「編集者さまへの質問 続き」

(8-26-04)

先日「編集者さまへの質問」を投稿した者です。ご回答をあり
がとうございました。キリスト教や宗教そのものに対する編集
者さまの考えが変化してきたことは理解できました。ただ私は
「属する」というニュアンスでアイデンティティーという言葉
を使った訳ではありません。組織宗教に属さずにキリスト教信
仰や仏教信仰を実践することは当然可能ですし、そのような人
は多数います。その点も含め編集者さまの回答は私のお尋ねし
た論点からずらされているように感じました。それでもう少し
はっきりとお答えいただきたかったことがあります。

これは一例ですが、近年、特にアメリカのプロテスタントの間
でキリスト教を誠実に信仰したいと考える人たちを中心に「キ
リストの神性」「キリストによる贖罪」「キリストの復活」と
いうキリスト教の原点に回帰したシンプルな信仰に基づく信仰
合同の動きが広まっており、1世紀に始まったThe Churchは現
存するどの教会、宗派の1つに限られるのではなく、イエスが
小麦と雑草の例え(マタイ13章)で示されたようにキリスト者
と称するすべての人々の間に散在する真のキリスト者たちの集
合体であるととらえています。これはこのサイト初期の「もの
みの塔とイエス.キリストとの比較」などの思想と非常に近い
ものですが、ただ彼らはこのプロテスタント的キリスト教を真
理とし、カトリックやオーソドックス、また他の宗教との信仰
合同は否定します。では編集者さまは現在、ナザレのイエスと
いう歴史上の人物に関する神性と、キリストによる贖罪、そし
てキリストの復活という奇跡についてはどうお考えでしょうか
。

肯定されるなら、その信仰はキリスト者という特定の宗教アイ
デンティティーを生じさせるので、現在の編集者さまの宗教に
対するスタンスと矛盾する気がします。それとも現時点におい
て科学で説明できないことはすべて「形而上の問題」と次元分
けすることで済む問題なのでしょうか。しかしながら神性を備
えたキリストのこの地における存在、またその復活の奇跡は単
なる神話のように形而上の問題や内なる神の投影としてではな
く、実際に生じた歴史的事実として肯定しなければキリスト教
の信仰そのものは成り立たないように思えます(コリント人へ
の第一の手紙 15:12-19)。さらに先日の投書でも書きました
が、ものみの塔の「地上の楽園」教義に対する「苦楽があるの
が人生、人はかく生き、そして死んでゆく」との発言はキリス
トによる贖罪というキリスト教全体の根幹を成す教義をも完全
に否定しているように聞こえます。

この理由で、つまりご自身が現在の宗教論に至る変遷の中でキ
リスト教の根本教義を否定する発言をしながら、「属さない宗
教」はキリスト教(や仏教)の根本教義と必ずしも矛盾するも
のではない、との主張は疑問です。サイト初期においては「組
織宗教に属さない」キリスト教信仰を勧めておられ、その名残
とも言える記事が多数あります。しかし今や編集者さまの提唱
する「属さない宗教」とは、すべての宗教的信条に対する信仰
を事実上否定するものではないのですか。1つの宗教的信条を
真理であると誠実に信じる人にとって、自分や他人が何を信仰
しているかが本質的ではなくなることなどありえるのですか。

私が編集者さまの宗教的アイデンティティーが分からない、と
述べたのは単に何教に属しているかを尋ねるよりも、このサイ
トでは様々な宗教思想や哲学がごちゃまぜになっていて、一貫
した宗教観が提示されていないように感じたためです。「自分
は幾つかの異なる立場で発言している」ではあらゆる思想哲学
の有利な点だけを利用できるので批判する側のスタンスとして
はフェアではないように感じます。少なくとも上記のキリスト
教の根本教義について先に述べた意味において(つまり歴史的
事実として)現在はそれを肯定するのかどうかだけでも明快に
お答えください。

《編集者より》
前回の回答にも書きましたが、今回も依然あなたの背景がわかりません。別にあなたの宗教、あなたのエホバの証人との関係によって差別的扱いをする積りは毛頭ありませんが、あなたが私の「宗教的アイデンティティー」を明白にするように迫りながら、ご自分の「宗教的アイデンティティー」を明白にしない点がよくわかりません。あなたが自分の「宗教的アイデンティティー」をどのように明らかにするかにならって、私も私のアイデンティティーを明らかにしてもいいと思ったからです。

とりあえずは、あなたの質問を熟読してその質問の真意を汲んだ積りで、私の立場を説明してみようと思います。あなたが使うアイデンティティーの意味からすると、私の究極の答えは、「私のアイデンティティーは私だけであり、私の宗教のアイデンティティーは私の宗教である」という、単純であたりまえの答えに行き着きます。つまり私の宗教は私だけにユニークなものであり、他の人の宗教とは同一ではありません。それは私が他の人と同一人物ではなく、私の脳が他人の脳でないことと全く同じです。「ふざけんな、それでは答えになっていない」と怒られるかもしれませんが、これは私の真実で真剣な答えです。

どうして様々な宗教思想や哲学のいい点をごちゃ混ぜにすることが悪いことなのでしょうか?恐らく、あなたへの答えはこの私の逆方向の質問を考えることで、より明確になるでしょう。その答えはあなたの上の質問の中に出ています。つまり「批判する側のスタンスとしてはフェアではない」からです。そう言うあなたの心の裏には何があるでしょう。それは、私のアイデンティティーが○○教、△△哲学ですよ、と言えばあなたは「よし、それではこのように対応してやろう、このように批判攻撃してやろう」と構えることができるが、「私の宗教的アイデンティティーは私の宗教そのものです」では攻撃のしようもないからです。

しかし、そのアイデンティティーこそが、私が「神の神経学」で論じている宗教の仮面なのです。あなたは「あいつはどんな色でどんな形の仮面をかぶっているのか」を知りたくて躍起になっています。仮面は人間が社会行動をする上でどうしても必要なものです。○○教、△△哲学という仮面がわかれば、それと同じ仮面をかぶっている人は必ずいますから、全部を十派一からげにして、賞賛することも、同盟を結ぶことも、逆に差別することも、攻撃することもできます。人間社会に存在する多くの団体はそのようにして形成されるのであり、ものみの塔協会を代表とする宗教団体も、私は同じ仮面をかぶった人々の集まりであると考えています。そして、これも「神の神経学」で論じたことですが、このような仮面をかぶった団体こそが、現代の宗教戦争からカルトの問題までの幅広い宗教問題の根本的な病根であると考えています。

私たち人間は、生まれてから様々な人々が影響しあっている社会の中にもまれて成長し、それが私たち一人一人の脳の発達に反映されています。あなたの脳と私の脳が違うのは、遺伝子の違い、生まれてからの生物学的環境、社会的、精神的環境の違いから来ます。指紋と同じ様に全ての人の脳は違います。その中に形成される宗教もまた、全て違うのは当たり前でしょう。ある人はキリスト教の影響を強く受けて育ったかもしれませんし、別の人はキリスト教など聞いたこともなく、先祖代々の仏教の家に育ったかもしれません。ある人は宗教の研究が好きで、様々な宗教を少しずつ勉強したかもしれません。これも全ての人がそれぞれユニークな体験を持っています。そう言う意味では全ての人があなたの言う「様々な宗教思想や哲学をごちゃ混ぜにしている」のです。これが否定できない実態なのですが、宗教論争の好きな宗教団体の指導者や、宗教戦争をして「異教」を絶滅させたい政治家にとっては、とんでもない考えです。あなたのように、「とにかく仮面をつけてどっかにつけ」、とけしかけます。それに対する私の答えは、「そのように、宗教を仮面によって色づけすることが、人間の脳の自然の働きに逆らった無理を行なうことで、だから宗教問題がなくならないのです」と申し上げるだけです。

最後にイエスキリストの神性、贖罪、復活についてですが、私はイエス・キリストは一世紀当時に現在のイスラエル地方に生存していた実在の人物であると理解しています。私はその教えを素晴らしい教えとして、信じて従いたいと思っています。私はまたイエス・キリストの教えと行動を記録した聖書の記述を素晴らしい神話として信じています。しかし念のために申し上げますが、私が聖書を信じることが、仏教の神話の素晴らしさを否定するものではないことも確かなことです。