エホバの証人は破壊的カルトか―反論

(3-18-99)


はじめまして。JWICを見つけてまだ間もない、元二世です。
「エホバの証人は破壊的カルト集団と呼ぶにふさわしい団体でしょうか?」を読み
ました。興味深く読ませてもらいましたが、いくつか反論したいこともあります。

エホバの証人にカルト的性質があるのは否定しませんが、それでは証人と他の普通
の社会との決定的な違いはどこにあるのでしょうか。元二世の経験から言うと、組
織に対する疑問を呈することを許さないという点で他の普通の社会もさして違うよ
うに思えません。
ここでは脅威的マインドコントロールの使用が破壊的カルトの判別条件だと書かれ
ていますが、普通の社会(以下、組織という言葉も用いる)も似たような手段を用
いています。
1.構成員になる過程において(破壊性は低いとは言え)組織内の規律・習慣の刷
り込みを行う            
2.組織の枠を離れる反対者に対する警告
3.組織を離れる者に対する、恐怖と、自由意志の束縛(主に社会的地位の剥奪を
脅しとして用いる)
4.学校教育やメディアによる、規律・習慣の刷り込み
このように、きれいにマインドコントロールの型にはまっています。もっとも、こ
れはかなり一般の社会に対する先入観を持って書かれたことは認めますが。JW以外
の世界で普通に生活することに慣れていないものとしては一般の社会もあまり変わ
りません。もっとも、ハッサン氏の本は昔一回読んだだけなので氏の破壊的カルト
の定義をきちんと把握している訳ではないのですが。

愛について。「『条件付き愛』はイエスが聖書の中で教えた愛とは全く異質なもの
である」とは冗談にも程があります。たいていの人はイエスをよほど人の良い方と
見ているようですが、イエスが当時の体制とその構成員に対して持った敵意はいか
に大きなものであったか、自分を理解しようとしない者達に対していかに冷淡であ
ったか、聖書を読めばすぐ読み取れるはずです。
まあ、エホバの証人が「世の人」に冷たいのは批判されるべき点でありますが。

生命をかけて組織への忠誠を要求することの何が悪いのです。今の日本の社会にし
てみても、何が法律で許され何が罰せられるかに対する基準は必ずしも合理的とは
言えません。

結局何が言いたいかというと、この文章の筆者は自分の属する社会に対しての十分
な批判も出来ないまま(自分の主張に留保すらしていないことにそれが現れている
)、現代に順応し牙を抜かれ、日本化された(←これはひょっとしたら違うかも)
薄っぺらいイエスの愛とやらで独断的にエホバの証人を断罪している、僕にはそう
としか思えないのです。
初期のキリスト教はもっと戦闘的、全体主義的、革命的な色彩が強かったと思うの
ですが。新約聖書をみてもよく軍隊の例が挙げられます。愛の面が強調されたのは
当時の宗教状況(形骸化したユダヤ教やローマ神話、確か「罪は許されない」グノ
ーシス主義もこの頃全盛だったはず)によるものでしかありません。

つまり僕は、自らの自由意志を統制して、言い換えればすり減らして、神への忠誠
を維持するものだけが神に認められる、と考えているのです。神の「愛」は人に優
しいものではないのです。人間よ神の存在は預言の成就などで立証されているのだ
、黙して神に仕えよ。あまりにグロテスクで僕自身嫌になる宗教観ですが、一般に
エホバの証人に関するサイトでは宗教の本来持つそういう側面が触れられていない
と思います。それでこういうメールを送った次第です。

最後に。エホバの証人であったことからこういう否定的な宗教観を持つ人間が、教
理の反駁にしか興味を持たない貧しい精神からどのように抜け出して安定した宗教
観をもてるか、というテーマは非常に重要なものだと思うのですが。どうでしょう
?まあ僕は好きでニーチェもどきの反宗教的立場を取っているのですが。
事実をきちんと調べず感情的に進めた議論であることをおわびします。


P.S.反JWの意見を持つ人はポッパーの「反証可能性」がやたらと好きですね。僕に
はクーンのパラダイムという考えの方が自然に思えるのですが・・・。

《編集者より》
破壊的カルトと似たような組織が、一般社会にも存在するというご意見ですが、その例が全く挙げられていないので、どのような一般社会の組織がそのような性格を持っているのか、わかりかねます。確かに、ある種の組織、たとえば会社や学校にそのような傾向のあるものがあることは否定できないと思います。カルト研究者の間では、某有名化粧品訪問販売会社が、エホバの証人と非常に似たマインド・コントロールを行って、社員の販売成績をエホバの証人の奉仕時間と同じように向上させていることは有名です。しかし、これはむしろ例外と考えられています。一般社会の中に、組織を離れる者をサタン呼ばわりし、それらの反対意見を聞くことも読むことも禁止するような組織が、実際あるでしょうか。私はそのような組織は、同じようにカルトと呼ばれても仕方ないと思います。

キリストの愛の性質については、あなたがキリストの戦闘的な面を強調して、無条件の愛を説いた部分を無視すれば、あなたのような結論になるでしょう。しかしこのような解釈は同様に「冗談にも程がある」のではないでしょうか。あなたはマタイ5:43−46を無視するわけですか。そもそもキリストが贖罪の犠牲になったのは、収税人や売春婦などの当時の体制では愛を受けるに値しない人々のためではありませんか(マタイ9:13、21:31)。確かにイエスが当時の宗教体制の擁護者に対して断固とした態度をとったことは確かですが、それはそもそも、パリサイ人やエホバの証人のような自分中心の愛に対する挑戦であったのではないでしょうか。

組織に命懸けで忠誠を要求することが何が悪いかと言えば、確かにそれは法律に触れないかも知れませんが、人を欺き抜け道のない袋小路に追い遣る方法として、道義的倫理的に間違っていると私は思います。あなたは合法的であることは全て道義的倫理的にも正しいとお考えですか。多くの神と聖書を愛する人々は、エホバの証人に関心を持つ多くの人々を含めて、神とキリストへの忠誠を初心としています。しかし組織に入った後は、この初心が巧みに組織に対する忠誠にすりかえられていき、ついには実際に組織のために輸血を拒否して死ぬ信者が出ることになります。

あなたの後半に書かれたことは、単にあなたと私の意見の相違としか言いようがないのではないでしょうか。社会をどう見るか、神の愛をどう見るか、別の見方があっても構わないでしょう。要は、異なる意見を持った者同士が、平和に共存して相手を尊重できればそれでいいと私は思いますが。あなたと私は意見が一致しないという点で一致できませんか。いずれにしても、あなたはエホバの証人のような硬直した思考をしていないように私には見えますので、それだけでも少しは話がかみあうのではないでしょうか。


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