「あなたは質問の肝心な部分に答えていません」−「編集者さまへの質問 続き」

(9-28-04)


あなたのアイデンティティーが「あなた」である、ということ
に異論はないので大丈夫です。私のアイデンティティーも今こ
うして質問している「私」であるからです。私が何者であるか
をとかく気にして、さらに質問している私の動機について読者
に特定の印象を与えようとするかのように言葉を荒げて勝手に
推測なさっているのはあなたの方ではありませんか。何度も申
し上げますが「あなたのアイデンティティーが分からない」と
お尋ねしたのは、このサイトにおける「あなた」というアイデ
ンティティーの主義主張が一貫していないからです。しかしそ
れに対する精一杯の回答が「自分は幾つかの異なる立場で発言
している」「自分の宗教観は常に変化するものであり、今でも
模索している」ということでしたので、もうその点についてお
尋ねするつもりはありません。さらに私が明らかにしたいのは
「あなたがどんな仮面をつけているか」ではなく、あなたがつ
けている「仮面」の奥にある真の姿です。

これまでの回答によれば現時点でのあなたの主張は、イエスも
仏陀もみんな神話で土地の人間が考え出した産物なんだから、
どれが真理かなんて不毛な争いはやめて「ごちゃまぜ」にしよ
うよ、というものです。その理由で既存の宗教の1つに括られ
ること、ましてや特定の宗教組織に属することをあなた個人が
何よりも忌み嫌っておられることは理解できますし、それはご
自由です。ただあなたのように真理などない、という結論に至
る人がいる一方で、同じようにさまざまな宗教的信条を調べた
上で、その1つを真理と信じるようになり、その信条を実践し
ている宗教団体に属することを自ら進んで選択する人もいるの
ではありませんか。それが脳の働きに逆らうことであるとか、
仮面をつけているだけとか、さらにその信条を実践し広めよう
とする行為を「仮面をつけろ」呼ばわりするなど信教上の表現
の自由また結社の自由を否定されるような発言をなさるのはな
ぜでしょうか。単に宗教組織を感情的に毛嫌いする点で排他的
なのはむしろ「あなた」ではありませんか。異端審問のような
やり方は確かに宗教の、特に「正統的」キリスト教の汚点です
が、そのような極端な例をもってすべての宗教団体をなくせ、
というのは逆に過激ではないですか。では百歩譲って宗教組織
すべてを解体すれば人々は愛し合えますか。あなたは宗教を批
判するのに麻薬やたばこ中毒の例をあげるなど「宗教は人民の
阿片」と言わんばかりの時代錯誤の宗教批判をなさっています
が、あなたの毛嫌いする宗教団体をなくしたところで問題は解
決しないのは共産圏の失敗をみれば明らかではないでしょうか
。

いずれにしてもあなたは持論を力説されるばかりで私の質問の
肝心な部分には答えていません。もう1度簡潔に繰り返します
。

・かつては「組織宗教に属さない」キリスト教信仰を勧めてい
たが、現在のあなたの主張「属さない」宗教とは事実上すべて
の宗教的信条に対する信仰を否定するものではないのか。
・キリスト教の根本教義については単に神話としてではなく、
それを歴史的事実として肯定しなければキリスト教信仰そのも
のは成り立たないのではないか。
・最近ではそれらの根本教義を歴史的事実として否定する発言
をしておきながら、「属さない」宗教はキリスト教の根本教義
とは矛盾しないという主張そのものが矛盾していないのか。
・以上の点をふまえて、1つの宗教的信条を真理であると誠実
に信じる人にとって、自分や他人が何を信仰しているかが本質
的ではなくなることなどありえるのか。

ご回答をお願いします。

《編集者より》
前回の投書で、私はあなたの質問に対して誠実にお答えした積りですが、それでもあなたは、「あなたは質問の肝心な部分に答えていません」と言われます。なぜでしょうか。私はこれは意見の違いがはっきりしていて、議論がすれ違いになっている場合に、よく出てくる質問だと思います。大統領選挙の論争でも、日本の国会討論でもそうでしょうが、「あなたの答えは答えになっていない」と言う状況を見てみると、双方が結局強い意見を持っていて、両者が歩み寄って合意に達し得ない時、このような発言が見られます。つまり自分の期待した答えが出てこない限り納得できない、という態度ですが、もちろん合意に達しない論争では、相手が期待して喜ぶような答えは出てくるはずがありませんから、いつまでたっても「あなたは私の質問に答えていない」という不毛な堂々めぐりの議論になってしまいます。

今回あなたはあなたの意見をはっきり述べていて、それが私の意見とはっきりと対立するものであることがわかりました。私はそれはそれで充分理解できますし、そのあなたの意見を否定する積りもありません。あなたの意見はあなたのものです。このサイトをやっている上で、私の立場が理解できない人は、数限りなくいますから、別に私はそれで「言葉を荒げて」いるわけではありません。それはあなたの受け取り方の問題でしょう。ただ、一つの問題は、あなたに誤解があることです。たとえば、次の部分です。


     ただあなたのように真理などない、という結論に至
る人がいる一方で、同じようにさまざまな宗教的信条を調べた
上で、その1つを真理と信じるようになり、その信条を実践し
ている宗教団体に属することを自ら進んで選択する人もいるの
ではありませんか。それが脳の働きに逆らうことであるとか、
仮面をつけているだけとか、さらにその信条を実践し広めよう
とする行為を「仮面をつけろ」呼ばわりするなど信教上の表現
の自由また結社の自由を否定されるような発言をなさるのはな
ぜでしょうか。

私は「真理などない」などと言ったことはありません。あなたの「真理」と私の「真理」とが違うだけです。「信教上の表現の自由また結社の自由を否定されるような発言」をしたことは一度もありませんし、このサイトを見ていただければ分かりますが、全くその正反対で、私の信条は宗教表現の自由であることは、多くの読者の方も認めている通りです。「仮面」という表現を勝手にそのように解釈するのはあなたの自由ですが、それもあなたの意見であって、私の真意ではありません。

もう一つの完全な誤解の例を挙げましょう。


が、そのような極端な例をもってすべての宗教団体をなくせ、
というのは逆に過激ではないですか。では百歩譲って宗教組織
すべてを解体すれば人々は愛し合えますか。あなたは宗教を批
判するのに麻薬やたばこ中毒の例をあげるなど「宗教は人民の
阿片」と言わんばかりの時代錯誤の宗教批判をなさっています
が、あなたの毛嫌いする宗教団体をなくしたところで問題は解
決しないのは共産圏の失敗をみれば明らかではないでしょうか

私は「すべての宗教団体をなくせ」と言ったことは一度もありません。『神の神経学』の242ページを見ていただければ分かりますが、そこにはあなたのご意見と全く正反対のことが書いてあります。「宗教は人民の阿片」という言葉に対する私の考えは、同じ本の257ページから258ページに書いてありますが、ここでもこの言葉がいかに表層的な宗教の見方で宗教の本質を無視した見方であるかを述べてあります。私は「宗教は人民の阿片」という言葉を宗教批判に使っていません。ここでもあなたは正反対の誤解をしています。

このように見てくると、どうしてあなたが「あなたは質問の肝心な部分に答えていません」という結論に達したかがわかるでしょう。それは私が言っていないこと、私の真意でないことに対して反論の質問をしているからです。よく言えば誤解でしょうが、多くの場合、特に宗教や政治論争では、相手の言っている事を歪曲します。それが私の言う「仮面」なのです。相手に何とか「仮面」を被せて土俵に立たせたいのです。そのためなら元々は無かった仮面も作り上げて被せることになるのです。それが歪曲です。そして元々真意ではない歪曲に対して「答え」を求め、自分の期待する答えが出てこないと、「あなたは質問に答えていない」と結論することになります。

ある人の意見を理解するには、その人の立場になって考える努力が必要です。多くの場合、敵対心が先に立ち、相手の立場に立って理解しようとする努力はできず、ただただ自分が聞きたいと思う答えだけを期待し、それが聞けないと「答えになっていない」と苛立ちます。多くの政治や宗教などの、接点のない議論がそのようなものです。

最後にもう一度あなたの質問の一つ一つに答えます。これらはきっとあなたが聞きたい答えではないでしょうが、あなたの期待にそうかどうかが答えになっているかいないかの基準にはならないことは、あなたも理解できるのではないでしょうか。そうであれば、これ以上、「あなたは質問に答えていない」という不毛な議論はやめて、少し時間をかけて考えることをお勧めします。


・かつては「組織宗教に属さない」キリスト教信仰を勧めてい
たが、現在のあなたの主張「属さない」宗教とは事実上すべて
の宗教的信条に対する信仰を否定するものではないのか。

いいえ、その正反対で、私は誰がどのような宗教的信条を受け入れても、その信仰は全て尊重されるべきだと思っています。一つの宗教的信条を受け入れることにより、他の全てを否定する必要があるのであれば、そのような人こそが「すべての(自分以外の)宗教信条に対する信仰を否定」していますが、(ものみの塔はその典型ですが)私はそのような立場とは正反対です。

・キリスト教の根本教義については単に神話としてではなく、
それを歴史的事実として肯定しなければキリスト教信仰そのも
のは成り立たないのではないか。

「成り立たない」と信じる人もいますが、そうでない人もいます。私は後者ですが、前者の立場も尊重します。人それぞれだと思います。それぞれの信仰の仕方を尊重すべきであることは、上にお答えした通りです。

・最近ではそれらの根本教義を歴史的事実として否定する発言
をしておきながら、「属さない」宗教はキリスト教の根本教義
とは矛盾しないという主張そのものが矛盾していないのか。

矛盾していると思う人もいますが、矛盾していないと思う人もいます。私は後者ですが、前者の立場も理解できます。信仰は数学の証明ではありませんから、何が矛盾していて何が矛盾していないかは、個人の信仰の問題で、やはり人それぞれであると思います。一人の人が矛盾していると思っても他の人は矛盾していると思わないことは、特に宗教では、ごく当たり前です。

・以上の点をふまえて、1つの宗教的信条を真理であると誠実
に信じる人にとって、自分や他人が何を信仰しているかが本質
的ではなくなることなどありえるのか。

全ての人にとって、何を信じるかは常に本質的な問題であり、それはなくならないと思います。『神の神経学』の260ページ以降に、この点に関して詳しく書いてありますので、お読み下さい。
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