今、家庭訪問を受けています−家庭聖書研究の危険、創造論など

(5-24-99)


はじめまして。
現在、エホバの証人の方から家庭訪問を受けています。
このHPを拝見させていただいて、とても参考になりました。
私は仏教と神教を信じている一般的な日本人だと思います。
私は世の中の色々な考え方の人を理解したいと思っていますし、
彼らもその一つとして、お話を聞き始めました。

私がお会いしている人は、とても真面目で、素朴で善良な人である
印象が強く、非常に好感が持てます。
ただ、あまりにも世間知らずで、人間的な深みや魅力は、正直感じません。
そして、その方が差し出される本の内容には首をかしげてしまいます。

「唯一正しい神は、エホバ神であり、他の宗教は誠ではない」と、
他の宗教を完全否定して書かれてあるのには、怒りに近い感情がわきます。
しかし、私はキリスト教もよく分からないので、お聞きしたい。
私には、風の神様やら山の神様やら、古い偉人も神様になってしまいますし
神様は沢山いるので、アラーにもキリスト様にも矛盾を感じることはありません。
日本人はいい加減だと言われる所以なのかもしれませんが
私はこういう考えに誇りを持っています。
クリスチャンはこんな考え方はしていないと思うのですが、
その点で矛盾はしないのでしょうか。

それから、彼らは創造説をやたら主張します。
「進化か創造か」という本を読んで、
「これを読んでもまだ進化論を信じるのですか」と問われましたが、
私にして見ると、その本の内容はあまりに馬鹿馬鹿しく、
子供騙し程度のへ理屈にしか考えられません。
これでどうしてそう考えられるのか、そっちの方が不思議でなりません。

彼らは宗教的考え方というのを逸脱しているように感じますが、
クリスチャンは、この創造説というのをどう考えているのでしょうか。
クリスチャンはみなさん創造説を信じていると聞きました。
彼らとはどういう違いがあるのでしょうか。
私は理解力が乏しいようで、分かりづらくて悩んでいます。

渡された小冊子を読み進めていくと、
彼らの教団へ導かれるようになっていますが、
私にとっては、あまりにも説得力に欠ける文章なので、
どうしてこんな話が信じられるのかの方が興味があり、
まだ研究というのを続けています。

先方は、私がのれんに腕押しのように感じるらしく、
苦労されているようなので、そろそろお断りした方がよいかとも思うのですが、
私は作家志望の若者で、単純に知りたいという欲望があります。

それでアドバイスしていただきたいのですが、
この聖書研究を続けることは、危険なことでしょうか。
聖書研究されてる方には強い警告をされてるようでしたので、
是非、私の判断材料にさせていただきたく、メールさせていただきました。

何事も、知らず知らずのうちに影響されることは否めません。
彼らと直接話を続けるには、別の立場の人とも直接話せる状況も
必要に思います。
例えば、一般的なキリスト教会の方からお話を聞ける
身近な方法(救済というものでなくてよいという意味です)などがあれば、
教えていただきたいと思います。
教会というものに足を踏み入れたことがないので、
どうすればそういう方とお話が出来るか分かりません。

私の質問に関する答えはもうすでにHP内で回答されてるのかもしれません。
私にとって難しい内容も多く、不勉強者の私が理解するのは時間がかかると感じ、
今私が直面している問題について投書させていただきました。
一方的な質問ばかりで恐縮ですが、
ご回答があれば大変嬉しく思います。

《編集者より》
あなたがこのような研究的態度をとって、彼らから渡される出版物以外に、それに対する反論を書いた出版物を平行して研究し、そこで出た疑問を系統的に研究の司会者に提起していく限り、あなたがいわゆる「聖書研究」に参加することは危険であるとは思いません。危険なのは、書籍や研究相手の雰囲気に圧倒されて、彼らのペースに完全に乗ってしまい、批判的態度を忘れてしまった時です。疑問があれば、それを徹底的に問いただすべきでしょう。たとえば、「創造か進化か」の本はばかばかしいと思われたようですが、それであれば、そのばかばかしさをもっと掘り下げて、この本の中にどれだけの欺瞞が書かれているかを他の本と対照し、それを徹底的に相手に考えさせるのも一つの方法かと思います。

なお、キリスト教はもちろん一神教であり、多神教的感性を持つ東洋人や日本人になじまないことは当然であると思います。進化か創造か、については「論」をもてあそぶのではなく、科学の上でどれだけのことがわかっており、それらを統合してどのように考えるのが最も論理的か、という観点から考えるべきでしょう。そうすれば、いわゆる創造論と言われる説が、いかに人間の空想の産物であるかがわかるでしょう。科学では「論」や「仮説」は重要ではありますが、証明された事実を統合していくことの方がもっと重要です。過去20年近く、エイズの原因については多くの「論」が提起されてきました。しかし、医学研究者の立場から言えば、そのような説よりも、実際エイズについて何がわかっているのかという事実を認識することの方がはるかに重要なのです。現在、エイズがHIVというウィルスの感染で起こることは多くの事実からわかっていますが、それに反対する人も少数ながらいます。そのような人は、「創造論者」と同じように、エイズがHIVの感染で起こると考えると説明できないような事柄だけを集めて、それ以外のエイズとHIV感染を結び付ける圧倒的な事実を全て無視し、全体の結論を否定してしまうのです。何故そのようなことをしたがるか、というとその様な「論者」の立場は科学の真理を追究したいのではなく、科学の事実に関係なく、自分たちが最初から決めた「説」や「論」を何が何でも押し通したいだけなのです。

同じ事が、エホバの証人のような「創造論者」についても言えます。彼らにとっては科学の事実は自分たちの「論」を推進する時にのみ有用なのです。それに矛盾する科学の知見は全て無視するか否定します。なぜなら、自分たちの頭の中では、現実がどうであろうと「創造論」は絶対に変わらないという信念があるからです。これは宗教論争ですが、それを科学の衣を着せて一見科学の論争のように見せかける所に全ての問題の根元があります。科学の論争であるなら、科学の知見を公平に統合的に見て下さい。エイズの病因と同じように、確かに完全に全てのことが現在の知見で説明はできませんが、それをもってエイズがHIVの感染で起こらないという「論」が空想の産物であるのと同じように、エホバの証人の「創造論」が全くの空想であることがわかるでしょう。


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