(7-22-99)
「神は一つの組織を使って業を行うのでしょうか?」に対する返事 > ------------------------------------------------------------------------ > > アダムから大洪水まで > 大洪水からシナイ山まで > イスラエル人はどのように組織化されていたでしょうか? > シナイからサミュエルまで > 悪い考えが根付く > 二つの王国、一つの組織? > イエスは「イスラエルの失われた羊」のために送られました > 神はどのようにイスラエルと意思の疎通を行ったのでしょう? > キリストの時代の始まり > 使徒たちは「統治体」であったでしょうか? > エルサレム「会議」は「新しい光」の源だったでしょうか? > 神の聖霊は初期のクリスチャンと共に働きます > 神は個人と同時に、一つの組織も使って業を行うのでしょうか? > 組織とは一体何でしょう? > 「私に来なさい」 > これからどこへ行けばいいでしょう? > あとがき > > ------------------------------------------------------------------------ > > ものみの塔は、神がその僕に伝達し指示を与えるのに常に一つの組織を使って来たと主張します。そ の教えによれば、今日、その神の唯一の組織はエホバの証人であり、彼らはその統治体とその法的な代表 者であるものみの塔聖書冊子協会が、神によって任命された神と人間とのあいだの「伝達の経路」である としています。彼らエホバの証人は、神がその地上の関心事をその組織を通じて指示し、その組織の外側 には救いも神の恩寵の可能性もないと教えられています。「霊に導かれた神の組織」の権威を認めること は、エホバの証人のバプテスマの必要条件にまでなっているのです。 > > ものみの塔協会本部の幹部は、印刷物やその代表者を通して、定期的に詳細な指示を世界中何千に及 ぶエホバの証人の会衆に与えています。彼らは野外奉仕を指導し、教義や組織に関する解説の調整を行い 、宗教上や世俗の事柄を支配する規則や規制を与え、これに従わない者に対する懲罰の仕方を定めていま す。本部の幹部はまた、野外の代表者たちから定期的な報告を受けています。(注1) > > ものみの塔の出版物で使われる「エホバの組織」という言葉は、ただのエホバの崇拝者たちの集まり 以上のものを意味します。この言葉にこめられた意味は、神が常に、地上の神の民の全体の中から選ばれ た個人か、小さなグループに権威を与えて、神から直接与えられた情報や指示を、その他の神に承認され た僕に与えたり、分配したり、解釈させており、神はその承認された「伝達経路」以外では個人個人とは 独立した関わりを持つことはない、ということなのです。 > > そこで、このページで考察してみたいのは次の疑問です。神は、特別の代理人からなる小さなグルー プの人々によって地上で運営されている、一つの組織を通して業を行い、これを無視したり、迂回したり することは本当に許されないのでしょうか?聖書はこれについて何と言っているでしょうか? > > 戻る > > アダムから大洪水まで > > 神はアダムとエバには直接話されました。神は彼らを祝福し、彼らに神が何を望んでいるかを指示し ました(創世記1:28−30)。彼らが罪を犯した後は、神は彼らに質問し、彼らと蛇に直接、判断を 宣告しました(創世記3:9−19)。神はカインとアベルによって捧げられた犠牲を別々に判断しまし た。そしてカインが間違った態度を示すと、神は個人的に彼に指導を与え、罪に対して警告しました。彼 がその兄弟を殺した時には、神はカインを個人として裁きました。(創世記4:6−15) * この時は、地上には人がほとんど住んでいませんでした。また、神と直接対 話する事ができました。今日、だれも神と対話する事はできません。しかし、天 にはすでに「天の軍勢」が作られていました。ですから、天には「組織」があり ました。 > > 長年の族長時代の間には、子供を産み、数を増やし、地上に満ちるようにという、神の人類に対する 命令を守ることにより、神の民は集められるより、もむしろ散らされました。神を中心的な場所で崇拝し たり、グループとして定期的に神からメッセージを得てそれをその他の人々に伝えるような、神の僕の集 団に関する記述は、一貫してどこにも出てきません。 > > 神が地上の不義な者たちを洪水によって一掃しようと決めた時、神はノアを選んで人間と動物の種族 を保存するための指示を与えました。神はノアに直接話しました。(注2)「義の伝道者」(ペテロ第二 2:5)としてノアは予言者、すなわち神のメッセージを仲介する人として活動しました。洪水の後、ノ アはその家族のために神に犠牲を捧げましたが、これはその後何世紀にもわたって継続される一つの型に なりました(ヨブ1:5)。家族の長が神の前にその家族を代表し、それによってこの限られた意味での 聖職者あるいは仲介者の役目を果たしたのです。 *今日のエホバの証人の組織も大きな「家族」です。わたしたちは、仲間の信者 を「兄弟、姉妹」と呼びます。 > > 戻る > > 大洪水からシナイ山まで > > 大洪水の後、神は「子を産んで多くなり、地に満ちよ」という命令を繰り返しました(創世記9:1 )。そして神は個人個人に直接話したり、天使や、予言者の夢や幻を通して意思の疎通を行いました。予 言者は神からメッセージを受けると、それを人々に伝えることを義務づけられていました。反逆者のグル ープが話し合って巨大な塔を建てようとした時、その理由の一つは「地の全面に散らされることのないよ うに」との恐怖でした。エホバ神は少なくともその時点では、その「地に満ちよ」という命令に従わせる ために、全地の言語を混乱させました(創世記11:4、8)。 > > 何百年後、神はその友だちで、優れた信仰の人、アブラハムに対し、彼が「大いなる国民」になるで あろうと約束しました(創世記12:2)。この選ばれた家系は、神の特別の配慮を受け、約束されたメ シアが出てくることになっていました。このことは新たな、より「組織化」された人類との伝達の方法の 始まりを意味するでしょうか? > > アブラハムの家系が大きくなる過程でも、神はその僕たちと直接意思の伝達を行いました。そのよう な人々には、一時的、あるいは長期的に予言者の役割を果たした人々が含まれていました。しかしそのよ うな人々でも、一人の人間が全てを知っていたり、神がただ一つの「経路」あるいは奴隷を使って業を行 っている様子はありませんでした。たとえば、族長で予言者であったヨセフは、、まだ少年として父と一 緒に住んでいた時、将来を予告する霊感を受けた夢を見ました。ヨセフはエホバによりエジプトへ送られ 、ヤコブの家系を一つの国民に育て上げる準備をしました。しかしこの時、エホバはヤコブに、彼が族長 で予言者であるにも関わらず、何をやろうとしているかは知らせませんでした(創世記42:36)。神 の導きにより、75人のアブラハムの子孫がエジプトに移りました。430年後にエジプトを出た時、そ の数は何百万になっていました。 > > 神がその民をエジプトでの奴隷の身から解放しようとした時、神は燃える茂みを通してモーセに個人 的に話し、エホバの名前の後ろにある意味と力をイスラエル人とエジプト人とに示すために、モーセに奇 跡を行う力を与えました。これらのイスラエル人がシナイの荒野で簡単に金の子牛の崇拝を受け入れたり 、その他の信仰の弱さを示す様子から見ると、彼らは、グループとして、彼らの先祖アブラハムが行って いた純粋な崇拝の習慣を保ってはいなかったことを示しています。 > > イスラエル人はエジプトを離れた後、神と特別の契約関係に入りました。彼らは律法を受け取り、そ れによって彼らの道徳的、世俗的、また宗教的な事柄が決められていくのでした。ものみの塔は、これら の事例が、エホバの証人たちが「この世」特にキリスト教世界から解放され、地上の「伝達の経路」を通 して中央化した指示を受け、その結果現在の彼らの組織化された形に築き上げられていった過程と平行し ているとしています。イスラエルは、高度に組織化された、ものみの塔協会の一つの「型」あるいは模式 として使われているのです。しかしこの模式は本当にその通りでしょうか?モーセの律法はエホバの証人 を今日支配しているような中央化した統治機関を作り上げたでしょうか? > > 戻る > > イスラエル人はどのように組織化されていたでしょうか? > > モーセは真の意味で神とイスラエル人との間の「伝達の経路」でした。彼は聖書の中で「仲介者」と 言われています(民数12:7、ガラテア3:19)。その役割において、モーセはイエス・キリストの 前兆でした(申命18:18、19;使徒3:19−23と比較)。モーセはイスラエル人を指揮し、予 言者でした。彼の後継者ヨシュアは指導者ではありましたが仲介者でも予言者でもありませんでしたし、 モーセの兄弟アーロンもその子孫の聖職者たちもそうではありませんでした。これらの人々も、またその 他の部族のメンバーも、レビ人も、すべて宗教的な役割を果たすだけで、管理者や預言者ではありません でした。それでは誰がイスラエル人を指導していたのでしょう? > > イスラエルの国民は実際は一つの家族であり、中央化した政府は必要なかったのです。彼らは家系に よって「組織」されていたのです。イスラエルでは長老と「幾百、幾千の部族の長」たちは、人気投票で 選ばれたのでもなければ、神によって任命されたのでもありません。彼らは代表する民の身内の者なので す。それぞれの部族は家族の集まりであり、共通の祖先から出ており、密接に血がつながっていました。 > > モーセの律法はイスラエル人に道徳的、宗教的規範を与えました。その律法は日常生活のあらゆる場 面で起こる罪深い考えや行いを広範に規定し、またそのような罪に対処する具体的な処置を与えました。 しかしこの律法は人間の作る政府や統治体を設定はしませんでした。この律法の元ではイスラエル人は個 人の良心によって導かれることになっており、人間の支配者が警察力やその他の力によって政府権力を行 使することにはなっていませんでした。罪人や違反者に対する処罰は、それぞれの地域共同体の中で、そ れぞれの人々自身によって長老たちの指導の元に行われました。聖職者たちはそれに伴う捧げものやその 他の宗教的儀式を指導しました。それぞれの個人は自分の行動に対し、神と自分の家族とその地域共同体 とに対し責任をもったのです。これは真の意味での神権的な形の政府でした。すなわち神ご自身がすべて の地上の王に代わって支配していたのです。この形の政府はうまくいったでしょうか? > > 戻る > > シナイからサミュエルまで > > 約束の地に入った後、イスラエル人は約350年間、人間の王や中央化した政府を持ちませんでした 。「そのころイスラエルには王はいなかった。自分の目に正しく見えるところを各自が行っていたのであ る。」(裁き人21:25)このような神権的な体制は混乱にはなりませんでした。結果は大変好ましい ものであったことが証明されています。 > > 神は時に応じ、必要に応じて裁き人を選びました。彼らは指導者でしたが、それは政治的というより 軍事的な意味でした。ある時は二人以上の裁き人がいました。また別の時には全く裁き人はいませんでし た。彼らは特別な統治的権威を持っていたわけでもなければ、イスラエル人に対する王としての役割を果 たしたのでもありません。そこでは神のみが唯一の支配者だったからです。裁き人の書の最後の章では、 特に暴虐な罪に対してこの体制でどのように正義が行われたかを示す、特異な興味ある話が載っています 。 > > 聖書の記録によると裁き人の時代の三分の二以上の時は、その地は平和でした。裁き人が出てイスラ エルを敵から解放した後では、平和であった時代は40年間にわたる期間が三回と、80年間にわたる期 間が一回ありました(裁き人3:11;3:30;5:31;8:28)。裁き人の時代が終わった後で はこんなに沢山の平和な年があったことはありませんでした。実際この期間には、聖書はただ一人の予言 者、デボラという女性予言者のみがイスラエルに送られたと伝えています。それでは何が起こってこの状 態が変えられて、その地に平和を続けることができなくなったのでしょう? > > 戻る > > 悪い考えが根付く > > $B 結局の所、イスラエル人たちは王を望むようになりました。彼らは目に見える中央化した政府が 欲しかったのです。どうしてでしょう?何世代にもわたって平和と繁栄をもたらした神権的な形の統治が うまくいかなかったからでしょうか?そうではありません。それでは彼らを背教から守るためですか?そ うでもありません。それではどうしてでしょう?彼らはこう言ったのです。「そして私たちは、やはり私 たちも、諸国民すべてのようになり、私たちの王は私たちを裁き、私たちの先に立って出て行き、私たち の戦いを戦わなければなりません。」(サムエル第一8:20)それは彼らがその周りにいる異教の国々 と、ただ同じようになりたかったからなのです。この考えは自己中心的、世俗的、非神権的でありました 。そして神はまさにその通りに言いました。サムエルはイスラエルが彼を予言者として拒否したと思いま したが、エホバ神はそれを正しました。神は、彼らの王の要求は、神が彼らの王であることの否定である 言いました。神はイスラエルに対し、中央化した形の政府は多くの困難に至るであろうと警告しましたが 、彼らはそれでも神が人間の王を与えるように要求し続け! $^$7$?!# > (サムエル第一8−10章) > > 神はこの要求を受け入れました。神は先ず有能で立派な人間であるサウルを最初の王に選びました。 しかし時が経つに連れて、サウルが選ばれた理由であったよい性質は腐敗していきました。神はサウルを 拒絶し、代わりに少年ダビデを次のイスラエルの王に選びました。ダビデは「神の心にかなう」(第一サ ムエル13:14)人間に成長しました。しかしこれだけの素晴らしい推薦を受けた人でも重大な欠陥が ありました。ダビデの統治は個人的なスキャンダルと家族の悲劇によって損なわれました。 > > ダビデの息子ソロモンは「全ての人間の中で最も賢い人間」と呼ばれました。彼の40年間の統治は 平和と繁栄と幸福で知られていますが、彼もまた、年をとるにつれて神に忠実でなくなりました(列王第 一11:4−6)。その結果、ソロモンの息子レハベアムが王座に就くと、エホバは国民を、北の十部族 からなるイスラエルと、南の二部族からなるユダとの二つの王国に永遠に分裂させてしまったのでした( 列王第一11:9−13)。 > > ここにイスラエルを支配する中央化した政府は惨めにも失敗したのでした。神がご自身で王を任命し たにも関わらず、その支配はほんの三世代しか続きませんでした。このユダヤの歴史の中でこの時点以降 、イスラエル人と二十世紀のエホバの証人とを比較することは、更により困難で複雑化していくのです。 > > 戻る > > 二つの王国、一つの組織? > > 二つの王国に分裂した後、ユダヤ人にとって全てのことが完全に変わってしまいました。ユダの王国 はダビデの子孫が引き続き王座に就きましたが、イスラエルの王国では幾つもの王朝ができ、時にはその 変わり目に血なまぐさい戦争が起こりました。かれら二つの王国は外部の敵と戦う一方、自分たち同士で も戦いました。それぞれの王国には独自の王の系統がありました。北の王国はエルサレムではなくサマリ アに崇拝の中心を設定しましたが、それは二部族の国の領土にありました。そして彼らはレビ人の祭司の 多くをレビ人以外の祭司に入れ替え、そのことが偽りの崇拝に彼らを導いたのです。 > > この当時のユダヤ人の間での政治状況を、中央化した統治構造を持つ一つの調和した組織になぞらえ ようとすることは、想像を絶することです。一つの国が神に忠実であり、他の国が神に不忠実であったと いう問題ではなく、悪い王はそれぞれの王国に同じ様にいました。神は一つの王国との対応を拒否してし 、もう一つの王国とだけ対応するということはしませんでした。神は予言者をそれぞれの王国に送りまし た。どちらの王国でも不義な王がいたときには邪悪なことが一杯になりました。逆に義を求める王の元で は、一般により純粋な崇拝の形に戻り、神の祝福もありました。 > > 北の王国は紀元前8世紀の半ばにアッシリア王シャルマネセルによって永遠に滅ぼされました。その 後彼らの子孫の一部は、北部パレスティナにある昔の首都であるサマリアに戻りました。イエスの時代に は彼らはサマリア人と呼ばれ、仲間のユダヤ人からは嫌われていたのです。 > > 北の王国が滅びた後、南の王国ユダでは、良い王や、悪い王が出続けました。しかしついに紀元前6 世紀になり、神は彼らを、その不忠実の故に、ネブカドネザル王よってバビロニアに捕囚に取られること を許したのでした。この捕囚の後、比較的小さなグループのユダヤ人がエルサレムに戻り、神殿を再建し 、ユダヤの祖国に再度自分たちの国を確立したのです。しかし他の多くの者たちは二度とパレスティナの 地に戻りませんでした。 > > 神がその友アブラハムに、その子孫が一つの国民になると約束した時から、イエスが来るまではほと んど二十世紀の期間がありました。その間イスラエル人たちは時々は信仰深く一致して崇拝を行っていま した。これは特にイスラエルが王を持つようになる前の何世紀かの間にありました。しかしどのような時 にも彼らは、今のものみの塔の組織に、形でも機能でもわずかでも似ているような中央化した統治体を持 つことは、決して無かったのです。しかしそれでもこの全体の期間の間、彼らは神の選ばれた民でした。 どうしてそれがわかるでしょうか? *イスラエルは年に3回、エルサレムの神殿で「エホバ」を崇拝していました。 それ以外の方法でエホバを崇拝する人もいましたが、聖書によると、それは神に は受け入れられませんでした。その時は、崇拝する場所が重要でした。今日、崇 拝の場所は重要ではありませんが、崇拝する方法は重要です。真の崇拝者は、 「霊と真理を持って」父を崇拝しなければなりません。 > 戻る > > イエスは「イスラエルの失われた羊」のために送られました > > イエスが登場してくる時代になるまでには、イスラエルの国民は組織化とはほど遠い状態になってい ました。彼らは外国人によって支配されていたのです。彼らは純粋な崇拝を行っていませんでした。彼ら の大部分は(十部族の王国に残された者とバビロニアの捕囚の後パレスティナに戻らなかったユダヤ人の 大多数の子孫)は地球全地に散らばりました。これらの散らばったユダヤ人たちは多くの国や支配者によ って統治されていました。信仰においても彼らは分裂していました。彼らは律法に粉飾を加え追加したた め、たとえば安息日の単純であった命令でさえ、ほとんどそれに従うことを不可能にしていました。エル サレムで行われた崇拝は商業主義と無意味な儀式や形式主義で腐敗していました。 > > このような状況の中でも、イエスの宣教の業は異邦人にではなく、ユダヤ人とサマリア人に向けられ ていたのです。何故でしょう?それはイエス自身の言葉にあるように、彼は「イスラエルの家の失われた 羊」(マタイ15:24)に遣わされたからです。彼らの不忠実と背教にも関わらず、彼らはそれでも神 の選ばれた民でした。そして彼らが最終的にメシアを拒否した後で初めて、彼らの「家は彼らのもとに見 捨てられた」のでした(マタイ23:38)。 > > 戻る > > 神はどのようにイスラエルと意思の疎通を行ったのでしょう? > > 聖書には、神がいかにその民と意思の疎通を行ったかの例が沢山出てきます。神はある人には直接話 し(創世記46:1−4;ヨシュア8:1)、ある時は天使を通しました(裁き人6:11−24;13 章)。その他の人は、予言者も含めて幻や夢を受け取ったこともありました(列王第一3:5−15;9 :1−9;イザヤ1:1;アモス7:1−9;エゼキエル1:1)。しかし大部分の神のメッセージは予 言者を通して伝えられました。ヘブライの1:1では「神は、昔には、多くの場合に、また多くの方法で 、預言者たちによってわたしたちの父祖に語られました」とあります。 > > 預言者は神の民が一番不忠実な時に最も頻回に現れました。彼らは単純に神からのメッセージをもら い、それを他の者たちに伝えました。これらの神からのメッセージは、神の民が偽りの崇拝から離れるよ うに警告し、律法を守り、真の崇拝を行うことを、預言者を通して命じました。これらの預言者はだれが 任命したのでしょうか?彼らは国の指導者や、聖職者や他の預言者によって選ばれたのではありません。 彼らは神自身によって、また聖霊によって任命されたのです(民数11:24−29)。 > > 律法の中には預言者の任命の規定はなく、また預言者を公式に権威付ける手続きもありませんでした から、自分が預言者であると称する人間が確かに神を代理する人であると決めることは、一人一人の個人 のイスラエル人に任されていたのです。律法には真の預言者を見分ける三つのしるしが書いてありました 。1.預言者はエホバの名前によって語ること。2.預言は実現すること。3.預言は真の崇拝を勧める こと。(申命18:20−22;13:1−4) > > 聖書の記載によれば、預言者の仕事は彼らに権力や名誉をほとんど与えませんでした。預言者たちは 人気がありませんでした。彼らのほとんどは神の選ばれた民によってひどく扱われました。多くの者が国 の指導者により、無惨に迫害されたり殺されたりしました。 > > 神の預言者たちは一度でも中央化された機関として組織され、イスラエルの国民に指示を与えたでし ょうか?聖書は預言者たちのグループについてサムエル第一10:5、10;列王第二2:3、5と4: 38などの何箇所かで言及していますが、これらのグループは決して神からの決められた「伝達の経路」 として活動したことはありませんでした。実際ある時は、ある預言者たちは他の預言者たちのことを知り ませんでしたし、他の真の崇拝者のこともしりませんでした。 > > たとえば、北の王国が不忠実になった期間に、預言者エリシャは自分だけがイスラエルの中でただ一 人バアルにひざをかがめて崇拝しなかった者と信じていました。しかし神は彼に対して「わたしはイスラ エルの中に七千人を残しておいた。すべてそのひざがバアルにかがまなかったもの、皆その口がそれに口 づけしなかった者である」と明らかにしました(列王第一19:18)。これらの信仰深い人々は、権力 の座にいた油をそそがれた王には忠実でない者と見なされていたにちがいありません。しかしこれらの人 々は、どのような形のグループにも組織されてはいませんでした。これらの人々は、神の不忠実ではあっ ても神の選ばれた民である人々の中にあって、静かに忠実な神への個人的信仰に生きていました。 > > キリスト以前の全ての時代を通して、国の指導者が忠実であるか否かに関係なく、神に忠実な信心深 い個人がいたことを、聖書は伝えています。このことはイエスが現れる直前まで続きました。シメオンと いう義なる預言者は幼少のイエスを見て聖霊によって与えられた預言の成就を見ました。女預言者アンナ のことも述べられています。(ルカ2:25−38) *預言者は直接神と対話できました。今日、預言者はいませんし、直接神と対話 ができるのは「大いなる預言者」であるイエスだけです。 > > 戻る > > キリストの時代の始まり > > イエスの到来は、神と人との間の新しい伝達方法の開始というより、新しい代弁者の登場と言った方 がふさわしいでしょう。ヘブライの1:2は「これらの日の終わりには、(神は)み子によって語られま した。神は彼をすべてのものの相続者に定め、また彼を通して事物の諸体制をつくられました」と言って います。イエスはこの地上に、彼の関心事を代表する目に見える組織を確立しようとしていたのでしょう か、それとも個々の一人一人の個人のクリスチャンが「キリストの代理をする大使」(第二コリント5: 20)になるように希望していたのでしょうか? > > イエスが注意深さの重要さを勧めるたとえ話をした時、「ペテロがこう言った。『主よ、この例えは わたしたちに話しておられるのですか、それとも、みんなにもですか』。すると主はこう言われた。『主 人が、時に応じてその定めの食糧を与えさせるため、自分の従者団の上に任命する忠実な家令、思慮深い 者はいったいだれでしょうか。主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです 。真実をこめてあなた方に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでし ょう』。」イエスはこれに続いて忠実でない奴隷の様々な可能性を示した後、結論として、『その時、自 分の主人の意向を理解していながら用意せず、またはその意向にそって事を行わなかったその奴隷は、何 度も打ちたたかれるのです。しかし、理解していなかったために打たれるべきことをした者は、少なく打 たれます。実際、だれでも多く与えられた者、その者には多くのことが要求されます。そして、人々が多 くをゆだねた者、その者に人々は普通以上を要求するのです』と言いました(ルカ12:41−48)。 > > ものみの塔はこの部分と平行しているマタイ24:44−51のイエスの修辞的質問を、彼らがただ 一つの「忠実で思慮深い奴隷」であり、「主人のすべての持ち物」を委れられているという権威を握る根 拠として使っています。しかしこのマタイのたとえ話をそれと平行する上記のルカ12:41−48と比 較してみるなら、様々な奴隷がいくつもの宗教組織を指していて、それぞれの組織がその知識の度合いに よって、様々な責任を要求されるということになりますが、これは非常に困難な解釈です。この部分はや はり、個々のクリスチャンが、常に他人、特に他のクリスチャンに対する適切な態度をとることの重要さ を意識して、常に誰もが、上位の主人に答えなければならない日が来ることを覚えるべきことを奨励して いるとするのが、最も意味が通じるのです。 *「忠実な家令、思慮深い者」は「従者団」の上に任命されたのです。ですか ら、宗教組織を表しています。 > > 戻る > > 使徒たちは「統治体」であったでしょうか? > > もしイエスが、それを通して聖書の漸進的理解を明らかにするような「伝達の経路」を確立したいと 考えたなら、その忠実な使徒たちこそ、そのような「新しい光」が示されるはずでしょう。しかし聖書の 記録はそうではないことを示しています。確かに使徒のある者たちは、霊感を受けて記録された聖書の、 キリスト教の発展の記録の中で登場してきます。しかし、聖書の一部の記述に関わったのはそのうちの、 マタイ、ペテロ、ヨハネ、の三人に過ぎません。12人使徒のその他の者たちはキリスト教の発展と拡張 の過程で、例えばパウロ、バルナバ、シラス、テモテなどに比べると、それほど顕著な存在ではありませ んでした。そして大部分の霊感を受けて書かれたキリスト教聖書は12使徒以外の者たちにより書かれま した。その執筆者の中で特に重要なのはパウロですが、それ以外にもマルコ、ルカ、ヤコブ、ユダなどが 含まれます。 > > イエスの誕生、死、そして復活は多くの預言を成就しましたが、それは使徒たちの時代の宗教指導者 の期待とは異なった形で行われました。そのためにクリスチャンたちは、それを理解する手助けが必要で した。イエスが救世主であるという真理は、初期のクリスチャンたちにどのようにして明らかにされたの でしょう?ルカの24:13−35によれば、イエスは復活した同じ日に、エマオに向かう途中の二人の 弟子に現れて、「モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全巻にある、ご自分に関連した事柄を彼 らに解き明かされた」のです。これらの二人の弟子は12使徒ではなく、一人はクレオパという名前であ り、もう一人は多分その妻でした。このヘブライの預言がいかにイエスに当てはまるかの完全な説明は、 神の啓示の一つの顕著な例でした。イエスは彼らとともに食事をした後、彼らを後にしました。この二人 の弟子は直ちにエルサレムに帰り11人の使徒に会って、イエスと会ったことを話しました。彼らがその 話をしている時に、イエスはその集まりの真ん中に現れたのでした。 > > イエスは天に昇られる前に、彼が全ての事柄に自分が責任を持つ権威を与えられていることを11人 の使徒たちに示されました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ、行 って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し、わたしがあ なた方に命令した事柄をすべて守り行うように教えなさい。そして、見よ、わたしは事物の体制の終結の 時までいつの日もあなた方と共にいるのです。」(マタイ28:18−20) > > イエスは死を前にして、使徒に対して、彼が天に戻った後、彼の地上での役目を引き継ぐ援助者、あ るいは助言者を送ることを約束しました。「そしてわたしは父にお願いし、父は別の助け手を与えて、そ れがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり、...あなた方はそ れを知っています。それはあなた方のもとにとどまり、あなた方のうちにあるからです。」(ヨハネ14 :16、17)その後、更に聖霊の役割についてイエスはこう語っています。「しかし、その者、すなわ ち真理の霊が到来するとき、あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。彼は自分の衝動で話すのでは なく、すべて自分が聞く事柄を話し、来たらんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです。その者は わたしの栄光を表すでしょう。彼はわたしのものから受けて、それをあなた方に告げ知らせるからです。 」(ヨハネ:16:13−15) > > この聖霊の働きは、イエスが戻って来て新しく造られた教会を組織し、聖霊の任務、すなわち使徒た ちに食物を与え、彼らを「導いて真理をことごとく悟らせ」、イエスの代理として話すことを引き継ぐま での、初期のクリスチャン教会の出発から一世代位の間の、短い期間に限られていたのでしょうか?そう ではありません。イエスは聖霊が彼らとともに「永遠に」いると言っており、代わりの者はいらないので す。 *「あなた方」と複数形になっている事に注目。聖霊は使徒という「団体」の 上に注がれました。 > > イエスは復活後、聖霊を通して常に彼の使徒たちと継続的に連絡を保っているため、イエスがその指 図や指導のために、使徒たちを指導して中央化した人間の代理者たちによるグループを形成する必要はな かったのです。イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にい るのである」(マタイ18:20)と言った時、イエスの意図は他にはなかったことがわかります。 > > 戻る > > エルサレム「会議」は「新しい光」の源だったでしょうか? > > ものみの塔は、福音が世界中に広まり始めた都市である、エルサレムの会衆の長老たちが、ちょうど エホバの証人の統治体のような役割を果たして、他の会衆のクリスチャンにとって重要な事柄を決定した り、真理の理解の増加の源としての役割を果たしたりした、と述べています。ものみの塔によれれば、エ ルサレムの長老たちは、割礼に関する論争が起こった時に、そのような役割を果たしたと言います。本当 に聖書はそのように教えているでしょうか?この割礼の論争の発展と解決の過程で、エルサレムの会衆の 役割はどのようなものだったでしょう。イエス自身と聖霊はどのように働いたでしょうか?使徒15:1 −35とガラテヤ2:1−14を読んでその記録を調べてみましょう。 > > 「使徒たちの活動」の書によれば、この論争は、一部の人がエルサレムから(あるいは「ヤコブのも とから」ガラテヤ2:12参照)アンティオキアにに来て、パウロが異邦人の信者に教えたこともなかっ た、何か新しい教えを教え始めた時に始まりました。エルサレムからもたらされた「新しい真理」とは何 だったでしょうか?彼らは「モーセの律法が必要としている割礼を受けなければあなた方は救われない」 と教えたのです。この教えはイエスがパウロ自身に示された、人は信仰のみによって救われるという教え と、真っ向から反するものでした。パウロはこの「新しい教え」に強く問題を提起しました。しかし、エ ルサレムから来た人々は、彼らが自分が正しいとして譲りませんでした。そこで、パウロとバルナバはエ ルサレムに行き、この問題に関して使徒や長老と会うことにしました。ガラテヤ書のパウロ自身の記述に よれば、彼は直接、主の指示を受けてエルサレムに行きました。そこで分かったことは、一部のユダヤ人 のクリスチャンが実際に、割礼は救いにとって必要であると教えていたことでした。 > > パウロ自身がガラテヤの会衆に送ったこの状況に関する記述によれば、彼はそこで会衆の「おもだっ た人たち」、すなわち主要な長老たちと個人的に会見しました。彼は「自分が諸国民(異邦人)の間で宣 べ伝えている良いたよりを彼らの前に示しました」。これらの神に仕える人々は、聖霊の導きに従って、 自分たちが間違っていたことを認め、パウロを通してキリストから与えられた訂正を受け入れました。そ して、より大きな集会で、それを指導している他の長老たちと一緒に全員が、聖霊の導きのもとで、正し い見方に到達したのでした。そこで彼らはアンティオキアの異邦人に対して特別に宛てた、陳謝の手紙を 書き、ユダヤ人と異邦人との間の平和のため、また彼ら自身の健康と繁栄のため、避けるべき事柄を示し たのです。(注3) > > この集会から何か新しい理解が生まれたという証拠はどこにもありません。エルサレムの長老たちは 指示を与えたというより、訂正させられたのでした。この記述は、エルサレムに「統治体」の人々がいて 、規則やきまりを作って他のすべてのクリスチャンに伝えていた、という証拠を示すことにはなりません 。むしろ実際は、その正反対であることを示しています。ここに見られる証しは、明らかに神の聖霊が信 仰ある個人を通して働き、クリスチャンの会衆を間違いに陥らないように導いていることを示しています 。 *当時、新約聖書を全巻読む事ができたのはなぜでしょう。それは、すべての会 衆に巻き物の写しが回覧された為です。個人が持っていたのではありませんよ。 そうした回覧ができたのは何らかの組織があった為でしょう。 > > 戻る > > 神の聖霊は初期のクリスチャンと共に働きます > > イエスは「高い所からの力を授けられるまでは」エルサレムに留まるように使徒たちに命令しました (ルカ24:49)。その時はペンテコステの時に来ました。ペテロはそこで発言して、ヨエルの預言を そこに起こったことに当てはめました。その預言の中には、クリスチャンの時代の時のすべての時に実現 される次の事柄が含まれていました。「そして終わりの日に、わたしは自分の霊の幾らかをあらゆるたぐ いの肉なる者の上に注ぎだし、あなた方の息子や娘たちは預言し、あなた方の若者たちは幻を見、老人た ちは夢を見るであろう。そして、わたしの男奴隷の上にも、女奴隷の上にも、わたしがその日に自分の霊 を注ぎ出し、彼らは預言するであろう」(使徒2:17、18)。この預言は神が、キリスト以前の時代 と全く同じ様に、聖霊を通してクリスチャンたちと直接、幻や、夢や、預言者によって、意志の疎通を行 うと言っているのです。聖書の記録はこの通りになったことを示しているでしょうか? > > 「使徒たちの活動」の書には、ヨエルの預言が成就していることを明らかに示す多くの記述がありま す。そこには、初期のクリスチャン会衆において、イエス自身の他、聖霊や、天使や、幻、夢などが大変 活発に関わっていたことが示されています。これには、個人の改宗の経験、会衆の拡大、使徒や宣教者の 選択と導き、会衆を偽の教えによる腐敗から守ること、クリスチャンたちを艱難と試練を通して励まし助 けること、そしてその後何世紀にもわたって、クリスチャンが必要とするすべての基本的な情報となる、 キリスト教聖書の記録と保存の導きなどが含まれていました。キリスト教の成長する中で、その基本的な 部分でイエスと聖霊の直接の導きと指示のなかったものはありませんでした。 > > フィリポとエチオピアの宦官の例を見てみましょう。フィリポはサマリアで神の言葉を宣べ伝えてい ました。その時、天使が彼をエルサレムからガザへ下る道に行かせました。その途中で彼はエチオピアの 宦官に会いました。聖霊がフィリポに指図して、宦官のいる兵車に行かせました。フィリポが宦官にバプ テスマを授けた後、神の聖霊がフィリポを去らせました(使徒8:26、29、39)。 > > コルネリウスという、神を畏れる信仰心のあつい人の例を見てみましょう。彼は幻で神の天使を見、 天使は彼にヨッパへ人を送ってペテロを連れてくるように指示しました。一方ペテロは屋上で祈っている うちに恍惚状態になり、それまでは汚れたものと考えられていたものが、清いものであると言う声を聞き ました。聖霊はペテロにコルネリウスから使わされた人たちのことを教えました。ペテロはコルネリウス の家に行き、そこに集まった多くの人々に福音を宣べ伝え、彼らはクリスチャンとなったのです(使徒1 0:1−46)。 > > イエスご自身がサウロを改宗させました(使徒9:3−6;15)。サウロ(パウロ)は、聖霊の影 響のもとにユダヤ人以外の人々の間にクリスチャンのたよりを伝えるのに、弟子たちの間で飛び抜けて優 れていました。彼はたくさんの会衆を始めました。誰がパウロにこれらのことをするように言ったのでし ょうか?それはエルサレムの会衆でしたか、あるいは彼の宣教旅行の出発地であったアンティオキアの会 衆だったでしょうか?いずれでもありませんでした。サウロとバルナバが宣教師として任命され、送り出 されたのは聖霊の具体的な指示によったのでした(使徒13:1−4)。 > > 記録によりますと、パウロによって宣教された人たちは、エルサレムやその他の地の長老のグループ よりは、自分でキリスト自身を仰いで導きを得ることを指示されました。パウロが、真夜中すぎの奇跡的 な牢からの開放の少し後、フィリピの牢番に対して語った時、彼は看守と「その家の人たち全部に」ただ 主の言葉を語ったっだけでした。そして夜明け前には、彼の家族全員が(多分子供や使用人も含めて)バ プテスマを受けました。パウロはその後で、地元の会衆に彼らを導いて、その「訓練」を終えるように言 ったでしょうか?いいえ、そこには一つも会衆はありませんでした。そこにいたのは、ただ、もう一人最 近改宗したばかりのリディアという女性がいるだけでした(使徒16:30−34)。 > > これ以外にもたくさんの例が挙げられますが、それらの教える点は明らかです。初期のクリスチャン を導く最も重要な役割を果たしたのは、人間や人間のグループではなく、イエス・キリストご自身と聖霊 であったということです。パウロとその随行者たちを宣教旅行の間、導き、危険から救い、彼らの努力の 結果であった諸会衆へ霊感を受けた手紙を書かせたり、また監督を任命したのも、みな聖霊の導きにより ました(使徒20:28;32,33)。 > > クリスチャンたちも、イスラエル人と同様、本物の預言者と偽預言者とを見分け、それらの教えを見 分ける方法を持っていました。使徒ヨハネがこの問題について語った時、彼は決して組織による承認など には触れていません。彼はむしろ、「霊感の表現」(新世界訳)あるいは「霊」(新共同訳等)を試して みるように言いました。「イエス・キリストが肉体で来られたことを告白する霊感の表現はすべて神から 出ていますが、イエスについて告白しない霊感の表現はどれも神から出たものではありません。しかもこ れは、来るであろうとあなた方が聞いていた反キリストの霊感の表現であり、今やそれはすでに世にある のです」(ヨハネ第一4:2−3)。ヨハネは、霊や、神からであると言われるメッセージの内容を判断 する基準として、その預言の出所や、預言者の行動に注目してはいません。むしろ、預言者は、その注目 する内容によって判断されるのです。つまり、もしその注目する点がキリストとその救済の業であればそ れは神からのものであり、そうでなければ反キリストからのものなのです。啓示19:10も参照して下 さい。 *「イエスについて告白しない霊感の表現」は、新共同訳では「イエスのことを 公に言い表さない霊」となっています。今日、イエスのことを「公に」告白す る、つまり宣べ伝えているのはどの組識でしょうか。 > 戻る > > 神は個人と同時に、一つの組織も使って業を行うのでしょうか? > > 神が常に個人を通して、ご自分の意志を伝達していたことを示す圧倒的な証拠が示されると、ある人 はこう尋ねるかもしれません。神は、ある事柄については個人を対象として意志の疎通をされ、それ以外 の事柄については預言者としての役割を果たすような神の是認した一つの組織を通して、意志を疎通して いる可能性はありますか?この考えは、一つの組織が人間と同じように振る舞えるという考えに基づいて います。一つの組織と交わっていると、その構成員はその影響で、指導者の見方をまねし、似たようなや り方で自分を表現し、一致したやり方で行動します。そうなると、組織になにかそれ自体の「心」がある ように思えてきます。しかしそれは違います。組織が独立した考えや、感じ方、あるいは意見を持つこと はあり得ないのです。それは一人の人間のような独立した存在ではないのです。 > > $B 個人が集まってその努力を寄せ集め、ある仕事を遂行したり、目的を達成したり、交わりを分か ち合ったりしたいと希望する時、組織は形成されます。大きな組織もあれば、小さな組織もあり、緻密に 組織されたものがあれば、緩やかに組織されたものもあります。そのグループの構成員は、商売をする目 的で法的な団体を形成するかもしれません。指導者や代表者を任命し、その構成員に様々な仕事を割り当 てるかもしれません。彼らはまた、運営方法や行動の規則を確立し、その目的達成の過程でそれらに従わ せるかもしれません。確かに一つの組織が何かを達成するという表現は聞かれますが、実際には組織のど のような活動も、その個人個人の構成員が一人あるいは一緒になって行う仕事と切り離すことはできませ ん。すべての考えや行動は個人から来るのです。その構成員と切り離しては、組織はどのような発想を起 こすことも、伝えることも、実行することも全くできないのです。つまりどのような意志伝達も、「組織 」から来るものは、たとえどんなにその構成員が一生懸命にグループを代表して話すように努力したとし ても、実際にはそれは個人から出ているのです。このこと! $O$^$?!"?? > 面目なエホバの証人が時にどんなに努力して、ある事柄についての「組織の見方」を見極めようとして も、書いてある内容と話される内容とが食い違っているために、それが非常に難しいことであることの理 由でもあります。それは、異なった人たちが異なった見方を持って、伝達内容を作り出しているという、 単純な理由によるのです。 > > 組織はただ単に、あることを行う方法を提供するだけのものです。組織には、それ自体の見解も、記 憶も良心もありません。組織には愛も憎しみもなければ、感情や感覚もありません。行うことが正しいか 間違っているかということもありません。組織はそれ自体では何もできないのです。そこにいる人間のみ がこれらの事を行うのです。そして人間が神と関係を持つ時(あるいはその意味では誰との関係であって も)、それはただ一人で行われるのです。 > > 第二次世界大戦の後、ナチスの組織は戦争犯罪の裁判にはかけられませんでしたが、その組織と関係 した個人個人が裁判にかけらました。組織が犯罪を冒したり、処罰されたりするのではありません。組織 ではなく、人間が責任を持つのす。それだからこそ、イエスが栄光のうちに戻って来る時のことについて 述べた時、彼は「羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます」と言いました。それ に続けて彼は、その裁きの基準を、組織の規則や信条に対する盲目的な忠誠ではなく、個人の行いに基づ かせることを示しました(マタイ25:31−46)。 > > このことは何も、組織というものがそれ自体間違っているとか、悪いものであるとかと言うことでは ありません。ただ、組織は組織であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。 *マタイ25章34節をよくご覧ください。羊に対して王は「さあ、わたしの父に祝 福された”者たち”」と呼びかけています。彼らは組織立っています。 > 戻る > > 組織とは一体何でしょう? > > 英語の組織に当たる言葉「Organization」はギリシャ語の言葉オルガノン(organon)に由来してい ます。この言葉は手段、器具、道具といった意味です。つまり、組織は単なる人の集まり以上のものを意 味します。道具や器具と同様、組織はある目的を達成したり、組織そのものの外にいるあるグループに対 して影響を与えるために作られます。この組織という言葉は商売、政治活動、労働組合活動などに関係し て最も頻回に使われます。これらの活動ではみな、多くの個人の資質を集めた力に依存して、それを使っ て、一人の個人では達成することの困難であるようなある目的を達成するのです。 > > コンコーダンス(聖書用語索引)によれば、オルガノンという言葉は聖書には一度も出てきませんし 、またその概念も聖書にはありません。道具、手段などと訳されているヘブライ語は文字通りの意味に使 われており、これらの言葉が、神の是認した崇拝者たちを集合的にさして使われている所は聖書にはあり ません。むしろ、聖書の中ではクリスチャンは「会衆」「教会」「体」などと呼ばれていますが、この存 在理由は、その「体」そのものの中にあるのです。確かに彼らは、「体」の外にいる人々に影響を及ぼす かもしれませんが、真のクリスチャンが生きている理由と目的は、その「体」の頭であるイエス・キリス トのみなのです。個々の信者と頭であるイエスとの強力な個人関係は、ギリシャ語新訳聖書の中で繰り返 し強調されています。 > > 聖書の中の信者の集まりに関する記述とは対照的に、ものみの塔の出版物においては、神が宣教の業 や、審判の発表や、その他の活動を行うための道具として使うという、「目に見える組織」の概念が非常 に強力に重視されています。そこには商業、政治、労働組合などの組織に共通して見られる特徴が常に見 られます。指導者の小さなグループが、他の組織の構成員のために決定をして指示をする権限を与えられ 、構成員はそれに文句や質問をすることなく従うことが要求されます。そしてこれも商業、政治、労働組 合に共通していますが、組織そのものに対する忠誠が重要な概念になります。このような状況では、個人 的な良心や判断は「一致」(その実際は「一律」)に比べて重要ではなくなります。組織の指導部に従わ なければ、それはもはや組織ではなくなるからです。 > > これの意味するところは、組織の唯一の権威は、組織の規則と決まりに従う何人かの個人の心の中に あるということです(ローマ6:16と比較して下さい)。組織の代表者によって作られた指示に従うこ とが、組織への忠誠と考えられるようになります。しかし、実はそれは組織への忠誠ではなく、ただそれ らの指示を作り上げた、何人かの個人への忠誠に過ぎないのです。組織はそれ自体の意志はありません。 組織には人格はなく、独立した意志も知性も能力もないからです。しかしこの単純な事実は、多くの個人 が努力を寄せ集めることによって巨大な仕事が達成できる証拠を突きつけられると、とかく見失われがち です。しかし巨大な建物の数々や、その他の物質的な達成は、神を感心させませんし、神の支持や祝福を 得られるとは限らないのです(創世記11:6)。 > > 宗教組織の指導者が目に見える「成功」のしるしを見せて、それが神が彼らを祝福している、あるい は神が彼らの仕事を後ろ盾をしていると言う時、わたしたちは、その言葉に圧倒されたり、だまされたり するべきではありません。神の能力と手段は絶対に限りがありません。神は、彼の手段を増やす目的のた めに、建物や、印刷機械や、金銭的援助を必要としていませんし、あたかも神には自分ではできないこと があるかのようにして、組織の機能を使う必要など一切ないのです。 > > 神には、組織が持つような限界はありません。たとえば、組織の規則やきまりはグループ全体の人々 の行動を規制する最もよい妥協の産物かもしれまんが、そのグループのある個人にとっては不当なもので あるかもしれません。それに対して、神は全ての人に個人個人にあった指示を与えて下さいます。わたし たちは、天にいる父が、われわれ個人個人の必要を知っていて、一番よくあった方法でそれを与えてくれ るという事実に信頼をおくべきでしょう(マタイ6:31−33;ヨハネ第一5:13−15,20)。 > *神は天に「組識」を作られています。神御自身でさえ、「組識」のルールを守 られておられます。例えば、万有引力の法則。神はこの規則を守るいわれはあり ませんが、宇宙の天体という「組識」の為、あるいは人の為、この規則を守って おられます。他にも、「天使たち」にもいろいろな仕事を与え、組織立てていま す。全能者ですから、このような組織を作らずとも一人でやっていけるはずなの に、作られるのです。ですから、当然、人にも組織を与えられたはずです。
《編集者より》
このメールも、先の二つのメール、「「イエスはどのような神なのか−ヨハネの書1:1の解釈」に対する意見」と、「「敬愛する長老へのお手紙−『この世代』というのは1914年の出来事を見た世代ではないのですか」に対する返事」と同じ人が書かれたものです。なお、質問者がウェブページの全文をコピーして質問をその中に混ぜていますので、質問だけは文字の色を変えて表示しました。また質問の内容がかなり重複していますので、選んでコメントします。
先ず、この質問者が前の質問で自己撞着に陥っていることを指摘しましたが、ここでは、論理のつながりの無さが目立ちます。例えば、次のコメントは本文とは何の関係もありません。親密な団体は皆「家族」のようだと言いますし、お互いを「兄弟、姉妹」と呼ぶことは、多くの政治・宗教団体で行われており、珍しくはありません。そのことと、この論文の主旨とは何もかみ合ってはいません。
*今日のエホバの証人の組織も大きな「家族」です。わたしたちは、仲間の信者 を「兄弟、姉妹」と呼びます。
次に、この質問者の質問で繰り返されるテーマは、聖書に描かれている神に是認された人々が「組織だっていた」ということです。
*マタイ25章34節をよくご覧ください。羊に対して王は「さあ、わたしの父に祝 福された”者たち”」と呼びかけています。彼らは組織立っています。
あなたの論理の飛躍は、「組織だっている」ことが、すなわち現在のものみの塔協会のような、唯一絶対の真理を独占する、綿密に構築された組織をエホバが使ってきたことを意味する、という結論です。そもそも人間が何人か集まって一緒に何かを行う時に、なんらかの「組織だった」行動がなければ、その人間のグループは混乱状態になります。そんなことは、聖書を読まなくともあなたの議論を聞かなくとも、常識でわかることです。この論文の主題はそんなことが問題なのではなく、神が常に、地上の神の民の全体の中から選ばれた個人か、小さなグループに権威を与えて、神から直接与えられた情報や指示を、その他の神に承認された僕に与えたり、分配したり、解釈させてきたという、エホバの証人とものみの塔の主張に対し、聖書に基づいて、そうではないことを示したものです。神が時に「組織だった」人間の集団を使おうとも、そのことはものみの塔のような絶対的、排他的権威の存在を意味しませんし、あなたはこの点に関して何も反論はしていません。
次のあなたの意見も、論理のつながりの無さと質問の的が外れていることは、明らかです。
*神は天に「組識」を作られています。神御自身でさえ、「組識」のルールを守 られておられます。例えば、万有引力の法則。神はこの規則を守るいわれはあり ませんが、宇宙の天体という「組識」の為、あるいは人の為、この規則を守って おられます。他にも、「天使たち」にもいろいろな仕事を与え、組織立てていま す。全能者ですから、このような組織を作らずとも一人でやっていけるはずなの に、作られるのです。ですから、当然、人にも組織を与えられたはずです。
「法則」「規則」と「組織」とは異なる概念です。引力や宇宙と、ここで問題にしている人間の集まりである「組織」とが同じはずだというのも、全くの論理の飛躍でしょう。しかし、あなたに譲って、神が人を「組織だてた」としましょう。そのことが、ものみの塔の絶対的、排他的組織以外にないという、ものみの塔自身の主張にどうつながるのでしょうか。あなたの議論は、「当然、人にも組織を与えられたはずです」という漠然とした感情的な答でしかありません。