「『神の神経学』を拝読して」−pendulumより

(12-24-04)

こんにちは。pendulumです。『神の神経学』、拝読いたしました。出版と同時に入手した
ので、読了したのはずいぶん前なのですが、個人的な事情でメールを書くのがだいぶ遅れ
てしまったことをお詫びいたします。

同書を拝読してさまざまな刺激を受けることができました。色々書きたいことはあります
が、気づいたこと考えたことをなるべくまとめて書かせていただきたいと思います。

結論から言いますと、村本さんが以前おっしゃっていたように、同書で提唱されている宗
教観は、私が考えるようになった宗教観と非常に似ているとの思いを強くしました。村本
さんのまとまった宗教観に触れることができる前から、結果としてそうなっていたという
ところに不思議さを感じると共に、自分なりの真剣な探求活動が辿ってきた道筋に関して
どこか安心した気持ちも持てました。

しかし、信仰のバックグラウンドを持つ多くの人たちにとって、同書のスタンスはにわか
には賛成しにくいようです。その理由を村本さんご自身も幾度か触れておられました。同
書の始めに述べられているように、「神経学的神論」は脳についての科学的研究成果を通
して「有神論と無神論の間を橋渡しする」可能性を持つものとして紹介されています。し
たがって、JWのような保守的な宗教に属する人がサラッと読むだけでは、やはり無神論へ
の傾きを感じてしまうのかもしれません。

私も生粋のJW2世ですから、彼らがそう思う気持ちは理解できます。「外なる神」に支配
されている人間にとって、「内なる神」への視点を移すことは容易ではありません。

それでも、神経学的知見が共有できれば、理解しやすくなると思います。すなわち、我々
が普段認識している「現実」とは、実は同書が述べる「脳の仕組みに依拠した機能」に依
存するもので、「現実」とは我々の「脳内での現象」そのものであること、言い換えれば、
我々のソフトウェア的活動はハードウェアに依存していることへの認識を共有できれば、
理解しやすくなるのかもしれません。たとえば、前頭前野皮質が倫理や道徳をつかさどる
のに決定的な役割を有しており、ここに障害をきたすことが敬虔な信仰活動に致命的な障
害をもたらす、ということを我々一般人は普段の生活の中で実感することはできません。
しかし、村本さんのような医師・専門家は、そうした障害を日々の診療や研究活動の中で
目の当たりにしておられます。我々にとってはあまりにも非日常的な世界を、専門家ゆえ
に常識として経験しておられると言えるかもしれません。その経験の差が、理解の溝を作
る一因のような気がします。

我々一般人は、<現実>という言葉を使う際、自分が認識した事象が同時に外界にも実在
するという前提で通常話します。夢などは<現実>ではないと暗黙のうちに分けて考えて
います。それゆえ、自分の認識と外界の世界との間に実は「隙間(キョリ)」があるとは
考えません。このような、昔なら一部の哲学者だけが一生懸命考えていたような問題を、
神経学的神論は科学の俎上で議論しており、それが、脳を持つ我々一般人にもあてはまる
話として展開されます。しかし、こうした科学的知見を土台とするような話が一般の人に
受け入れられるのには、やはり長い時間を要すると思います(生まれて1世紀以上経つ進
化論ですら、まだ定着したとは言えません。しかも、最も激しい反対にさらされているの
は先進国の代表のような国、アメリカなのです)。

当然のことながら、私はサイエンスの博士号を持つような専門分野を学んだ人間ではあり
ません。その意味ではごく一般的な市民です。その私が神経学的神論のような視点で語ら
れる神に関心を持つきっかけとなったのは、精神病理学的な視点からでした。この点で、
V・E・フランクルというナチスの強制収容所を生き抜いた一人の精神科医の著した書物は
示唆的でした。彼は多くの著作を残していますが、特に、『夜と霧』(旧版、みすず書房)
、『識(し)られざる神』(みすず書房)にて表現される彼の内観的・精神病理学的考察
は、ちょうど神経学的神論と非常に近い考え方に結果としてなっていると思います。

ダッハウ強制収容所にて彼は、既に生き別れていた妻の幻と対話するという特殊な体験を
します。その時の神秘的な体験について彼は次のように書いています。「そのとき私の身
をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、
多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれて初めてつくづくと味わったという
ことであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のも
のであるという真理である。私は今や、人間の詩と思想とそして――信仰とが表現すべき
究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の
救い――これである」(123頁)。この経験について、彼は以後数ページに渡って書い
ています。それは彼にとってかなり決定的な体験であったようです。ちょうど、『神の神
経学』78頁以降で扱われている「宗教固有の体験」の記述とかなり共通する記録となっ
ているように思います。

なお、フランクルは「被造物」という概念を使っていますが、これはJWが考えるような字
句通りの「設計者」的な「創造主」の概念を必ずしも意味しません。そうではなく、我々
人間は、自分の存在を自分でコントロールして生み出してきたわけではない、自分たちの
預かり知らないところで生み出されてきた存在であるという意味で「被造物」と言えると
考えた方が理解しやすい捉え方だと思います。私の知る限り、フランクルは「創造主」と
いう概念をほとんど全く語っていません。

神秘体験とは別に、フランクルは、『識られざる神』の中で「無意識に内在する神」(8
0頁)という表現を用いています。ここでの「無意識」は精神分析的な意味での無意識で
すが、その位置付けは、無意識の領域にも人格性を認めるという点でフロイトのものとは
異なっています。

また、フランクルの言う神観に「二人称としての神」というのがあります。つまり、その
人にとって常に「あなた」としか語られない対象としての神です。自分が向き合う神に関
して二人称しか用いないとすれば、その神は祈りの対象としての神であり、他者に示した
り、「証明」したり、他者と組織して崇拝する神とは異なるニュアンスを持ちます。つま
り、神経学的神論の言う「内なる神」と非常によく似た概念なのです。これは「三人称の
神」が宗教組織的な「外なる神」と非常に近いことを考えればより納得がいきます。

そして、フランクルの思想を調べてみると、ユダヤ人なので根本的にはユダヤ教徒なので
すが、一方で中世の神秘主義思想家として有名なマイスター・エックハルトが影響を与え
ているようなのです。エックハルトは、その透徹した思想とキリスト教の枠組みに収まり
切らない教説によって異端視もされた人物ですが、非常に深い宗教的思索を著した人物と
して評価されています。研究者の間では仏教との共通点がかなり指摘されてもいる神学者
です(なお、神秘主義という言葉は今日かなり色々に用いられており誤解も多い言葉です
が、「まとも」な神秘主義は、いわゆる疑似科学やトンデモと呼ばれる胡散臭い思考とは
明確に一線を画した高度な思想です)。

ここまで、フランクルに言及することで、「神秘体験」、「内なる神」、「既成宗教の枠
組みを越え出た信仰」に触れてきました。このあたりの議論まで来ると、神経学的神論が
扱うテーマとかなり重なってくるところが多いように感じます。ある特定の宗教を越えた、
また薬物やてんかんや統合失調症などがもたらす病的体験とも割り切れない「何か」にぶ
つかるのです(ただし、強制収容所内でのフランクルの神秘体験はやはり身体的精神的な
限界状況で生じたものでしょう)。私の理解が十分とは思いませんが、私自身の中では、
これらの哲学的思想・体験と、神経学的神論が提唱する科学的枠組みとがかなり矛盾無く
結びつけることができています。結果、以前は互いにぶつかりあって解決できずにいた様
々な問題、たとえばセクシャルマイノリティ・先天的ハンディキャップなどの本人の責任
によらずして存在する問題や生物進化の問題、キリスト教・イスラム教・仏教間の相違の
問題や、JW的思考観で問題とされてきたような「宗教的真理」の問題、「人生の目的」や、
「人は死んだらどうなるか」と言った問題を、すべて自分の中で無理なく解消させること
ができました。少なくともこの種の問題については自分なりに整理がつき、今は現実社会
の中に身を落ち着けて生活することができています。

ヒトが健全な信仰を持って生活することは、その信仰内容が客観的にどれくらい妥当かは
別としても、社会生活や配偶者獲得に資するのであれば少なくともその集団内においては
進化的に「適応的」であると言えることになります。個々の個体は、客観的真理のために
生きるよりは、それ以上に自らの生存や家族形成に資するものを優先的に抱えて生きてい
く方がより適応的に振舞うでしょう。少なくとも過去において信仰を持つ事は自然選択的
にも適応的であったとNewbergらは考えていますし、この点は村本さんも同意されること
と思います。また、信仰を放棄させるような淘汰圧が現在特に存在していないことを考え
れば、今後もヒトが広義の意味での信仰を捨てることはほとんど無いと言えるかもしれま
せん。であれば、そうした中で、やがて村本さんが望まれるような宗教的平和関係が訪れ
れる日が来れば良いと私も思います。

今の私はそんなことを考えるようになりました。非常に示唆的な本を著してくださったこ
とに感謝しています。

《編集者より》
非常に深い読み方をしていただき、著者としては嬉しい限りです。その後多くの批判をもらい、ある意味では反省もしています。多くの宗教家は、予想通り(前書きに書いた通り)一蹴する人が多いようですが、それは仕方がないと思います。この本は私の早熟児とでも言えると思います。今後は、地盤を広げて同じメッセージを色々な角度から論じていきたいと思っています。その意味であなたの紹介されたフランクルの思想は非常に重要なものだと思います。フランクルのロゴテラピーの本質は「救いは外から来るのではなく、自分の中に見出すものである」というものだと私は理解しています。フランクルに限らず、私の著書も含めて、私たちはもっと自分の内側を探求することにエネルギーを使う必要があるでしょう。宇宙の問題や聖書の解釈などの「外の問題」に躍起になっている宗教家や哲学者が、自分の内側にあるものが如何に未開拓で未知であるかを知った時に、きっと新しい視点が生まれるのではないかと思っています。私も今後そのような探求を続ける積りです。