(4-7-99)
お元気でいらっしゃいますか。 ホームページの充実をいつも楽しみにしております。 私は昨年つぎの題でメールしたものです。 「元エホバの証人研究生でその後クリスチャンとなった妻を持つ夫の方より (5-20-98)」 メールアドレスが変更になりましたのでお知らせ方々お手紙します。 リストにも入っていないかもしれませんが。 今も私の気持ちは 「打ち切られた対話−研究を打ち切られた研究生」(8-23-98)の方とほぼ同様の気持ちです。 次の箇所など村本さんはどう考えますか。 新共同訳 マタイ27−61:マグダラのマリヤともう一人のマリヤ マルコ16−1:マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメ ルカ24−10:マグダラのマリヤ、ヨハナ、ヤコブの母マリヤ、そして一緒にいた他の婦人 たちであった。 ヨハネ20−1:マグダラのマリヤ 新改訳 マタイ27−61:マグダラのマリヤとほかのマリヤ マルコ16−1:マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ ルカ24−10:マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤ・・・いっしょ にいたほかの女たち ヨハネ20−1:マグダラのマリヤ 口語訳 マタイ27−61:マグダラのマリヤとほかのマリヤ マルコ16−1:マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ ルカ24−10:マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤ・・・一緒 にいたほかの女たち ヨハネ20−1:マグダラのマリヤ 新世界訳 マタイ27−61:マリヤ・マグダレネともう一方のマリヤ マルコ16−1:マリヤ・マグダレネと、ヤコブの母マリヤ、それにサロメ ルカ24−10:マグダレネ・マリヤ、およびヨハンナ、そしてヤコブの[母] マリヤ・・・一緒にいたほかの女たち ヨハネ20−1:マリヤ・マグダレネ これで4つの福音書に書かれたことはすべて事実であると言い張る人の 論理的整合性がわかりません。 現在クリスチャンの妻とこの話しになると険悪になるので 最近はつとめて話題にしないようにしている。 私としては議論をスポーツのように楽しんでしるつもりなのですが 妻にとっては聖書を冒涜しているように感じるようです。 たとえば、ある新聞記事がつぎのようになっていた場合いかがでしょうか。 長野五輪ジャンプ団体ラージヒルで金メダルをとったのはつぎの方々でした。 朝日新聞:原田、船木、岡部、斎藤 毎日新聞:原田、船木、岡部 読売新聞:原田、船木 赤旗 :原田、船木、岡部、斎藤、村本 こういう情報がもたらされて「そのまま信じます」と言明する場合その人の頭のなかが どうなっているのかサッパリわかりません。 この場合、赤旗だけが間違いで、他の新聞は書き方が十分でないだけという説明もなりたちましょう。 少なくとも、朝日、毎日、読売とも間違いではない。 しかし、大変多くの人が毎日、読売を誤報と判断するのではないでしょうか。 エホバの証人でないクリスチャンでも 「聖書に書いてあることは全部事実として信じる」 「福音書の細部が異なるのは複数の煙突を見るとき角度により4本にみえたり2本にみえたり するのと同じこと」という説明をうけたこともあります。 しかし、4本が2本にみえるーーというのはみえるだけであり2本になるわけでは決してない。 航空写真(いわば神の目かも)では4本という厳然たる事実があるとすれば2本にみえる という記事を読んで2本と信じこむのはチョットまずいのではと思います。 だから聖書のビデオや漫画などでは「ルカによる」などとの注釈が必ずある。 福音書により中味が異なるので具体的に絵に描いたりできないのである。 一字一句にこだわるのではないといっておきながら 聖書は神の言葉だから間違いないというんです。 私は異常なのでしょうか。
《編集者より》
いいえ、私はあなたが異常であるとは思いません。私はあなたのおっしゃることは、聖書を文字通りに信じて実行することがキリスト教であると考える人々(これにはエホバの証人の立場も含まれますが)に対する、有力な挑戦であると思います。聖書は、「霊感を受けて書かれた」にせよ、2000年以上の昔の人間の書いたものです。不完全な部分、誤りがあって当然であり、私はむしろ、その誤りが予想されるより少ないことに驚いています。しかし不完全であることには変わりありません。従って、聖書を我々の現代の生活に当てはめる時には、常に何らかの「調整」が必要となります。これに関してはエホバの証人も、聖書の言葉を文字通りに現代の生活に当てはめようとするファンダメンタリスト・クリスチャンも、同じ事をしています。昨年のあなたへの私のコメントにも書きましたが、この「調整」あるいは「解釈」の違いが宗派、宗教の違いを作り出し、終わることのない宗派の争いを継続させる原因であり、この問題点はエホバの証人の例で典型的に見ることができます。
私は、ある意味で不完全な聖書と、間違いだらけの人間組織の解釈との裏に、時代や組織を超える普遍の真理が端的に聖書に書かれていると思います。それを一人一人の人間が自分で読み取り自分の生活の中に取り入れて行くことを望んでいます。