(5-8-98)
「知識」を避けよ(テモテへの手紙一) わたしたちは「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。 ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。彼らは、自 分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師 でありたいと思っています」(1:5〜7) 彼らは「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この 食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造り になったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、 感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによっ て聖なるものとされるのです」(4:3〜5) 「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい」(4:7) 「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を 鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます」(6:20〜21) 今、エホバの証人と『知識』を基に討論をしています。 上記テモテTは「このような引用は私の主義に反することで、好きではないが」と 断ってから引用したものです。そして「ものみの塔の本の中に見られる聖句からの引 用には、極論すればこのような引用が多すぎる」と。 エホバの証人の人たちと話をするようになって約3ヶ月ほど経過しますが、私も、こ の投書欄に見られるように、彼らといくら話をしたところでしょせんは徒労に終わっ てしまうのではないか、という不安感や、彼らと話をすること自体 面度臭くなって 投げ出したくなることも何度かありました。しかし、彼らの誠実さ・ひたむきさ(何 のため、誰のための誠実さ・ひたむきさかということはもちろんありますが)を思う と、かわいそうを通り越して哀れにさえ思います。彼らも被害者(と同時に加害者で もある)なんだと。私自身、どれくらいのことが出来るかわかりませんが、彼らの救 済のため努力して行きたいと思って言います。 彼らと論議をすることで私自身とても勉強になります。 私はキリスト教徒ではありませんが、原始キリスト教団に興味を持ち聖書を開くよう になってから20年近くなります。そういう面では信仰にうちふるえて聖書を読んで いるわけではありませんが(ここに私の限界があります)、それでも、ものみの塔の 出版する本に対して聖句をもって批判反論はできます。 (後略)
《編集者より》
よく的をついたご指摘で、エホバの証人に考えさせるきっかけを与える可能性があるかも知れません。エホバの証人が学ぶ「知識」は組織が作った複雑、難解、奇抜な理論ですが、聖書が「永遠の命に導く知識」と言っているのは「キリストを知ること」に他ありません(ヨハネ17:3)。同じ「知ること」でもなんと大きな違いのあることでしょうか。どうか気長に頑張って下さい。