元エホバの証人研究生でその後クリスチャンとなった妻を持つ夫の方より

(5-20-98)


***** (男性)
1957年生まれ

突然のお手紙失礼いたします。村本さんのサイトに時々お邪魔している者です。
エホバの証人の妻をもつ夫や家族の気持ち本当によくわかります。私の体験が何らか  
の参考にでもなればとメールいたします。
この問題はいつかまとめておきたいと思っておりました。いきなり長いメールで恐縮  
します。
自分の歴史という意味も含めて書いてしまいましたのでご容赦下さい。

時期と場所が色々かわりましたので先に経過を書きます。

83年5月結婚
86年7月娘誕生
87年4月東海S市から東北S市へ引越し
89年12月S市内引越し
92年4月S市から九州F市へ引越し
92年9月F市内引越し
94年6月からHキリスト教会
95年2月洗礼(妻のみ)
97年4月**県O市引越し(Oキリスト教会)
98年3月O市内引越し

長くなってしまいましたので目次をつくりました。

1.事実経過とその時の気持ち
2.エホバの証人の問題点
3.聖書に対する私の疑問
4.エホバの証人とキリスト教との共通点(とにかくエホバをやめさせたいと考えて  
いる家族の方へ)
5.エホバの証人に対する提案

1.事実経過とその時の気持ち
結婚後4年ほどで東海のS市から東北のS市に転勤しました。
そのころ私は仕事、趣味(登山、写真など)ともども忙しく、ほとんど家庭を顧みな  
い生活をしておりました。
妻はまったく身寄りのないS市のマンションで1歳にもならない娘を抱えて寂しい思  
いだったと想像します。
転勤後1年以内だと思いますがエホバの証人がたずねて来て、はじめのうちは目的を  
語らず子育ての話題から始まりだんだん仲良くなってきたころから「聖書の勉強を」  
というようになり、私も聖書には興味がありましたので、結構なことだと思っており  
ました。
そのうちS市内で引越しをしたところエホバの担当者も交替して、前の方はサッパ  
リこなくなってしまいました。同じ市内で歩いても10分程度なのに区域がちがうため  
せっかく仲良しになったのに一度も来なくなるというのは妙に割りきりのある人々だ  
なと私は感じておりました。

新しい担当者は前の方より大変熱心で集会にも誘われるようになり、このころから妻  
の言動がおかしくなってきました。
ハルマゲドンがくる。世の終わりがくる。湾岸戦争のニュースをみては世の終わりな  
どなど。エイズのニュースがよく報道されたのもこのころだったと思います。
また、キリストは十字架でなく杭につけられた。三位一体は間違い。一般のキリスト  
教関係の本は読まない方がよい。救われる人数はきまっている。私もキリスト教には  
興味がありましたので一般向けの「キリスト教がよくわかる本」を買ってきたところ  
、そういう本は読まない方がよいと司会者が言ったと、この時点ですでに司会者の言  
いなりになっておりました。また、クリスマスツリーの絵のついた皿は使わない方が  
よいから処分しなさいといわれたのもこの頃でした。なぜなったかというと、依然と  
して妻には友達がおらず娘も幼稚園にいく年齢でもなく情報源が限られているところ  
へきて大変な親切攻撃、ほめちぎりにあって司会者のいうことはすべて正しいという  
ようになっていったのだと思います。私は相変わらず泊りの出張が多く、休日はひと  
りで山に行ったりしてましたから。

この段階ではまだ信教の自由であり、夫婦といえどもそれぞれの宗教を信じる自由は  
日本国憲法で認められているとアタマでは考えておりました。したがって集会に行く  
ことを禁じることもせず、かえって送り迎えをしたり野外での集会につきあったりし  
ておりました。長老を家によんで話しを聞く機会があったとき、このときの妻の態度  
は後で読んだウッドさんの本にでてくる奥さんのパターンと全く一緒でせっかく長老  
が家にきてくれたのに自分は台所の掃除ばかりしてぜんぜん私たちのところには近づ  
こうともしませんでした。この頃は私もまったく知識不足だったので長老を論破しよ  
うとの考えもなくただ長老に一度あって話しをききたいだけだったのにです。なぜい  
きなり長老が来たかというと女性司会者が男性の私に話しをすることは禁じられてい  
るようでした。

でも自分の妻がこどもをつれて冊子配りながら戸別訪問を繰り返し、輸血を拒否する  
といのも何だかイヤな感じがしておりました。これはアタマでは信教の自由と考えな  
がらもすっきりしない毎日が続いておりました。そうこうするうちS市からF市に転  
勤することになりやっとエホバと縁が切れると思っていたところ引越し先のF市の家  
には引越し当日F市のエホバの証人が子供含め10人以上手伝いに来ました。その組織  
力と親切の押売りぶりには感心しました。その日の食事も余るほど用意され、これは  
助かりました。量が多くてだいぶ残しましたが。

当然F市でもすぐにお迎えがきて毎週日曜には集会に子連れで行くようになりました  
。そして平日の夜の家庭集会などにも出かけていくようになりました。この時の司会  
者はS市時代とは違いわりあい気さくな方で妻も友達のいないF市での生活をスター  
トするうえで何かと頼りにしていました。私はというとS市時代以上に泊まりの出張  
が多くなりました。9月にまたF市内で引っ越しをして司会者と会衆が変わりまし  
た。今度の司会者は長老婦人で前の方とはちょっと違い妻もあまりうまがわないよう  
でした。このときも同じ市内でクルマで10分くらいのところなのに担当区域が違うた  
め前の司会者はサッパリ来なくなりました。私は依然として情報源がありませんでし  
たのでひとりもんもんとしておりました。
そんなとき
「エホバの証人;マインド・コントロールの実態」:ウィリアム・ウッド著(三一書  
房)の新聞広告をみかけすぐに購入し何回も読み返しました。それから聖書を買って  
来て解説書もいろいろ読みました。S市時代から通算4年近くになりましたが大金を  
とられたわけでなし、何も悪いことはない。個人が幸せならそれでよいではないか、  
自分(私だけ)ががまんすればいいではないかとも考えておりました。もちろんこの  
間、妻とは何度も話し合い、口論、説得いろいろしました。ただ暴力だけはおさえて  
おりました。聖書を信じるならいいが、「楽園」の本を信じて人にすすめるのはまず  
い。1914年以降地震、犯罪、悲惨な出来事が増えているなどというのも図書館で調べ  
てデタラメであることを指摘してやりました。
教理よりも事実関係を私は重視しました。1914年という年も輸血という医学用語も聖  
書にはでてきません。
市内や隣町の教会に私一人で相談に行ったり、二人で話しを聞きにいったこともあり  
ました。私は私で出張先の鹿児島の教会で聖書勉強会に出席したりもしました。
そうこうするうちこれならエホバもやっつけられるという自信が私にもわいてきまし  
たので長老に対し妻の前で論争をいどみました、その結果長老の方がにげているとい  
う印象をもったようでした。また、妻の方でもF市で2人目の司会者とあまりうまが  
あわないようでした。毎週の予習も大変だったようです。そんなときに近所に新しい  
建物の教会ができたので本当にエホバの証人のいうようにキリスト教会の人々は皆堕  
落した人々ばかりか確かめにいこうということになり教会に通うようになりました。  
最初はつまらない様子でしたが、半年ほど通ううちある日の礼拝後突然「神様が背中  
をポンとたたいた」といって、洗礼を受ける決心をしました。
その後、エホバの証人問題を考えるセミナーなどに夫婦で複数回参加。


2.エホバの証人の問題点
エホバの証人の最大の犯罪は聖書の勉強といいながら聖書を勉強せずものみの塔の出  
版物の勉強ばかりしている(させている)点である。組織全体でオオウソつきなので  
ある。であるからしてものみの塔の出版物の勉強をしませんかといって勧誘するなら  
問題なしなのである。「私たちは聖書を持って歩いて時々参照しますがものみの塔の  
出版物の方を信じております。ものみの塔の出版物の勉強を一緒に無料でしませんか  
。ものみの塔の出版物にはあなたにとって有益な情報がたくさんあります。」
エホバの証人の問題点は教理にあるのではなく、ものみの塔を信じていながら聖書を  
信じると言って伝導する行為にある。誰もものみの塔(統治体)を信じる自由もある  
。ただ、統治体のことを隠して聖書を信じていると宣伝して歩くことが問題なのであ  
る。
誰でも「聖教新聞」を「聖教新聞」ですといって配布する自由はある。しかし、「聖  
教新聞」ですといいながら「赤旗」を配る自由はない。「赤旗」を配るときは「赤旗  
」ですといって配るべきである。聖書に基づく雑誌ですといいながら「ものみの塔」  
を配るのはいけないが、ものみの塔の雑誌ですといいながら「ものみの塔」を配る自  
由はあるし、その自由は私たちの社会が守るべきものである。その自由を制限する社  
会を私たちがつくってはいけないと思う。にせものをにせものと知って買う自由もあ  
るわけだから。

3.聖書に対する私の疑問
キリスト教会に通うようになり妻はそこで洗礼をうけてから家族そろって礼拝をつづ  
けておりますが、私は依然としてキリストを信じることができないので妻はこう言い  
ます。
「あなたは信仰心がない。」
「エホバの頃は、イエスは神だとあなた(私のこと)は言っていたのに」
「イエスは神だと聖書に書いてあると言っていただけで、その聖書を信じるとは私は  
言っていない」と私。

聖書はすべて神の言葉で誤りはないという立場がいまだにわかりません。
エホバをやっつけるためだけに聖書や解説書を勉強しすぎたためかもしれません。
プロテスタント系の牧師は新世界訳を非難しておりますが、新改訳が一番という証明  
もできないと思うし、ギリシャ語写本だって色々あるといわれているのにどれをもっ  
て誤りなき神の言葉とするのか。
ものみの塔の聖書解釈はダメだがどこかの偉い神学者の解説なら鵜呑みにしてよいの  
かという疑問が依然として残っております。
いったい誰の解釈、注解、解説なら信じてよいのでしょうかねえ。
聖書学者のなかにも派閥のようなものもあるようですし。

4.エホバの証人とキリスト教との共通点(とにかくエホバをやめさせたいと考えて  
いる家族の方へ)
エホバはやめても聖書をやめさせるのは無理だと私は考えております。
聖書という土台は共通ですから当然で、エホバの証人ほど強調はしませんが正統的と  
自称するキリスト教にも日本特有の宗教行事などとはなじまない点があります。
仏壇を拝まない。仏式葬儀には参列しないよう指導される。いわゆる初詣はしない(  
教会で元旦礼拝があります)。
献金があります。お寺のお布施や戒名料ほど露骨ではありませんし、強制されること  
もありませんが教会生活をしていくうえでまったくのタダというわけには事実上いき  
ません。(次々出てくる出版物を買わされるということはありません。)

今通っている教会は活動が活発で夜の集会こそ行きませんが日曜日はもちろん水曜日  
、土曜日にも集会などがあり、はたからみていると、ヒマさえあれば教会へ通ってい  
るという状態です。もちろん教会全体がウソをついているとは私もおもっておりませ  
んが、妻が家にいない状態が気に食わないというだけでエホバに反対していると感じ  
られる多くの夫たちにすれば正統的といわれる教会もエホバもあまりかわりがありま  
せん。
もうひとつ、いま通っている教会もH市の教会もそうですが夫婦そろって礼拝を守る  
方々より奥様だけが教会に来るというパターンが私には目に付きます。正統的キリス  
ト教を信じていても、エホバを信じていても家庭内がギクシャクしている家庭はある  
ようです。


5.エホバの証人に対する提案

聖書を信じようが、ものみの塔の出版物を信じようがそれは自由です。しかし、誤解  
を招きやすい言葉づかいはやめたほうがよいでしょう。
そこで、つぎのように提案します。
野外奉仕の時も「近所の○○○と申しますが、無料の聖書研究をご一緒にしませんか  
。」という勧誘の仕方は誤解を招きやすいのでやめましょう。
オウムがオウムと名乗らず、ヨガサークルなどを装ったり、統一協会が、手相を見る  
ことをきっかけに勧誘するのとおなじ手口です。
つぎのようにすべきでしょう。
「エホバの証人の○○○と申します。私たちは聖書を使いますが、聖書には従わず、  
ものみの塔の出版物に従う者です。ものみの塔の予言は当たらないことが何回もあり  
ましたが大変有益な情報もたくさんあります。無料で出版物の研究を一緒にしません  
か。」
どうか聖書研究という表現は使わないでください。何も知らない多くの人々が誤解し  
ますから。
「私たちは聖書に従っている」とか「聖書を信じている」という内容のことも二度と  
言わないほうがよいでしょう。

《編集者より》
非常に考えさせることの多い体験談をありがとうございました。あなたも奥さんも自力でエホバの証人の本質的な欠陥を見抜かれたことに、大きな敬意を表したいと思います。

  >にせものをにせものと知って買う自由もあるわけだから。<

その通りです。問題はご指摘のようにものみの塔の勧誘が正直ではないために、にせものをにせものと知らずに買って悲劇になっている例が余りに多いのです。あなたのようにウッド氏の本に出会って初めてにせものをにせものと認識できたように、このような不正直な宗教の勧誘には、正しい情報を得ることが最も重要なのです。このウェブサイトはその目的のために存在します。

  >いったい誰の解釈、注解、解説なら信じてよいのでしょうかねえ。<

われわれは解釈、注解、解説を信じるのではありません。これらはあくまで参考です。全ての解釈、注解にはそれなりの誤りや偏見があります。逆にほとんど全ての解釈、注解は、ものみの塔の出版物も含め、ある程度参考になるものがあります。どうか唯一絶対に正しい解釈、注解、解説がどこかにあると考えて追い求めないで下さい。そのような態度の人々がエホバの証人の勧誘に直ぐにはまってしまうのです。多くの見方を調べ、自分で納得のいく結論をして下さい。聖書の信仰はあなたとイエスキリストとの個人的な関係でしかありません。解釈、注解、解説の信仰から出て下さい。これは私の個人的な見解です。

  >「エホバの証人の○○○と申します。私たちは聖書を使いますが、聖書には従わず、ものみの塔の出版物に従う者です。ものみの塔の予言は当たらないことが何回もありましたが大変有益な情報もたくさんあります。無料で出版物の研究を一緒にしませんか。」<

全く賛成です。これによって悲劇の半分以上は防げるかも知れません。貴重な提言を有り難うございました。


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