「統治体の思考回路について思うこと」

(7-19-04)

2004年6月1号の第2研究記事も非常に変だった。いつもそうだが、正し

い部分と変な部分が混ざっているので、信者は混ぜ物を識別しなくてはいけ

ない。

8節では、“あるエホバの証人は、自分の会衆の集会出席率が低い理由につい

て、「兄弟たちはとにかく疲れています。皆、大変なストレスを感じているの

です」といいました。確かに今日の人々には疲労の原因となるものが数多くあ

ります。そのため、神への崇拝についても何かの重圧、重苦しい義務であるか

のように考えてしまいがちです。しかし、それは健全な、あるいは正しい見方

でしょうか。” とあって、次の9節からイエスのもとへ来て、イエスの首木を

負うようにという聖句へつなげている。

この思考回路は全く非聖書的な回路だ。集会の取り決めが、イエスの時代のよ

うに「週ごと」、つまり週に1回なら、イエスのおっしゃった首木の聖句を適

用にするのは正しいが、週3回も勝手に取り決めて、それをイエスの首木と言

い放つ思考回路は全く理解できない。イエスがこの聖句をおっしゃったとき、

念頭においていらしたのは「週ごとの集まり」であって、「週3回の集まり」

ではない。

どうしてこんなことがわからないのか、統治体の思考回路は理解できない。

聖書と調和しない取り決めをつくっておいて、守ることに関しては聖句を使

って正当化するのは、思考のどこかに「人間的支配(統治)の焼き印」が押され

ているとしか思えない。世でさえ通用しない思考パターンだ。

しかも、「忠実」に従って体を壊したり、うつ病になった場合、彼らは全く責

任をとらない。 あくまでも本人の責任であり、親の責任として片づける。そ

うやって裁判にも勝つ。「重荷を負わせるだけで、指1本たりとも動かそうと

はしない」とイエスの非難された宗教指導者と同じ姿勢であることを識別し、

信者は、あくまでも自分の体と自分の生活基盤を自分で守ろう。

週ごとの集まりと、週ごとの伝道……、かりに全信者が週1回の伝道しかしな

くなったとしても、エホバは「数」によらず、霊によって世界中に福音を広げ、

ご意志をなし遂げることがおできになる。

もちろん怠けるのは論外としての話だ。

しかし、今の取り決めのもとでは、疲れたら休めばいい。休むしかない。1世

紀と違い、今は奇跡はないのだから、伝道して疲労が回復するなんてオカルト

の世界に近い話だ。また、1世紀は伝道して話を聞いてもらえた。スカルの井

戸のイエスもそうだ。今の伝道活動に当てはめるのは無理がある。



さらに言えば、統治体や支部に長く滞っている兄弟たちに、彼らの苦境がわか

るはずはない。机上の空論。宙に浮いてる。自分たちは「無給のボランティア」

であると何気なく強調していたが、無給ではない。お金を全然持っていないわ

けではないし、空から降ってくるわけでない。また、食住、医療、散髪等々に

関する無料のサービスを供「給」されている。世の無給のボランティアは、本

当に無給であり、仕事をして生活しているが、その「無給のボランティア」と

いう言葉を自分たちに平気で当てはめる思考回路は、統治体の兄弟たちが、世

離れしすぎて無知であるか、あるいは厚顔な神経の持ち主だということを暴露

してしまっている。



こういう思考回路と指導方法は、エホバの不興こそ買え、祝福されるとは思え

ない。結果は必ず明らかになる。自分たちの義をやめて、聖書に戻る謙遜さと

良心を示さないと、いずれ自分で自分の首を絞める結果になる。

《編集者より》
「無給のボランティア」を強調する大きな理由は、税金と労使関係に関する様々な法律制度の問題があります。どこの国でも無給のボランティアである限り、現物支給される無料サービスには税金はかかりませんし、雇用に必要な様々な保険や福祉(健康保険、障害保険、労災保険、生命保険等々)に関する出費もなくなります。ものみの塔が誇る高い「生産性」の裏には、労働者を全て「無給ボランティア」の範疇に入れることによる莫大な経済効果がかかっているのです。