元エホバの証人の夫の方からの「救済の会」のお知らせと体験談

(2-22-99)


<前略>
実はお願いがあってメ−ル致しました。
当会では近隣地区への 「エホバの証人( ものみの塔)訪問お断り」ステッカ−配
布、「エホバの証人は危険な宗教」新聞意見広告等の啓蒙活動に重点を置いて活動し
てきましたが、今回 「救済の会」第1回セミナ−を計画致しました。以下に詳細を
書き込みますのでムラモトさんのホ−ムペ−ジで紹介いただけるとありがたいです、
ご検討ください。

               救済の会  第1回セミナ−のテ−マ

         エホバの証人「ものみの塔」はなぜカルトか?

講師、 草刈 定雄 先生  エホバの証人救済対策本部主宰
                                 西舞子バプテスト教会副牧師

会場、伊那聖書教会    長野県伊那市中央区中央通4492
                                TEL0265−72−5564

日時、3月20日(土曜日)午前10時30分から午後3時30分

主催、飯田下伊那地区「エホバの証人」救済の会
        連絡先 〒395−0084 飯田郵便局私書箱41号

協賛、伊那聖書教会

会費、1000円

皆さんにものみの塔の隠された実態や被害を知っていただく為に、10年以上にわた
りエホバの証人の救出活動をしておられる草刈先生をお招きしてセミナ−を企画しま
した。カルトやマインドコントロ−ルに興味のある方、エホバの証人に関してお困り
の方、現役のエホバの証人や研究生の方など、多くの方々の御参加をお待ちしていま
す。

当日は草刈先生のお話以外に 近頃救出された元証人と家族の方の体験談、また反対
活動を地域をあげて行われている
松川町 増野地区、飯島町 本郷地区、駒ヶ根市 大徳原地区、伊那市大坊地区、の各
自治会の方 からの報告も予定しております。

お問い合わせは
     飯田下伊那地区「エホバの証人」救済の会
        連絡先 〒395−0084 飯田郵便局私書箱41号
または
      BZG04101@nifty.ne.jp  半崎 までお願いします。
折り返し 詳細と案内図を送らせて頂きます。

<中略>

私の紹介代わりに 体験談を添付させて頂きます。公開OKです。


  私 聖書の勉強をする事にしたから..... 妻と結婚2年目の事だった。
その言葉から エホバの証人<ものみの塔>を連想する事は当時の私には不可能であった
。
エホバの証人イコ−ル 輸血拒否をする宗教組織  確か新聞で読んだ事がある、私の地元
でも火傷の患者が輸血拒否で死亡したと聞いた事がある。この程度の知識は当時私の中
にもあったのだが、妻の言葉からは知るよしもなかった。またこれから訪れるであろう
さまざまな困惑、苦悩の日々を予想する事もなく...ふ−ん、そうなの とあまり気乗
りはしない調子で答えた様な気がする。
 私と妻は学生時代に知り合い 卒業後遠距離恋愛の後結婚した。結婚後妻は実家のある
愛知県から私の住む長野へ来たわけだが、知らない土地で廻りに知り合いも無く長女、
長男を出産後も育児について相談する相手もいず寂しい日々を送っていた。
こんな状況に、物腰も柔らかく誠実なYさんという話し相手の出現は妻にとってどんなに
嬉しかった事か、また聖書まで勉強できる事は大きな魅力と感じたようだ。それと言う
のも後になって知った事だが、子供のころは日曜学校で 高校はカトリック系の女子校で
聖書を学び 聖句を心の拠り所としてきたところがあったとの事で聖書を学ぶのに違和感
はなかったようだ。
Yさんとの学びも進み日曜の集会に誘われて、私ははじめて妻がエホバの証人と学んでい
る事に気が付いた。
「宗教はあまり深入りしないほうがよい」これが私の持論であり、妻にもこの事を言っ
てみたものの...
悪い事をしている訳でも、お金がかかるわけでもないし 少しは私に好きな事させてよ。
妻の返事に私は違和感を感じながらも自分を納得させるより無かった。これ以上言い合
えば喧嘩になると感じた為である。この事は後になって大いに悔やまれたのだが
それからしばらくして、妻の父が肺癌に侵されている事が解った。手術は不可能で余命6
ヶ月との診断に妻は強いショックを受け 命 について深く考えるようになったようだ。
そんな周囲が不安定なころ私に転職の話が持ち上がり、考えた末転職する事に決めた。
と言うのも私自身今の職場の1人としっくりいかず、なんとなく居心地が悪かったし
新しい就職先は私の地元で、先輩から誘われたものであり 知り合いも何人かいて仕事の
内容 雰囲気とも気に入った為である。また妻の実家との距離も100Km程縮まり近くな
った。何よりYさんと別れればエホバの証人の学びもやめるんじゃないかとの希望もあっ
た。この頃妻は地域大会 日曜の集会と自ら進んで出席するようになっており、私がたし
なめても子供を連れて一人で行ってしまうようになっていた為である。
引越しも終わり何となく落ち着いた頃 父の容体が悪化し妻は子供を私の実家に預け看病
の為一月ほど帰郷した。苦しんでいる父を看ながら妻はどんな思いに駆られていたのだ
ろう?
あなたも永遠に生きられます...復活して楽園に生きられます...こんな事を自分
の父に重ね合わせていたのだろうか。
私が転職して2ヶ月後に父は永眠された。ちょうどその時期 妻はこちらへ戻ってきてお
り、私は妻と一緒に入院先の病院へ駆けつけた。
父の死を悼むと同時に私には気懸かりな事があった、お葬式の事である。妻はどう対応
するのだろうか不安だった。結局 焼香や読経には参加せず 式中は裏方に徹しており案
の定葬式が終わると親戚の人から非難の声があがった。自分の父親の葬儀なのにどうし
てちゃんとしないのか...と   私も同感だった。妻の母も泣いていた。   こんな思
いはもうたくさんだ。
義父の事が落着くと、私の願いも空しく聖書研究が再開された。今度の相手はTさんと言
う長老の奥さんでちょっと恐そうな感じの人だ。風貌はウルトラマンに出てたカネゴン
に似ている..私の嫌いなタイプの人だ。
この人と研究するようになり以前にも増して集会で家を空ける事が多くなり <週三日>
それにつれて私との衝突も多くなっていった。ものみの塔の教えを基本とする妻と一般
常識を基本にして話す私とは食い違いが大きくなり、言い争う事が増え心の中は次第に
荒れていった。
この頃から私は妻との離婚を願うようになっていった。心に重く圧し掛かっている物を
降ろしたいそんな気持ちだった。しかしまだ望みを棄てていた訳ではなかった、その内
止めるんじゃないか まだ正式なエホバの証人じゃないし、離婚と言っても子供の事もあ
るし宗教問題を除けば以前と変わらぬ妻だった。今から思えばほんとに甘い考えだった
と思う。
   誕生日を祝わなくなった事
<この事は私にはショックが大きかった、ついこの間まで我が家の一大   イベントとし
て妻もケ−キ作りを楽しみにしていたのに。>
  クリスマスを祝わなくなった事
<誕生日と同様に友達を呼んで楽しんでいたのに。>
  子供を幼稚園に行かせない事
等々問題は少なからずあったが 一番気になったのが集会と伝道である。まだ小さい子供
を連れて伝道をしている女性を街でよく見掛けるが
自分の妻と子に重ね合わせては不快な気持ちになった。妻が伝道する事によりまた一つ
の家庭で不和が生まれるような気がして、
結局 妻は研究生として4年間を過した後 バプティスマを受け正式なエホバの証人となっ
た。この事を偶然知った時、私の反応は妻を殴り付けるという過激なもので その時から
この結婚は終わったと感じていた。
私にとって妻がバプティスマを受けるのは絶対許すことのできない事だったのだ。
これだけ言っても解らない、相手の言うことに耳を貸さない そんな人とこれから先ずっ
と暮らしては行けない、そんな思いを誰にぶつければ良いのか 妻との関係は最悪となっ
ていった。離婚の話し合いもした。
この頃 世間では統一教会が問題となっていて山崎浩子さんの救出活動について報道され
ていた。キリスト教の牧師さんに頼るしかない、そう感じた私は早速近くの教会へ連絡
し相談してみる事にした。幸いにも私の訪ねた牧師さんはエホバの証人に関心を持って
いる方で、書籍を貸していただく事ができた。この事をきっかけにして私にはかすかな
光が見えてきたような気がした。
この書籍から、エホバの証人はマインドコントロ−ルを使用するカルト集団であるとい
う事が解り 私が今までしてきた反対活動は結局のところ妻に ものみの塔は正しいと確
信させる事につながっていた事に気付いた。
救出の専門家に頼るほか無い、そう考えた私は妻が集会で家を空けた夜西舞子バプティ
スト教会へ連絡を取った。この時の事は今でも忘れる事ができない、この日 草刈先生は
長野へ来ていてなんと私の家から数百メ−トルしか離れていない波多野さんという元研
究生の方の自宅に滞在されていた。波多野さんご夫妻は 妻と同じTさんと研究していて
以前お会いした事のある方だったが、その当時は敵対視していた為素っ気無く挨拶した
ように記憶している。早速家まで伺い今後の対応をお願いしたところ快く引き受けてい
ただき そしてまた 草刈先生、波多野さんご夫妻に励まされこの日から救出に向け準備
する事となった。妻との関係を修復し話のできる夫婦関係を作る これが一歩目で先はま
だ長い道程に思われた。もう止めよう もうだめだ とくじけそうになる事も度々あった
が 波多野ご夫妻に相談したり愚痴を聞いてもらいながら先へ進む事ができた 大変感謝
している。 相談相手がいなかったなら多分失敗していただろう。夫婦関係もある程度修
復され妻は少し年の離れた第三子を妊娠する事となった。この頃には夫婦で輸血の事な
ど深く話し合えるようになっていた。妻は元看護婦で ある程度の知識があり組織の教え
る輸血の定義について疑問を感じたようだった。私にも少しおかしい気がすると言うよ
うになり、この事を廻りの証人にも話したため 妻は長老達から査問を受ける事になる.
....
出産も迫ってきた事や血の問題もあり妻は組織から距離を置く様になった。
      そして
1994年7月 産婦人科医である波多野さんの御主人の手により二男が元気に誕生した。妻
の妊娠が分かったときはこれで救出の日程も延びてしまうと落胆したが、結果的にはお
互いに話し合う機会も増え 拒否すべき相手である元研究生の波多野先生との交わりも持
つ事もできた。
退院してある程度落着き 私は妻がそろそろ集会に行き出すかなと思って様子をうかがっ
ていた。予想に反してそんな気配も見せず 不審に思った私は<集会行かないのか?>と
聞いたところ、輸血やその他いろいろな問題で今は行く気がしない、との答えに 波多野
さんご夫妻とも相談し、救出するなら今しかないのでは という事になり、
早速 草刈先生に連絡してこちらに来て話してもらう事となった。救出場所は波多野さん
宅をお借りして、草刈先生 波多野さんご夫妻 元証人のHさん そして妻と私の6人で話を
する事となった。反発を予想していたが意外に素直に話を聞く事ができ、妻は 3日とい
う短い期間で組織の間違いを認めイエスキリストは救い主 と告白する事ができた。1994
年10月の事である。

 早いもので妻が救われてから早4年半が経過した。私の心の中では辛く苦しかった日々
も次第に風化しつつある。しかし あの事があったからこそいま幸せな家庭があるといつ
も思う。 あの時途中で挫折していたら 離婚していたら苦い思い出だけが尾を引いてい
たと思うと、相談事をいやな顔もせず親身になって聞いていただき適切な助言をくださ
った波多野さんご夫妻や草刈先生には心から感謝している。この場をお借りしてお礼申
し上げたい。

《編集者より》
この手記は、日本に無数にあるエホバの証人による家庭破壊の一つの典型を示すものでしょう。奥さんが反発することなく、ものみの塔の「真実」を知ることができたことは何よりでした。今後「救出」活動がどのように発展するのかわかりませんが、日本独特の反カルト対策として注目されています。今後の運動の進展を教えて下さい。


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