「ものみの塔とイエス・キリストとの比較」に対しての反論

(7-17-99)

「ものみの塔とイエス・キリストとの比較」のウェブページに対する反論が寄せられました。

 「ものみの塔とイエス・キリストとの比較」に対して

貴殿の質問に対し及ばずながらわたしが回答します。
  あなたの質問:@一体いつ、どこで、イエスは「羊」を集めるのに、ものみの
塔の組織のような目に見える組織だけを使うと言ったでしょうか。A確かにイエ
スは羊に呼びかけて集めているでしょう。でもそれはイエスが直接私達に呼びか
けて集めるのであって、イエスによって集められるには誰か代理人や経路を通さ
なければいけないとは言っていません。どうして証人の方たちは、立派なビルデ
ィングや大きな大会を見なければイエスの集めた人々を見ることができないと考
えるのでしょう?B 私の目には多くのキリストに直接従う人々がクリスチャン
の人々の中に散らばって存在しているのが見えます。これらの人々はイエスの
いう羊ではないでしょうか?C確かに多くの教会や教派は人間の作った組織で不
完全で欠陥だらけです。しかしその中にいても、ある人達はしっかりとイエスに
集められているのではないでしょうか?Dそれらの人々は確かに私達の目には一
つの組織とは見えません。しかしどうしてイエスはものみの塔のようなわれわれ
の目に見える組織だけを使うと信じ込まなければならないのですか?Eイエスは
イエスだけに見える人の集まりを作っているかもしれません。そもそも、イエス
ご自身われわれの目には見えない存在ではありませんか?

  私の答え:@イエスがお始めになった真のキリスト教は一つでした。ですから
今日、エホバ神の真の崇拝者の組織体、もしくは団体は一つしかないはずです。
(ヨハネ 4:23,24。エフェソス 4:4,5) 聖書は、命に至る狭い道を歩んでいるの
はほんのわずかな人だけであると教えています。―マタイ 7:13,14。 
A聖書は、「忠実で賢い僕」にすべてのものをつかさどらせると述べてい
ます。(マタイ 24:45)B福音書の中には「多くの偽預言者」が起こることが
述べてあります。(マタイ 24:11)彼らはさまざまな強力な業を行いますが、
キリストから「邪悪な者」と宣告されます。(7:23)なぜですか。彼らは「天
の父の御心」を行わなかったからです。(7:23)では「天の父の御心」とは何
ですか。「神のご意志は、あらゆる者が救われてキリストの正確な知識に至る
こと」でした。ですから、真のキリスト教はあらゆる者が救わ
れるために全地で宣べ伝える業を行っているはずです。CB参照 Dものみの塔の
ような組織は西暦1世紀からありました。使徒行伝を読むと、異邦人たちが割礼を
受けるべきか問題が生じたとき、エルサレム教会の長老や監督たちが集まってこ
の問題を協議したことがありました。彼らは、異邦人たちに割礼は必要ないが
「血と、絞め殺された動物の肉と、みだらな行い」を避けるよう、すべての教会
に通知しました。(使徒15章)ですから、彼らはエルサレムにひとつの組織を持
っていたことが分かります。E確かに、イエスの臨在は私たちの目には見えま
せん。イエスは世を去られる際、「わたしは…雲に乗ってくるでしょう」と言わ
れ、イエスの再来が目には見えないことを述べています。しかし同時に、「[真の
クリスチャン]はわたしを見る(認識する)でしょう。」とも言われました。です
から、真のクリスチャンはイエスを霊的な目で「見て」います。西暦1世紀、イエ
スは数多くの人に哀れみを示されました。そのような方が「イエスだけに見える
人の集まり」などお作りにはなられないでしょう。

《編集者より》
ご意見を頂きありがとうございます。ものみの塔協会の教義を強力に擁護しているお答えの内容から、私はあなたが現役のエホバの証人であると理解させていただきました。違っていたらお知らせ下さい。以下に私の意見を述べさせていただきます。

@イエスがお始めになった真のキリスト教は一つでした。ですから
今日、エホバ神の真の崇拝者の組織体、もしくは団体は一つしかないはずです。
(ヨハネ 4:23,24。エフェソス 4:4,5) 聖書は、命に至る狭い道を歩んでいるの
はほんのわずかな人だけであると教えています。―マタイ 7:13,14。 

確かにキリスト教は一つです。しかしそのことは、キリスト教が人間の目から見える人間が作った一つの組織でなければならないことを意味しません。神が作った一つの組織は、多くの場合人間の作った組織とは一致していなかったことは、聖書に出て来るイスラエルの民の歴史を見てもわかる通りです。人間の曇った目には見えなくとも、一つのキリスト教は生き続けると私は信じています。

A聖書は、「忠実で賢い僕」にすべてのものをつかさどらせると述べてい
ます。(マタイ 24:45)

マタイ24:45-47の「忠実で思慮深い奴隷」のたとえ話は、エホバの証人の統治体が、イエスという主人からすべてのものをつかさどらされた、とする根拠として使って来ました。これは、「忠実で思慮深い奴隷」であるものみの塔の指導部が、その他の奴隷にたとえられたエホバの証人全体の世話をするという、ものみの塔宗教の教義の中核となるものです。しかしこのたとえ話をなぜ、特殊な組織の指導者だけに当てはめなければならないのでしょうか。そもそも、このたとえ話をこのように解釈する聖書注解者は、ものみの塔協会以外にはありません。このたとえ話は、主人が予告なしに帰ってきてもいつでも準備が出来ている忠実な思慮深い奴隷のように、すべてのクリスチャンが、キリストの帰りの準備をし続けていることを教えるもの、とほとんどの聖書を読む人々は素直に解釈します。それに対して、ものみの塔協会は、このたとえ話は「一部の奴隷が他の奴隷の世話をする」という一面だけを取り上げて、自分たちの宗教権威を正当化する根拠として使ってきました。

聖書には「奴隷」を使ったたとえ話は幾つか出てきます。これらの「奴隷」のたとえ話の主題は、その「奴隷」を特別の人間の役割を示すために使われたでしょうか。マタイのこの部分と平行した他の福音書の同じ様な「奴隷」のたとえ話を見てみましょう。マルコ13:32-37は同じ主題を述べていますが、ここでは一部の奴隷が他の奴隷の世話をすることより、すべての者が「ずっと見張っていること」がたとえ話の主題であることがイエスご自身によって説明されています。

32 「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も[知らず],父だけが[知っておられます]。33 ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなた方は,定められた時がいつかを知らないからです。34 それは,自分の家を離れ,自分の奴隷たちに権威を与え,各々にその仕事を[ゆだね],戸口番には,ずっと見張っているようにと命令して,外国に旅行に出た人のようです。35 それで,あなた方は,家の主人がいつ来るか,一日も遅くなってからか,真夜中か,おんどりの鳴くころか,あるいは朝早くかを知らないのですから,ずっと見張っていなさい。36 彼が突然に到着して,あなた方の眠っているところを見つけることがないようにするためです。37 しかし,わたしがあなた方に言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」。(マルコ 13:32-37)

ルカにもこれと平行する「奴隷」のたとえ話がありますが、ここでも見張っていること、が主題であることがわかります。

37 主人が到着したときに,見張っているところを見られるそれらの奴隷は幸いです! あなた方に真実に言いますが,[主人]は帯を締め,彼らを食卓の前に横にならせ,そばに来て奉仕してくれるでしょう。38 そして,[主人]が第二見張り時に,あるいはたとえ第三見張り時に到着したとしても,このようにしているところを見られるなら,彼らは幸いです! (ルカ 12:37-38)

ものみの塔協会が使うマタイの24:45-47のたとえ話に最も近いのは、ルカの12:42-48でしょう。ここでは、マタイと同様、一人の奴隷(家令)が下男下女の世話をする話が述べられています。

42 すると主はこう言われた。「主人が,時に応じてその定めの食糧を与えさせるため,自分の従者団の上に任命する忠実な家令,思慮深い者はいったいだれでしょうか。43 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです! 44 真実をこめてあなた方に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。45 しかし,もしもその奴隷が,心の中で,『わたしの主人は来るのが遅い』と言って,下男や下女たちをたたき,食べたり飲んだり酔ったりし始めるならば,46 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,最も厳しくこれを罰し,その受け分を不忠実な者たちと共にならせるでしょう。47 その時,自分の主人の意向を理解していながら用意せず,またはその意向にそって事を行なわなかったその奴隷は,何度も打ちたたかれるのです。48 しかし,理解していなかったために打たれるべきことをした者は,少なく打たれます。実際,だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます。そして,人々が多くをゆだねた者,その者に人々は普通以上を要求するのです。(ルカ 12:42-48)

しかしこの一人の奴隷が現代の一人の人間、一つの団体を指しているのでしょうか。イエスは奴隷が主人の意向の理解の度合いによって、様々な打たれ方をすると述べています。このことは、他の奴隷のたとえ話と同様、各個人個人のクリスチャンがキリストの教えの理解の度合いによって裁かれるという、イエスの教えのテーマと一致するものでしょう。このたとえ話をものみの塔協会の解釈のように、特定の「思慮深い奴隷」であるものみの塔の指導者だけにあてはめるとすれば、他の多くの奴隷たちはその特定の奴隷に責任を預けたことになり、その特定の奴隷だけが裁かれることになりますが、それはイエスの他の奴隷のたとえ話を含め、その教えとは全く一致しないのです。

「忠実な思慮深い奴隷」のたとえ話を使って、このようにものみの塔の独占的宗教権威を主張するのは、全くの聖書の歪曲としか言えません。

B福音書の中には「多くの偽預言者」が起こることが
述べてあります。(マタイ 24:11)彼らはさまざまな強力な業を行いますが、
キリストから「邪悪な者」と宣告されます。(7:23)なぜですか。彼らは「天
の父の御心」を行わなかったからです。(7:23)では「天の父の御心」とは何
ですか。「神のご意志は、あらゆる者が救われてキリストの正確な知識に至る
こと」でした。ですから、真のキリスト教はあらゆる者が救わ
れるために全地で宣べ伝える業を行っているはずです。CB参照 

福音を宣べ伝えることは、確かにクリスチャンの重要な任務の一つです。しかし、それだけが神のご意志でしょうか。聖書には他にも沢山の重要なことが述べられています。たとえば、神のおきての中で何が最も大事なことかとの質問に答えて、イエスは第一に神を愛すること、第二に隣人を愛すること、を挙げています。これはイエスの教えの中に何度も繰り返し出てくること、すなわち「愛」が最も中心の教えであることと一致しています。ものみの塔宗教はこのような隣人愛をどれだけ教えているでしょうか。エホバの証人は確かに自分たちの仲間には愛を示しますが、エホバの証人の教えに関心を持たない「隣人」に対しては冷淡です。また、確かにエホバの証人は全地で宣べ伝えていますが、一体何を宣べ伝えているかが問題です。あなた方が第一の目標とすることは、いかに「ものみの塔誌」を読ませるか、「研究」や「集会」に動員させるか、ですが、そのことが「キリストの正確な知識」とどれだけつながるかは疑問です。

Dものみの塔の
ような組織は西暦1世紀からありました。使徒行伝を読むと、異邦人たちが割礼を
受けるべきか問題が生じたとき、エルサレム教会の長老や監督たちが集まってこ
の問題を協議したことがありました。彼らは、異邦人たちに割礼は必要ないが
「血と、絞め殺された動物の肉と、みだらな行い」を避けるよう、すべての教会
に通知しました。(使徒15章)ですから、彼らはエルサレムにひとつの組織を持
っていたことが分かります。

聖書のこの部分も、ものみの塔協会が自分たちの独占的宗教権威を正当化する根拠として、常に使う部分です。単純に使徒の記述を読めば、ものみの塔協会の主張がいかに聖書の歪曲であるかがわかるでしょう。まず、この「エルサレム会議」が開かれるきっかけとなったパウロは、異邦人たちに割礼は必要ないと信じていましたが、彼は「エルサレム教会の長老や監督」の一部ではありませんでした。パウロがクリスチャンになった後で最初にエルサレムを訪れた時には、彼はエルサレムの長老たちに歓迎されませんでした(使徒9:26)。パウロはその後エルサレムではなく、イスラエルの外のシリアのアンティオキアを根拠にしてイスラエル人以外の人々に伝道を続けました。パウロはその際に、「エルサレムのひとつの組織」と連絡を取りながら伝道をしたでしょうか。いいえ、彼は「エルサレムの組織」の指示によらず、重要な事柄はイエスと聖霊の直接の指示を受けていたと書かれています。

それでは、使徒15章の「エルサレム会議」はパウロが参加して「ひとつの組織」となったでしょうか。そもそもこの会議の事の始まりは、「組織」の中心であるユダヤから、異邦人に割礼を要求する教えが出てきたことです(使徒15:1)。パウロとバルナバはエルサレムで「エルサレム教会の長老や監督」と直接会見し、異邦人にこれ以上のくびきを負わせるべきではないことを彼らに説得したのでした。この結果、「エルサレム教会」は異邦人に対して陳謝の手紙を書くことになります。この集会から何か新しい理解が生まれたという証拠はどこにもありません。エルサレムの長老たちは指示を与えたというより、訂正させられたのでした。この記述は、エルサレムに「統治体」の人々がいて、規則やきまりを作って他のすべてのクリスチャンに伝えていた、という証拠を示すことにはなりません。むしろ実際は、その正反対で、明らかに神の聖霊が信仰ある個人(パウロ、バルナバなどの組織の外にいた人々)を通して働き、クリスチャンの会衆を間違いに陥らないように導いていることを示しています。

E確かに、イエスの臨在は私たちの目には見えま
せん。イエスは世を去られる際、「わたしは…雲に乗ってくるでしょう」と言わ
れ、イエスの再来が目には見えないことを述べています。しかし同時に、「[真の
クリスチャン]はわたしを見る(認識する)でしょう。」とも言われました。です
から、真のクリスチャンはイエスを霊的な目で「見て」います。西暦1世紀、イエ
スは数多くの人に哀れみを示されました。そのような方が「イエスだけに見える
人の集まり」などお作りにはなられないでしょう。

あなたが書かれているように、真のクリスチャンは「霊的な目」でものを見ることができます。そうであれば、「組織」もまた「霊的な目」で見えるものであってもいいのではありませんか。ものみの塔協会が、壮大な建築物、印刷工場、大会ホールなどで信者を圧倒するのには「霊的な目」は必要ありません。そのような「かたち」の無い中にある、多くの人々の群を「霊的な目」で見つけて下さい。曇った目には見えないでしょうが、真のクリスチャンの霊的な目には認識できるかもしれません。

現役のエホバの証人として、この場で発言して下さった勇気に、敬意と感謝を申し上げます。今後もお便りを下さい。