(6-14-97)。
私は結婚を機にごく普通の教会で洗礼を受けた主婦です。結婚生活をはじめた 土地の近くに教会がなっかたので、きちんとした聖書の勉強をしていませんでし た。そんなところにエホバの証人の方がいらっしゃって、私は「輸血拒否のとこ ろだけ省いて解釈すれば、聖書の勉強に役立つだろう。」と思い、週一回の訪問 を受けることにしたのです。しかし「知識」の学習が進むにつれ、「神様ってそ んなに狭い了見の持ち主なのか?」という思いに捕らわれていくようになりまし た。そんな折り、インターネットを主人から教えてもらうようになり、エホバの 証人に関する情報を読んで、私の疑問は、より確かなものとなっていきました。 インターネットだ知った、エホバの証人対策を教えて下さる教会へ電話をする と、「福音」について教えて下さいました。忠実なパウロですら感動させたその 福音、「罪深い私でも許されている!」。そのことを知ったとき感激のあまり、 涙が止まらなくて、電話中でありながら声になりませんでした。そして、エホバ の証人の教えがいかに「罪」と「この世の不幸」にばかりとらわれた苦しいもの であるかということを思わずに入られません。神は許して下さったのです。その ことを知らないエホバの証人の人たちは本当に気の毒です。 「復活」-確かにそのこともすばらしい教えだけれど、私は神に感謝しなが ら、この世に生を受けたこと、罪深い私の存在も許されていること、そのことを とてもうれしく思うのです。 エホバの証人の方、研究生の方、もっと自分の心を解き放ってみたいとは思い ませんか?
《編集者より》
この方のように気軽に「聖書の勉強」をしようという気持ちでエホバの証人との研究に入る方が沢山おられます。勉強をしながらでも、この方のようにエホバの証人の「別の面」を常に研究されるよう、現在の研究生の方々に、私からも訴えたいと思います。