「進化論について」−T

(11-29-04)

お返事ありがとうございます。

「進化論が生物学の根本的な法則と知見の上に構築されている以上、
それを理解しない宗教家がいくら攻撃しても、全くの的外れにしかならないというこ
とを言っているまでです。」

これはあくまで元の記事の繰り返しだと思いますが、ひとまず私が「宗教家として攻
撃している」という敵対意識を捨てていただけますでしょうか?申し遅れた私がいけ
ないのですが、私は元エホバの証人で、今は無宗教です。特に創造論者でも進化論者
でもありません。ただ「創造」の本を読んで、進化論は学校で教えられる以上に数多
くの難題を抱えている理論だということを知りました。

「戸棚から落ちた瀬戸物」の例え話で、村本さんが言いたいことは良く分かります。
いかなる難題や謎に直面しようとも、科学者が「念力」や「天使」、「神」に答えを
帰すわけにはいかない事情はよくわかりますし、「不確定ではあるが最も確からしい
説明をとる」のが科学者として正しいあり方であることもよくわかります。

…で、つまり進化論は「不確定ではあるが最も確からしい説明」に過ぎないんですよ
ね?まだ「証明された事実」ではないんですよね?なのに証明済みの科学的事実かの
ような、それを信じない者は無学な者のような言われ方をしている点に、疑問を感じ
たのです。

なぜなら創造の本はいちおう、生命は自然発生しないこと(生命は生命からのみ生じ
る)、突然変異の限界(カエルの子はカエル)、中間化石はほとんど出てこない、と
いったまさに「生物学の根本的な法則と知見の上に」論理を展開しているからです。
それらについては一進化論者としてどう思われているのか、純粋に聞きたいという気
持ちもありました。

けれど、村本さんのお考えはなんとなく分かりました。

《編集者より》
これは一連の質問を送ってきたTさんの『「『進化か創造か』の考察について」−T』の投書に続く議論です。

進化論はあなたのおっしゃる通り、「不確定ではあるが最も確からしい説明」です。その裏には証明された事実もありますが、推論も含まれています。しかし、前のあなたの投書にも書きましたが、われわれはほとんどの場合「不確定ではあるが最も確からしい説明」に基づいて生活しています。あなたが髄膜炎菌の感染により髄膜炎を起こした場合、医師は直に抗生物質の点滴を始めるように強く勧めるでしょう。あなたはその時「それは『証明された事実』ですか」と聞くでしょう。私はいえ、それは「不確定ではあるが最も確からしい説明でしかありません」と答えます。あなたは「それではそんな不確かなことを信じるわけには行きません」と言って治療を拒否するかも知れません。この場合、あなたは多分90%の確率で死ぬかもしれません。もちろん治療を拒否しても絶対に死ぬという保証はありませんし、治療を受けても絶対に生きるという保証はありません。しかし、私もあなたも、この世の中の常識ある人はほとんど全て「不確定ではあるが最も確からしい説明」に基づいて決断をしながら生活しているのです。あなたが毎朝7時の電車に乗って会社に出勤する時に、その手段で会社に行くことが絶対に確実であるという保証はありません。たまたま7時10分にある駅で事故が起きて、会社に行けなくなる可能性もあります。でもあなたは「不確定ではあるが最も確からしい説明」に基づいて、今日もまた同じ電車に乗って通勤するのです。

このように見てくると、私たちは常に「不確定ではあるが最も確からしい説明」によって生活しています。従って私たちは普段はこのような不確定性を考えることはしなくなります。常識的に当たり前に思える確からしいことが確立された事実として扱われるのです。進化論がほとんどの場合に確立した事実のように扱われるのは、髄膜炎菌による髄膜炎を抗生物質で早期に治療することが確立した事実として扱われることや、あなたが何の疑問もなく毎朝7時の電車に乗るのと同じ理由によるのです。

なお、創造の本は何も『「生物学の根本的な法則と知見の上に」論理を展開して』はいません。中間化石の出ないことは何の証明にもなりませんし、現在の人類の観察できる事柄は全て限界がある以上、その限界が科学の法則を変えることはありません。観察できないこと、すなわち存在しないこと、という論理は、幼児の発達段階で2歳以前の思考法でしかありません。幼児は、机の左側からボールが転がってきて、目の前のスクリーンの裏側に転がって隠れてしまった場合、反対側のスクリーンの右側に転げ出て再度表れるであろうという思考ができません。つまり「中間型」が見えない限り信じられないのです。しかし幼児の脳がある程度発達すると、転がるボールを目で追いかけてきた幼児は、スクリーンの影にボールが隠れたあとも、その後を追うことが出来て、スクリーンの右側に視線を移しボールが再度現れることを期待します。つまり「中間型」なしに連続性の概念を作り上げることができるようになります。言ってみれば、創造の本は「生物学の根本的な法則と知見の上」の論理ではなく、スクリーンの陰にボールが隠れるとボールの存在が分からなくなってしまう二歳の幼児の論理でしかないのです。