「モーセが約束の地に入れなかったのは」

(11-3-04)

モーセが約束の地に入れなかったのは、メリバ(言い争い)の水の件でエホバに栄光を帰
さず、自分に注意を向けたからだと教えられてきました。でも、本当にそうでしょうか。
あのときエホバがおっしゃった意味はそういう意味だったのでしょうか。
岩から水を出すことになったのは、2度ありました。
一度はエジプトを出て2カ月ほどのとき、シナイの荒野へ着く手前のレフィディムでした。
水がなく、民がつぶやいたとき、エホバはモーセに、「ナイルを打った杖で岩を2度打つ
ように」と指示し、モーセはその通りにして水を出しました。(出エジプト17:1〜7)
二度目は、約束の地の目前で、カデシュにいたときでした。そのときのエホバの指示は、
「岩に話すように」という指示でしたが、モーセは民に対する憤りの言葉を述べ、一度目
のときと同じに、杖で岩を打ちました。
つまり、二度目のときのモーセは、神の指示に従わず、かつての経験から行動してしまっ
たのです。これは、大勢の民を率いるリーダーとして重大なことを意味しています。約束
の地へ入れば戦いが待っていましたから、とっさのときにエホバの指示に従わず、自分の
経験で行動すれば、民に損失や混乱を招きます。神は、モーセの内にそういう危険性をご
覧になったと考えられます。
でも、モーセは120歳でしたが、まだまだ元気でしたから、ヨシュアを新リーダーにし
て、くっついていくという形でモーセの願いを聞いてやることも可能でした。でも、リー
ダーをやめたからといって、モーセが一緒に約束の地へ入っていたらどうなっていたでし
ょう。長年リーダーをしてきたモーセの影響力がすぐなくなるとは考えられませんから、
ヨシュアは余計な荷を負うことになったでしょうし、民も混乱することは容易に想像でき
ることです。
ですから、神は、モーセのおかした一度の不敬の罪のためというより、これから戦いの時
期に入るときだったこともあり、民を混乱や分裂、敗戦等の損害から守るために、あえて
「あなたはここまでで十分である」(十分務めを果たしたともとれる)と言われ、約束の
地に入りたいというモーセの願いを聞かれなかったのだと思われます。
この件を、神の権威(統治体にも二次的によく適用される)を損なうことは神の目に重大
なこととして教えるのと、神は民のためにモーセをあえて退けたと教えるのとでは、信者
の体質形成に大きな違いを生じていくことでしょう。
つまり、あれほど用いられたモーセも、約束の地を前にして、リーダーの立場を交代させ
られました。神の言葉に従わず、民に害を与える可能性を、神は非常に重要視されたので
す。
統治体や支部にも当てはまることではないでしょうか。
神の言葉に全然裏打ちされていない独自の取り決めに固執し、組織に「神がかり」的権威
を授ける組織サイズの神を真のエホバとして教えることにより、真に神の救いがや安らぎ
が必要な人たちを、「弱い立場の人」として位置づけ、偽善的に言葉のサービスでごまか
し、実質はあくまでも元気に組織拡大に貢献し、組織の取り決めには何でも「はい」と従
う人を「神に忠実な人」と評して高く高くヨイショするため、結果的に本当に神を必要と
する人は組織内では追い詰められていきます。また、神権組織の名のもとに世界的な特権
階級をつくり上げてきました。
モーセが用いられたように、統治体も基礎的知識の面や聖書と調和している面では用いら
れてきたと思います。最初はよくて最後は悪いのが聖書ではよくあるパターンとして記述
されています。そして、モーセ同様、最後まで用いられることは保証されていません。
キリスト教会の成員からエホバの証人が生まれ、あちこちの教会に散在していた教えを集
積してエホバの証人の教えが生まれたように、エホバの証人から、さらに聖書を求めるグ
ループが生じても、また、そのグループが基礎的知識の面でエホバの証人の教えを基礎と
していても、それは神への反逆ではありませんし、聖書的背教ではありません。(同じ道
を踏んでいるだけです)聖書的背教は、あくまでも、エホバとキリストを否定する「反キ
リスト」の人のことです。口では「イエスよね」「エホバよね」を連発しても、心や脳が
組織に支配されていたのでは、結果的にエホバとイエスを否定していることになる場合も
あるのです。
自分の言動は本当に神の愛から発しているかどうか、クリスチャンとしての自分のステー
タスのために言動していることはないかどうか、組織と同じように、自分には心底に冷た
い心を同居させていないかどうか、よく吟味してみることは大切です。
「バビロンから出なさい」というのは、自分が属しているものを間違うと、災いをともに
することを意味していますよね。

《編集者より》
聖書の記述で私も興味を持っていることは、人間のリーダーたちが常に間違いを犯して神から叱られて来たことです。もちろんそれは人間がいかに神の目から見て不完全であるかを示すものですが、これは聖書の書かれた時代の後も、同じ様に続いていると思います。あなたが書かれた「最初はよくて最後は悪いのが聖書ではよくあるパターン」というのは、その後の世界にもあてはまります。キリスト教会二千年の歴史を見れば、権力の腐敗とその改革の努力の繰り返しでした。ものみの塔協会の歴史もその典型と言えるでしょう。問題は老朽化し腐敗した権力が、新鮮な次の世代による改革に道を譲らなくなった時でしょう。そうなると腐敗はますます悪化しますが、それでもいずれ膿が流れ出ないことはありませんので、いつかは老朽化して腐敗した宗教権力は崩れて、新たな道が開かれると思います。これは聖書にも記述されているし、その後の歴史でも示された、宗教社会の基本的な営みであると思います。