ものみの塔の引用文について−ラハムより

(8-18-04)

8-6-04の投書で次のようなものがありました。

≪エホバの証人の教義の第二部のところで、忠実で思慮深い
奴隷についての3節目に「1967年10月1日号のものみの塔に聖書は
ものみの塔に属する本であり、個人がどんなに真剣に研究しても
組織の助けがなければ正しい解釈ができない、と言い放っている」
とありましたが、私はその号の製本されたものを持っていますが、
どこを見てもそのように書いてある箇所を見つけることはできませんでした。
何ページの何節にそのようなことが書かれているのでしょうか?≫

わたしもこれを読んで気になりましたので、押入れのダンボールから
1967年と1968年の製本を取り出して、引用文を探してみました。

わたしが探してみた限りでは、以下に引用する、
日本語版ものみの塔1968年1月15日号43ページ9節だと思います。

≪それで聖書は組織の本であり、個人にではなく、一組織としての
クリスチャン会衆に属するものです。個人的に聖書を解釈できると、
たとえ、誠実に信ずる人がいても、その事実は変わりません。
ゆえにエホバの見える組織を度外視して聖書を正しく理解することはできないのです≫

この一文は「エホバの組織とともに自由を見出す」という研究記事の
「聖書は組織の本」という復見出しの中にありました。

同時出版になり、ずいぶんたちますので、明確に書くことはできませんが、
わたしの記憶している範囲では、ものみの塔という雑誌が、英語と日本語で
同時出版になったのが1985年ごろだったと思います。

このころ同時出版になるので、組織が重要だと考える研究記事を
1984年後半発行の日本語の雑誌に掲載するために質問がない復記事が
削って印刷され、日曜日の正規のものみの塔研究の集会ではなく、
通常夜におこなわれる書籍研究で扱われたと思います。
このときは余分の記事を掲載するためにページ数は増やしませんでした。

それでこのころの日本語版では、英文と同じ記事を探しても、
みつけられないものがあると思います。

わたしがバプテスマを受けた30年近く前、CD-ROMはおろか、日本語版の
索引もありませんでしたので、英語版の索引を使いました。
戦後の日本でものみの塔が出版されたのは1950年か1951年だと聞いています。
このころは表題に「ワッチタワー」と印刷されており、32ページではなく、
20ページの省略されたものでした。わたしは一冊1958年のものを持っていますし、
再発行された1960年の製本はありますが、この年まで一冊20ページです。
ですから英文と同じ記事を探し出すのは難しいでしょう。

記事を見つけるのが難しいもうひとつの理由は、英文と日本語の発行日がだいたい、
三ヵ月以上ずれていることもあります。あるいは掲載されていない場合もあります。
それでわたしは、1967年の10月号から1ページずつめくってそれらしい記事を
注意深く読んで探してみたのです。

さて、編集者が述べておられるように、この記事では直接的に
聖書がものみの塔に属する本であるとは述べていませんが、
エホバの証人たちが組織という言葉を使うとき、
あるいはものみの塔が出版物の中で組織という言葉を使うときは
ものみの塔協会かエホバの証人の統治体以外のなにものをも意味していませんので、
そのような解説は妥当で適切だと思います。

エホバの証人は自分たちの組織が聖書にかなっていると信じていますが、
新世界訳聖書そのものでさえ、直接的にエホバ神が組織を持っているとは
述べていません。出エジプト記に合成語として組織という言葉を
用いているだけで、聖書のあちこちの記述から、神が組織的であるという
概念を組み立てているのだと思います。

わたしとしては、聖書全体から神が物事を秩序正しくおこなわれることを
読み取ることができますので、組織を持っているという主張もできると
考えるのですが、一方で直接聖書には何もないのであるから、
そのような主張はできないと考えることもできると思うのです。

結局人間というものの多くは自分の信じたいことを信じる傾向があり、
そのような主張の根拠に聖書を使っているのでしょう。

わたしは、神が組織を持っているとか、聖書が組織的な本であるとか
いうことよりも、エホバの証人が自分たちの聖書解釈によって
人間本来の感情を押し殺して心の感覚を麻痺させていることのほうが
恐ろしいと思うのです。このようにして精神病気質の人を増やして、
人間の尊厳を卑しめ、人としての成長を阻害していると考えています。

また、この組織は巧みな方法でエホバ神を組織とすり替え、
組織を崇拝し従っていることを、信者に気が付かれないようにしているのです。
その証拠に、信者である人たちは神を崇拝し、恐れていると言葉では主張しますが、
実際恐れているのは周りの仲間から、どのように見られているかであり、
自分に対する評価に気を使っているのです。
最終的には上層部、地元の会衆であれば長老たちや古参の姉妹たちに
どう見られ評価されるかということなのです。

そのような方法で、自分で自分のことを判断してひとりの人間として
人生を切り開いて生きていくことが非常に重要であるのに、組織の拡大のみに
人生をささげさせて、盲目的に従う、ロボットのようにしています。

もし、エホバとキリストが将来ほんとうに現れて、それまでにものみの塔が
正しいと主張してきた聖書解釈について、わたしはそのようなことを
聖書には一言も述べなかったし、考えもしなかったと言われたなら、
エホバの証人だと主張する人々はどのように返事をするのだろうかと
考え込んでしまうこのごろなのです。

《編集者より》
日本語版と英語版のものみの塔の出版物の関係について詳しい解説をいただきありがとうございます。忠実で思慮深い奴隷の記事の引用については、他にも日本語版の出典を教えていただくメールを頂きましたので、それを書き加えておきました。このサイトの多くの記事は、日本語のものみの塔誌が簡単に見られない状況で書かれましたので、多くの引用が英語版に基づいています。現在では読者の方々のご援助により日本語版が見られるようになりましたので、日本語版の引用に書き換えるべきなのですが、時間の関係でそれができていません。

なお、あなたの書かれた「結局人間というものの多くは自分の信じたいことを信じる」という見方は、考えてみればごく当たり前なことなのですが、その当たり前のことを多くの人が認められない所に多くの「信仰」の問題があります。実際に脳のレベルで見れば同じものを信じているのに、ある人は「私の心の中で私に心の安らぎと支えを与えるものを信じている」と言えば、「何だ、あれはただの自己満足だよ」と馬鹿にされるのに対し、「万物を創造した全知全能の神を信じている」と言えば、「立派な信仰」として「宗教」として社会的にも敬意をもって見られます。これは私の著書に詳しく論じてありますが、本来の原型が「自分の信仰」であるのに、それが社会化すると社会価値としての「宗教」のレッテルが貼られ、それが一人歩きしてその「異端」となる「自分の信仰」を押し潰すことになるからだと私は思っています。そしてその見事な例がものみの塔宗教に見られるのです。