう。これは「基本教理」の変更ですか、それとも「それ以外の教理」の変更ですか。これもその時のご都合主義で、どちらにでも答えられるわけではないですか。

「世代」の教義に戻りましょう。お手元の1995年以前の「目ざめよ!」誌を、どの号でもよいですから、開いて、その表紙の裏を見て下さい。全ての号に必ず、次の文章が書かれています。

またきわめて重要な点として、この雑誌は、1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に平和で安全な新秩序をもたらすという創造者の約束に対する確信を強めます。
「世代」の教義はここで、「創造者の約束」、つまりエホバが約束したことであると書かれています。「エホバの約束」がくるっと変更しても、それが「変更があったのはこうした基本教理外のことです」と平然と言い張れるわけですね。エホバがそのような約束をするでしょうか。もしそんな約束はエホバから出ていないとしていたら、あなたは一体「誰の約束」を固守してきたのでしょう。そして今の「基本教理」は、今の「エホバの約束」は、何時「それ以外」になり、やがて忘れ去られるのでしょうか。

エホバの詐称と申し上げたのは、別にエホバの証人の名前が聖書に基づいていないという意味で申し上げた訳ではありません。エホバの名前を使って、エホバから出ていないことをふれ告げていることを言っているまでです。すぐ上に述べた、「世代」の教義が「エホバの約束である」という偽りの教えはその最もよい例でしょう。また、戦争や災害の時に隣人に対して分け隔て無く愛ある援助を行うのは、エホバの証人ではなく、カトリックやプロテスタントを中心とする、あなたがたが「大いなるバビロン」と軽蔑する、キリスト教の慈善団体です。エホバの証人が全くそのようなことをしないというわけではないでしょうが、あなたがたにとっては、エホバの証人に関心を示さなかったり、反対している隣人に対しての愛は、全く二の次であり、イエスが教えたよきサマリヤ人の教えとはほど遠いものがあります。これは次に引用する『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』の144ページの「基本教理」のリストにあることですから、あなたの説によれば、固守すべき教えだと思います。

クリスチャンはすべての人にできるだけ良いことを行いますが、神に仕える仲間の僕たちに対して特別の責任があることを認めています。それで、病気や災害の時の援助はおもに仲間の人たちに向けれます。(『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』144頁)
ここでも、聖書の「隣人を愛せ」、「敵をも愛せ」という教えをおしのけて、組織の「基本教理」である「先ず仲間を愛せ」が優先しているのが見られます。あなたの言うように、もし宣教が隣人愛であるのなら、よきサマリヤ人は、あそこまでけが人に対して自己犠牲を払って助けてやる必要があったでしょうか。怪我人、病人に必要なのは「ものみの塔誌」ではなく、薬や食糧や安全な住居です。あなたなら、この怪我人に「ものみの塔誌」を渡して、「怪我が治ったら集会に来て下さい、私は仲間の困った人を助けに行きますから」と言って、仲間のエホバの証人の助けに向かい、それで「隣人愛」を行ったと自己満足するのではないでしょうか。私はこのエホバの証人の態度は、イエスの教えと全く調和していないと思います。

あなたは、「他のどんな組織よりも神を愛していると公言できます。そして隣人も愛しています。ですから、『しつこい宣教』を行っているのです」と書かれていますが、「神を愛する」と公言することが、神を愛することに必ずしもつながらないことは聖書に書かれている通りです。「しつこい宣教」がほとんどの人にとっては「愛」でもなんでもなく、選挙運動や押し売りと同じ単なる公害であることは、多くの人々の証言からわかるでしょう。あなたは、その人たちが「盲目」だから、公害であると感じるというのでしょうか。これはとんでも無い思い上がりであると思います。確かに親は、子供の嫌がることでも子供のためにすることがあります。しかし、一人前の大人が、別の大人に対して、嫌がってもその人のためになるからといって、迷惑な事をしだしたら、一体どうなるでしょう。歴史的に見て、神の名を使って行われた人民の圧制は、すべて、自分たちは神の意志を行う特権を与えられていると信じることによって行われて来ました。あなたにそのような、自分は他人に迷惑をかける特権があると信じさせるような組織の教え自体に、私は重大な危険と欠陥を感じます。

最後に、私が神の愛に気がつくように願って下さったことに感謝いたします。私は日々、神の愛に感謝して生きております。ただその神は、決してニューヨークのブルックリンにいる老人の集団を通してだけ真理を教えてくれる神ではありません。従って、もしかしたら、あなたの信じている神とは違うのかも知れませんね。あなたが、私と同じ神の愛を感じて生きられる日の来る事を祈っています。