「さまざまな聖書信仰」−T

(11-29-04)

すいません、もうひとつレスを頂いていたのを見落としていました。

「あなたが展開した上の議論は、あなたと読者が共に「エホバの証人型のクリスチャ
ン」である場合にのみ当てはまりますが、それ以外の「クリスチャン」には当てはま
りません。それは聖書の解釈の仕方が違うからです。」

ええと、私もその通りだと思います(私がちゃんと自己紹介せずあのような書き方を
したため
私がエホバの証人と思われているようですが、前のレスにも書きましたとおり、今で
は棄教者です)

村本さんは少なくとも以前は、エホバの証人が「異端であること」を理由にも批判さ
れていましたよね。あのメールは、創世記を信じませんというキリスト教徒が、聖書
にかかれていない「三位一体(少なくとも単語は)」を信じないことや「クリスマ
ス」を祝わないという理由で、エホバの証人を異端とするのはおかしいのでは?とい
う意味合いで書きました。ただ最近村本さんは、他の読者の方も指摘されていたよう
に、正統派キリスト教信仰の観点からエホバの証人を批判されることはあまりなく
なったようですね。勝手に空回りしたことをおわびいたします。

でもそれはきっと村本さんが、「エホバは三位一体を信じないから異端」「クリスマ
スを祝わないから異端」「十字架をさけるから異端」といった批判が、実質的な意味
のないものであることにお気づきになったからではないでしょうか。それらは純粋に
信仰の問題であって、それらもまた「他に五万とある多くの聖書解釈に基づく信仰の
中のただ一つに過ぎ」ないことが分かっておられるからだと思います。いまや無宗教
となった私にとっても、「3つでひとつ」であろうが「3つは3つ」であろうが、それ
は他人がジャッジするような問題ではないと思っています。

ところで村本さんご自身は今でもクリスチャンですか?(私が、世の中にはいろんな
聖書解釈があって、いろんなクリスチャンがいることを本当は認めるのは、上にも書
いたとおりです。)前のメールで間接的に聞きたかったのは、村本さんのような進化
論者が、なぜ同時にキリスト教を信じれるのか?ということです。こんな質問をする
と「あなたはまだエホバの証人的な考え方が抜けていない」と怒られそうですが、私
が知ってる「キリスト教」と村本さんにとっての「キリスト教」が違うことは、よく
分かっています。

その上で、村本さん個人にとっての「キリスト教」とは、どういうものでしょうか?
なぜ、わたしたちがほんとうは、神の創造物でなく、アダムの子孫でもなく、アダム
の罪を負ってるわけでもなく、イエスがアダムの罪をあがなったんじゃないとして
も、キリスト教を信じるのかが、挑発とか批判じゃなくて、純粋に聞きたいのです。

《編集者より》
これは『「創世記が『神話』だとしたら…?」−T』の投書の続きです。「異端」の概念は、あくまでいわゆる「正統派」のキリスト教を信じる立場の人から見る見方であり、その積りで紹介しています。それが「正統」であるかどうかは、夫々の人の解釈によると思います。三位一体も十字架の問題も、全てその範疇に入るものであり、私自身は個人的には(そしてレイモンド・フランズや多くのエホバの証人批判者たちは)本質的な問題ではないと思っています。私自身がクリスチャンであるかどうかの質問については、何度も書きましたが「クリスチャン」という言葉が余りにも違った意味で使われ、濫用されている現実を見る限り、私はこの言葉をできるだけ避けたいと思っています。言葉やレッテルが、もちろん本来の意味はありますが、現在では一人歩きして放浪状態になっており、ほとんど意味をなさないからです。例えて言えば、現代のアメリカ社会で「愛国心(patriotism)」という言葉が、同じ様に「一人歩きの放浪状態」にあるのと同じで、アメリカ人のほとんどが「私は愛国心がある」と言いますが、その内容は何なのか人によって全て違いますし全く予想もつきません。従ってこの言葉は空洞化して大した意味もありません。私は「クリスチャン」という言葉も今は空洞化した言葉となっていると思います。レッテルを貼ることは誤解と混乱を招くだけで、私は無用なことであると思っています。

一般的に言って、人の感性や信じることを言葉で伝えることは非常に困難です。今見たように、言葉は常に空洞化し、意味をなくし一人歩きする可能性があるからで。私が「これこれが私の信仰」と言えば、その時点でそれはその「これこれ」という言葉に縛られ、その言葉は実体から離れ、一人歩きをし意味を失うからです。これは古代からの哲学の大きな難題であり、現代にも続いています。あなたの質問にできるだけ近づく答えをするとすれば、私が出来ることは自分の信じることの「例」を上げてその奥にあるものを推察してもらうことしかないと思います。もちろん、このサイトではすでに多くの「例」は上げてあると思います。あなたの今回の質問については、進化や創造の話は、私は「神話」としての価値を信じていると申し上げます。ただ、直ぐにここで問題になるのは、残念ながら「神話」という言葉が空洞化してしまったことで、ここでも直ぐに私が今述べた難問がたちはだかります。残念ながら神話=作り話=ウソという概念が確立し、神話(ギリシャ語でmuth)の本来の意味、すなわち表面的な言葉で表しきれないものを伝える手段として発達した「神話」が、今では忘れ去られているからです。しかし、「神話」は言葉で表されるもの以上のことを伝えます。聖書の言葉が空洞化し、同じ聖句を引用して正反対なことをする「クリスチャン」たちがいても、言葉を超えた「聖書神話」の素晴らしい内容は空洞化することはないと私は信じています。