「編集者さまへの質問」

(8-5-04)

このサイトを概観させていただいた感想ですが、2,3年前まで
のコメントでは、non-denominational (無宗派)のキリスト者
に近い信仰をお持ちであるとの印象を受けますし、キリスト教
信仰の観点や聖書そのものから論じられたり、聖書の神を信仰
しつづけたいと願う方たちには教会を訪ねることも勧められて
いたと思います。しかしここ最近の投書はキリスト教の本質を
議論するよりもスキャンダル的な内容がかなりを占めているせ
いもあるかと思いますが、管理人さまのコメントの中でも一般
的なキリスト教信仰について語られることがほとんどなくなっ
たように感じます。さらに管理人さまが最近出版された「神の
神経学」は、本そのものは読ませていただいておりませんが、
本の紹介文と目次を見るだけでも宗教を論じるものとしてはか
なり前衛的なもので、ものみの塔に限らずほとんどのキリスト
教会にも受け入れられない内容との印象を受けます。これは管
理人さまのキリスト教そのものに対する考えが変化したことを
意味するのでしょうか。

例えばこのサイトはものみの塔を「地上の楽園」という絵に描
いた餅で信者を惑わしていると非難していますが、キリスト教
も「天国への救い、それ以外は地獄での永遠の劫火による処罰
」という少なくとも言っていることそのものはより酷いことで
、さんざん人々を苦しめてきたことになりませんか。それでも
のみの塔の「地上の楽園」教義を否定するときは、「苦楽があ
るのが人生、人はかく生きそして死んでゆく、それで十分」な
どのキリストの贖罪というキリスト教全体の根幹を否定するか
のような東洋的思想を持ち出されています。サイト初期の「も
のみの塔とイエス.キリストの比較」ではものみの塔の「唯一
の組織」教義を否定するために non-denominational のプロテ
スタント教義を持ち出されるなど、過去においてはキリスト教
的観点から反論されることが多かったようですが、伝統的キリ
スト教の方が分が悪い問題ではご自身の理論や哲学を主張され
るなど、さまざまな宗教的思想や哲学がごちゃまぜになってい
て管理人さまの宗教的アイデンティティーがよく分からないの
です。

こうお尋ねするのは、管理人さまがこの宗教を研究される過程
で伝統的キリスト教にも限界をお感じになってきたのではない
かという印象を受けたからです。そうすると今度は、このサイ
トでキリスト者の文献が引用されているのが何故なのか疑問に
なります。例えば「ものみの塔を出てどこへ行けばいいのです
か?」は、最終的には non-denominational のプロテスタント
的信仰を読者に勧めるものです。管理人さまがプロテスタント
的信仰をお持ちで、キリストによる福音と救いを広めるべく活
動なさっていて、その過程でこの宗教を批判されるならよく分
かるのですがそうでもないようです。このサイトと提携してい
るキリスト教会の意図もよく分かりません。ものみの塔を攻撃
してさえいれば何でもいいのでしょうか。キリスト教会の門を
叩くようにというかつての勧めは今でも有効でしょうか。もの
みの塔をやめさえすればあとは個人の自由で、それも「ましな
」選択肢という程度の意味なのでしょうか。

《編集者より》
この質問をされている方ご自身の立場が明らかにされていませんので、とりあえずエホバの証人関係の方と考えてお答えいたします。私自身の宗教観については、「よくある質問」に基本的な事は書いてありますのでお読みください。私の宗教観は、時間と共に変化してきましたし、これは私が物心ついたころから始まった歴史であり、今後も変わっていくと思います。ほとんどの人がそうであるように、宗教は限りない探求の過程であり、これからもそれは続くと思います。あなたも指摘されたように、私は幾つかの異なった立場をとってきました。一つは正統的キリスト教に対峙する「異端」としてのエホバの証人、という立場で、これはエホバの証人批判の伝統的な大きな流れとなっています。このサイトの記事でもこの観点から書かれたものも多くありますし、多くの出版物やウェブサイトはエホバの証人を正統的キリスト教に導こうという意図で書かれています。しかし、その一方ではカルトや組織宗教の問題の一端として、エホバの証人問題を取り上げるという立場もあります。あなたが見通しているように、私は最近では、後者の立場からの発言が増えています。それはエホバの証人を研究する過程で、これはエホバの証人だけの問題ではない、特に世界に蔓延する宗教問題を見渡せば、同じ問題は他にも多くの宗教で見られることがますます明らかになったことによります。世界的に宗教問題が泥沼化する中で、この問題のより根本的に考察して研究したいという私自身の観点の変化があります。言い換えれば、最近の私の見方は、エホバの証人の問題を研究して考察する中で、世界に蔓延する宗教問題への答えが見出せるというものです。つまり、エホバの証人を世界の宗教問題の「小さな雛型」として研究しているとも言えるでしょう。そういう観点からすると、教義に対する教義の対決(つまり聖書の解釈論)という議論も結構ですが、宗教問題の告発という立場がより強くなってきたことは否定できないと思います。

幾つかの個別のご質問にお答えします。私の著書、「神の神経学」がキリスト教徒や他の宗教者に受け入れられない前衛的なものかどうか、は読者のご判断におまかせします。あなたは実際には読んでいないので、あくまで推測でものを言っていると思います。私は、「神の神経学」はキリスト教や宗教一般を否定するのではなく、泥沼化する(エホバの証人問題を初めとする)世界の宗教問題に対して、一つの建設的な提言をしていると考えています。実際に読んだ上でご批判下さい。

宗教のアイデンティティーが分からないというご批判ですが、私が問題にしていることがそのようなアイデンティティーの問題である以上、それは当然のことだと思います。「属する」(アイデンティティー)宗教こそが、私は宗教問題の根源であると考えていることは、「神の神経学」を読んでいただければ理解できると思います。「属さない宗教」、それは何もキリスト教や仏教の根本教義と必ずしも矛盾するものではありませんが、それを現代の世の中でどのように実践するか、これが私の考えなければならない大きな課題です。私はそれを模索していますが、この読者の広場の投書の中でも時々学ぶことが多くあります。この読者の中にもしかしたら、これを実践している人がすでにいるのではないか、と時々感じます。

伝統的なキリスト教の門を叩くかどうかについては、私は以前からそれは全く個人の自由な選択であり、私はそれは個人個人の事情で全て異なると思っておりますし、この立場は「よくある質問」のページに書いた通りです。また、ものみの塔をやめさせることが目的ではないことも何度も書いている通りです。組織にとどまるか組織を出るかは本質的なことではなく、これも個人個人の置かれた状況によって個人が全く自由に決定すればいいことであると思っています。「属さない宗教」(あなたの言葉を借りればアイデンティティーのない宗教、「神の神経学」の言葉を使えば「神経学的神論」に基づく宗教)それは宗教の属性を超越しているが故に、もはや「何教に属しているの」という議論は本質的ではなくなるのだと思います。これは世界人類が国境や人種や宗教を超えて愛し合えるようになった時、「あなたは何処の国の人」という議論の意味がなくなるのと同じ事でしょう。