「血に関する私の見解」−ピーターより

(7-20-04)

はじめてメールいたします。(ペンネームは”ピーター”でお願いします)
最近このサイトを知りたびたび見させていただいています。 私は現役2世です。
 
”エホバの証人と血の教え”読ませていただきました。使徒15章の背景をレビ記17章
から考察している部分に深く考えさせられました。とても納得させられるものでした。
 
しかし、私なりにもう少し考えたことがありますのでそのことを書かせていただきたいと
思います。
それはレビ17章の前半部分の解釈ですが、
私は、使徒15章で”偶像に犠牲として捧げられたもの”が禁じられた理由を、レビ17
章からこのように考えることができるのではないかと思います。
 
鍵はレビ17:3-9の記述です。ここで外人居留者は何を禁じられたのでしょうか?それは
恐らく偶像礼拝です(7節)。
この部分は少し解りにくいのですが、”焼燔の捧げ物や犠牲はエホバに捧げなければなら
ない、悪霊たちに捧げることのないように”ということでしょう。
4節に「血を流した」とあり、そのことが罪のように感じますが要点はそこではないと思
います。
なぜなら血に関する規定はその後で(10節〜)書かれているからです。
ここでポイントになってくるのは”焼燔の捧げ物や犠牲”という部分です。
この解釈が恐らく正しいと思うのは、申命記12章の記述です。
その1-14節では、カナンの地の偽りの崇拝を一掃しなければならないこと、そしてエホ
バがご自分の名を置くところに”焼燔の捧げ物や犠牲”を携えて来なければならないこと
(5,6節)が書かれています。
8節の解釈がわかりづらいところですが、文脈を考えれば”各自が自分の目に正しいと思
うところで犠牲を捧げているが”ということでしょう。
そして13節で再び焼燔の捧げ物や犠牲を捧げる場所に関する規定を述べています。
そして15節からは”肉をほふって食べること”に関する指示がだされています。
つまり、”焼燔の捧げ物や犠牲”を捧げることと、”肉に関する規定(血を含む)”は別
けて考えられています。
そう考えて申命記12章を1節から読んでいくと、ここでエホバは、”焼燔の捧げ物や犠
牲”を高い山や丘の上で捧げ(2節)諸国民の偶像礼拝にそれていくことがないように、
もしくは偶像に”焼燔の捧げ物や犠牲”を捧げることがないように、ということを意図し
た指示であることがわかります。
1世紀の統治体はそのような意図をここから読み取り”偶像に犠牲として捧げられた物”
を禁じたのではないでしょうか?
ではなぜここで”偶像礼拝”ではなく”偶像に犠牲として捧げられた物”が禁じられたの
でしょうか?
それは、パウロが後ほどコリント第一10章18節〜で明らかにしています。  それは
肉的な視点のゆえでした。
”偶像礼拝”がふさわしくないことはユダヤ人にも諸国民からの改宗者にも”当然”だっ
たことでしょう。
”では偶像に捧げられたものは?”という疑問が当時あったのかもしれません。そしてそ
れはふさわしくないと判断されました。
その理由は、恐らく”肉的な面での”ユダヤ人に配慮してということでした。
ユダヤ人は祭壇で犠牲として捧げられたものを食べることにより、エホバに感謝を示して
いる(エホバを崇拝している)という感覚を持ったことでしょう(レビ22:29,30) そ
のような人たちの目から見れば”偶像に犠牲として捧げられた物”を食べることは”偶像
礼拝”に等しかったことでしょう。それでそのような感じ方に配慮が払われたということ
ではないでしょうか?使徒15章の背景を考えればこういう結論に至ったのは当然と考え
られます。しかし、この結論はのちに論議を呼ぶことになったのでしょう。それでパウロ
はコリント第一8章、および10章でその経緯を説明したのだと思います。
 
さらに、創世記9章4節の解釈ですが、このように考えるのはどうでしょうか?
 
”エホバの証人と血の教え”でも考察されていましたが、エホバはここで厳密に言えば‘
血を避けていなさい’とノアに指示されたわけではないことでしょう。
そして、その根拠をやはり申命記12章から考えてみます。
15節からは肉を食べてもよいこと、しかし血を食べてはならない(16節)と言われて
います。そして22、23節とその指示が繰り返されています。
そして23節ではその理由として、「魂を肉と共に食べてはならないからである」と述べ
ています。(ここを”血を肉と共に食べてはならない”と読むのは明らかに不自然です)
そして、この視点は当時の人がみなもっていた一般的な視点だったのでしよう。この視点
をみなが持っているという前提での論議の進め方をしているからです。
では当時の人は、どこからこの共通の視点を学んだのでしょうか?
それは、創世紀9章4節でしょう。
申命記のこの言い回しは明らかに創世紀のそれに類似しています。
「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」創世記9:4
「魂を肉と共に食べてはならないからである」申命記12:23
そして”血を食べてはならない”というのはそれを基にした三段論法としてここで(申命
記で)提出されています。
1、魂を肉と共に食べてはならない。
2、血は魂である。
3、ゆえに(肉を食べてもよいが)血を食べてはならない。
というものです。
この論議では1が基盤になっています。
1については皆さん知っておられますよね?という論議の基盤の作り方です。
つまり、当時の人たちは創世記9:4を”生きている動物を食べてはならない”という指示
として受け取っていたということです。
それで、それを基盤に申命記12:23で論議が展開されたのではないでしょうか?

と考えたのですがいかがでしょうか?
 
”エホバの証人と血の教え”を管理しておられる方、もしよろしければご意見をお聞かせ
ください。

《編集者より》
私はあなたの解釈は妥当なものだと思いますが、他の血に関する聖書解釈に詳しいエホバの証人に聞いてみます。