仏教の儀式に参加することについて−元研究生より

(3-19-98)

エホバの証人に関する情報を、興味を持って読んできました、元研究生です。
エホバの証人になろうと、決めた時期もありましたが、夫の反対、病気などがあり、
また、「エホバの証人の悲劇」、「マインドコントロールの実態」などの本を読み、
さらに、インターネットを通して、統治体について詳しく知るようになり、心が離れま
した。
 
しかし、聖書にもとづいて生きたいと思っています。聖書をこれからも学んでいきた
いと考えています。

偶像崇拝をしないことについて証人以外の、神、キリストを信じる方々は、どのよう
に考えているのか知りたいと思いこのメールを書いています。
私は、主婦で毎日の生活のなかに、仏壇があり、葬儀、法事があります。

今、私は、仏壇に花や線香をあげませんが、聖書に従えば、そうすべきではないか
と考えています。

仏壇、葬儀、法事などで、線香をあげないこと、そして手を合わせないことが、夫
の反対の一つでもありました。 神、キリストを信じる者として、どのような行動を
とる ことが聖書にかなっているのか、教えて下さい。

《編集者より》
仏教国の日本ではあなたのような問題がありますが、欧米ではキリスト教が普通であるため、エホバの証人が親戚のキリスト教会における冠婚葬祭に際して、やはりあなたのような「異教の習慣」に参加することが問題になります。これは私の個人の意見ですが、表面的に線香をあげることがあなたの聖書の神への信仰に反するものであるなら、なるべく目立たない形でそれに参加しないのがいいと思います。しかし、ある人はそのような表面上の行動は自分の心の奥底にある神への信仰とは係わりのないことだと確信できれば、その行動は崇拝行為ではなく社会習慣であると割り切って参加することも私は許されると思います。問題は、ものみの塔の教えのように、全ての行動を画一的に規定して、それに合わない人間を裁くことです。大事なことは、次のパウロの言葉にもあるように、個人個人の信仰の状態によって自分で決めることであると私は思います。

そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えらられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって何かを得るわけではありません。(コリント第一 8:4−8)

このパウロの言葉をあなたの今の質問にあてはめれば、「わたしたちを神のもとに導くのは、線香をあげることではありません。線香をあげないからといって、何かを失うわけではなく、線香をあげたからといって何かを得るわけではありません。」あなたが線香をあげないことは、全く正当なことだと思いますが、クリスチャンであっても家族や夫への思いやりから線香をあげる人がいるかも知れませんが、その人たちを私たちは批判すべきではないでしょう。