(7-19-04)
-究極の言い逃れ- わたしにとってわからなかったことの一つに、エホバの証人が頻繁に使う、 「人間は不完全だから間違いを犯すのは仕方がない」ということばがあるが、 これがどこから来て、なぜ平然と使われているのか、というのがあった。 これはエホバの証人特有の言い訳に使う決め言葉であり、せりふだろう。 というのは、世の中の人は誰もこのようなことを言わないからである。 それは当然のことで、人間が過ちや失敗を犯すことが生活していくうえで 大前提になっており、わかりきったことだからである。 何らかの方法で過ちや失敗を完全に避けることができるのであれば、 現在の世の中で存在している、過ちや失敗を避けるための研究や 保険制度などは必要ないと思われるからだ。 それにしてもこの決めぜりふがエホバの証人の社会で頻繁に用いられるように なったのはどうしてだろうか? わたしは以下のように考えた。 わたしたちが伝道者と接して家庭聖書研究を始め、最初のころ学ぶことは アダムが罪を犯してその影響が現在までずっと続いており、 それゆえに人間は不完全で罪を犯すことは避けられないということだ。 ものみの塔出版物では、罪ということは完全さの的をはずす、 つまり、神の基準に達しない不完全だということになっている。 これは申命記32:4、5の聖句とも調和しているように思われる。 しかしわたしは考えた。どうもおかしい! 福音書の記録を読んでいると、あるいは使徒たちの記録を読んでいると、 イエスの直属の弟子たちが多くの失敗や過ちを犯していることが 理解できるのだが、彼らは自分たちのおこないに関する言い訳として 現在のエホバの証人がするように「不完全だから仕方がない」という せりふは言ったことはないし、イエスが弟子たちに対して 「あなたがたは不完全だから仕方がないので許してあげましょう」 などと述べたことはないだろう。イエスから叱責されていることもある。 また、パウロの書簡を読んでいると、罪の影響はたくさん述べているが、 上記のようなせりふはやはり出てこない。 だから、現在のエホバの証人がこれを用いるのは、聖書に基づいて 組織上の策略として考案した究極の言い訳だろうと思った。 また、わたしがエホバの証人として生活していて妙に感じたことは 物事をしくじったときや約束ごとを守れなかったときに、 申し訳ないのひとことを言わず、先に言い訳をはじめてしまうことだった。 わたしも人間だから、真っ先に自分の事情を説明したい気持ちはわかる。 この傾向は特に二世の人たちに多く現れていると思うが、 一世でもこの傾向の強い人がいるのは言うまでもない。 そこでわたしは現役時代に二世である子供たちにこの傾向が強いのは どうしてだろうかということを、その母親と話し合ったことがある。 そのときの話し合いでは、彼らは子供のうちから 「愛によって許しなさい」とか「愛によって覆いなさい」 というような言葉を聞かされているので、そうなってしまうのではないだろうか? あるいは、そうした許すという行為がまわりの信者から自発的に なされていて、自分の失敗や過ちを指摘されないためだろう、 ということになった。これらは一理ある考えだ。 しかし、わたしはウェブで公表されているものみの塔の 過去の失敗の記録に現れている言い逃れのすべを知ってそのような言い訳を おこなうことがもっと根深い組織上の体質だと考えるようになった。 いちばんわかりやすいのは預言が当たらなくての失敗であろう。 ものみの塔はその歴史上いくどもハルマゲドンの期日を設定しては そのたびにはずれている。 「良心の危機」で、レイモンド・フランズ兄弟が述べているように、 ハルマゲドンが生じる期日をにおわせる話は信者側が 言い出したことではなく、ものみの塔などで組織側が公表したものを 聞いたり読んだりした信者の言動によって広められたことである。 もし信者側が言い出したことであれば、組織に先走った者とか 背教などと扱われて排斥処置の対象になってしまう。 だから、信者側からできるはずがない。 そうであるのに、いつの間にか信者が勝手に信じたとか、行き過ぎた などということにされてしまう。 聖書をよく読んで比較検討してみれば理解できるのであるが、 聖書時代の預言者たちが、エホバから預けられた預言のことばを 語ってその成就がはずれた、解釈を間違えたなどという記録はない。 ひとつとして存在していないのである。 しかし、ものみの塔がそのような事実を外部や一部の信者から指摘されると、 自分たちは預言者たちのようにエホバの名前によって語っていないとか、 霊感を受けておらず、霊によって導かれているだけなのです、 などという言い逃れとしか思えないような言葉が出てくるのである。 どのような方策を用いても絶対に過ちや失敗を認めないというのが この組織に染み付いた、あるいは自ら築き上げた体質であろうとわたしは思う。 この傾向はわたしが所属していた末端の会衆の長老にもあった。 すべての長老たちがそうでないことも事実である。 しかしながら、彼は自分の過ちを認めないし、それを指摘されると 不完全だから仕方がないということを繰り返した。 彼についてわたしだけがそう考えていると思っていたのだが、 あるとき別の長老にそのことを打ち明けたら、そのことを認めていた。 エホバの証人は「霊的な進歩」ということが大好きである。 開拓者になったり、長老になったり、あるいは集会や奉仕に熱心だったりすると 周囲から霊的に進歩したと認められ、ほめられることが多い。 わたしはこのいわゆる「霊的な進歩」には人間としての精神傾向の成長や 人としての人格面での向上というものが含まれていると考えていたし、 聖書にもパウロが随所でそうしたことに触れていることを読むことができる。 それだから、人間は不完全だから仕方がない、ということを 最初に持ち出すようではまったく話にならないと思ったのである。 過ちに対する改善の余地が全然ないからである。そのかけらもない。 このようなことで、霊的な進歩とはお笑いぐさである。 もしかするとエホバの証人の言う霊的な進歩とは、この言い逃れを 巧妙に使えるようになることが含まれているのかもしれない。 この事実を最初に持ち出すということは、トランプゲームでいつも ジョーカーだけを持ち出して絶対に負けないようにすることに似ている。 いつも、刀という刃物を振り回して誰も近ずけないようにしているようだ。 要するに失敗したときの究極の切り札であり、 万人が認めるほぼ絶対的と言えることだからである。 しかしながら、社会で生活していればこの言い訳の通らないことが 多いことに気がつかざるを得ないであろう。 交通事故を起こした場合、医療ミス、職場での過ち、どのような場合でも、 謝罪と弁済が要求され、それ相応の責任を負わねばならない。 これらが必要とされるとき、人間は不完全だから仕方がないんです、などと 言おうものなら、それこそ「おまえばかじゃないか、そんなことが通ると 思っているのか」と言い返されるのがせいぜいだろう。 実際これを未信者の職場で言い訳にした二世の話を聞いている。 人間として生活している限り過ちを犯し、それに伴う責任と 自分自らおこなったことの結果に正面から立ち向かって 問題の解決の仕方を学び続けねばならないであろうと思う。 そうすることによって人は精神的にも成長して大人になっていくのであろう。 わたしたちが子供だったときにも、また現在、子供の言い訳を聞いていると なにかを壊してしまったとき「こわれちゃった」という言葉が聞かれ、 いかにも、それそのものが自然に壊れたのか、誰か自分以外のものが 壊したかのような言い方をする場合がある。 この言い方は、しかられることを何とか、回避しようとするすべなのである。 また、大の大人であってもこれに類似する言い方をする場合が 少なからずあるのではなかろうか? 組織が、個々のエホバの証人が、預言であれ他の何であれ、過ちを犯したとき、 そのことに真剣に注意を払い、正面から取り組んで、誠実な態度で問題解決に 立ち向かっていかず、人間のおろかさや不完全さのせいにし続けるのであれば、 上記に述べた子供の言い訳となんら違いはないと思う。 端的に言うのであれば、自分たちの失敗や至らなさを間接的には 神のせいにして責任を転嫁していることになるだろう。 そうであれば、組織全体としておこなっている事柄が、世界のベストセラーと 銘打たれている聖書に基づいた言葉の子供のお遊びであり、 聖書ごっこ、キリスト教ごっこということになってしまうと思う。 この言い逃れを用いることによって、統治体が誤りや失敗を犯したとき、 権威や威厳を保つことができるだろうと思う。また、つごうよく聖書には 人間が罪を負っていることが記されているので、信じ込んでしまった 信者には言い逃れが通じる素地ができあがっていることになる。 そして、信者をマインドコントロールして、組織の拡大に貢献させたい側の 統治体などの支配階級にはつごうよく、信者を精神的な意味で 大人に成長させずに、子供の状態に保っておく役割があるのかもしれない。 この言い逃れを組織全体にいきわたらせた目的はわたしの憶測であるが、 わたしとしては現役時代から、これらの言葉を頻繁に用いることに 納得していなかったし、嫌いだったので、自分のためにも 他の人のための弁護にも用いた記憶はない。 ただ、あえて言うのであれば、自分が自分を弁護するためではなく、 他の人が自分に使ってくれるとありがたい言葉であろう。 マインドコントロールから目が覚めたので、はっきりこう書いてはいるが、 わたし自身について言うのであれば、自分自身の選択によって 精神的な成長を鈍らせる組織に身を30年近くおいたのであるから、 いっさいの言い逃れをせずに自らの責任を負っていこうと思う。
《編集者より》
あなたも書かれているように、人間の不完全さを究極の言い訳とする心理の基盤には、アダムの原罪の思想があると思います。何か悪いことが起こると、それはエホバのせいには出来ないし、自分で責任を負うだけの心構えも勇気もない、一番簡単な逃げ道は全てをアダムの責任にすることで、心の平安を得ようとしているのです。これは他の宗教にもある、悪魔信仰、サタン信仰と同じ起源であると思います。善の源である神を信じることは基本ですが、残念ながらある人々はそれだけでは宗教の一番大事な不安解消を得ることは出来ません。いくら神仏を信じても、世の中に悪事は横行しますし、自分が信頼していた他の信者も「不完全」さから「間違い」や「悪」を行なってしまいます。そこに、善悪二極的な宗教がどうしても出来る必要があったのだと思います。現代の多くのキリスト教では、「罪」はあくまで神と自分との個人関係の中で論じられるだけですが、ものみの塔宗教では、伝統的な原始宗教を引き継いで、罪や悪を外に投影し、その存在を信じてそれに罪や悪事を帰することによって、心の平安を達成しようとしているのだと思います。私は、ものみの塔宗教はやはり宗教の進化の過程の中で、いつまでも原始宗教の未熟な部分を受け継いで進化できないがために、現代社会にどうしても適応できないが、その反面、現代社会の中でも同じ様な未熟な精神構造を持った階層に大きな魅力がある宗教なのではないか、と最近思うようになりました。