「『精神病』や『カルト』に関して」−T

(11-29-04)

村本さんが返してくださった残りのレスに対して、以下まとめて返信します。

「大部分の精神科医は、犯罪者と交わったことはありませんが、犯罪者の心理的背景
を分析して専門意見を述べます。あなたの議論から行けば、神経科医や心理学者は全
て犯罪者と交わらない限り意見を書けないことになりますが、こんな無茶な議論はあ
りません。」

犯罪心理学を研究するために犯罪者のいちみになる必要はありませんが、実際に面談
やテストなどを通して研究者が犯罪者と接触しなければ、その分析は想像の域を越え
ませんよね?

「私の意見は、私自身や私の知る神経科医、心理学者たちのエホバの証人の診療経
験、そして私自身の多数のエホバの証人の方々との交流に基づいています。 」
「データを取れない状況を作り上げておいて、データがないから信じられないという
のは、目撃者を殺しておいて、目撃者がいないから無実だと言い張る犯罪人と同じ論
理でしょう。データがない以上、だれも断定的なことは言えませんが、経験に基づい
た印象として意見を述べることは、医学界では一般に行なわれることです。」

村本さんの知る神経科医や心理学者の診療経験を基にすれば、当然精神的に治療を必
要としているエホバの証人の話しか聞かないでしょうから、あのような偏った印象を
受けるのは当然といえば当然です。村本さんご自身が交流を持ったエホバの証人の方
が「不安と恐怖に弱」く、「ニセモノに簡単にだまされ易く」、 「硬直思考」かつ
「被害妄想的」で「分裂気質」だったのでしたら、それまた偶然にそのようなタイプ
の方がお集まりになられたのだと思います。

組織に10年ほどいた私の個人的な印象としては、特にエホバの証人があの記事で言わ
れているほどひどいものではなかったので、とても偏った意見に見えました。


「宗教のある部分が現実逃避の手段であることは、別に私が言い出したことではな
く、古くから宗教学者、人類学者の間で広く認められている見解です。 」

なるほど。では私が指摘した通り、これは特にエホバの証人に限って言えることでは
なく、他の宗教全体にも言えるということですね。

「あなたが取り上げた個々の信者や家族の例でも、確かにいくらでも例外があること
は否定しません。ただこれは、「インド人は牛肉を食べないと本に書いてあります
が、私はステーキを食べるインド人を何人も知っています、だからこれはウソで
す」、というようなもので、あなたの他の投書にも同じ思考法が現れていますが、
個々の例を取り上げて全体を否定することは、論理の飛躍でしかありません。 」

一部の例外を取り上げて全体を否定することは論理の飛躍である…私もそう思いま
す。なんかお互いそう思ってるようですね(笑)私は村本さんが、精神的に問題を抱
えるエホバの証人を取り上げて、全体にそういう傾向があるという意見に関して、そ
う思いました。


「あなたの価値観から言うと、ピープルズテンプルの集団自殺も宗教を信じることに
より死を選んだことになりますから、これは「良心の殉教者」ということになるで
しょう。」


私が述べた、「輸血拒否自体は医療の選択の問題であって、命を奪うことを目的とし
た「集団自殺」や「殺人」とは全く違うものです」という意見についてはどう思われ
ますか?輸血を拒否するエホバの証人は、死ではなく代替治療を必死に求めるでしょ
う。自らの良心を守りながら、生きたいと必死に願うでしょう。

いくら村本さんがエホバの証人を「恐ろしいカルト狂団」に仕立て上げたいとして
も、FBIとの銃撃戦の末焼身自殺したブランチダビディアンや、視察団を皆殺しにし
たあげく集団自殺(半ば殺し合い)したピープルズテンプルと「似たような異常な精
神状態を持った団体」とするには、あまりに論理が飛躍しすぎだと思います。

《編集者より》
これも2004年11月18日から25日にかけて投書してきた「T」氏のその後の発言です。前回の投書にも書きましたが、あなたと私とでは根本的に見方が異なるということでは一致できるようです。つまりお互いに合意できないと言う点で私たちは合意しているようです。インド人が牛肉を食べない例をあげて、「お互いそう思っているようだ」と書いていますが、私もそう思います。牛肉を食べるインド人が例外なのか、牛肉を食べないインド人が例外なのかは、夫々の人の経験と見方によるので、これは意見の違いとしか言えません。いずれにしても、あなたのエホバの証人としての経験と、私がエホバの証人の方々と接してきた経験とでは大きな違いがあるようですし、その違いから来る意見も大きくちがいます。それはそれで、当然のことではないでしょうか。なお、一番最後の点のブランチダビディアンやピープルズテンプルについてですが、あの人たちは、元々は死を求めていたのではなく、その点ではエホバの証人とかわりはありません。やはり彼らも自らの良心を守りながら生きられれは生きたかったのではないでしょうか。追いつめられて他に選択がなくなった時、つまりエホバの証人で言えば輸血以外に生きる方法が無くなった時に、死を選んだのであり、見かけの死に様に違いがるものの、その本質、つまり宗教的信念の故に死を選ぶことは同じであると思います。