ベテル制度の問題、悔い改めについて−「真実を求め続けたいエホバの証人」

(7-10-04)

先月、久しぶりに投稿させていただきました。

以前とはパソコンの機種が変わったり、ソフトも違っているせいか何なのか、文面の
構成がメチャクチャで読みにくく、すみませんでした。メカに弱い世代ですし、メー
ル
を読むとき、字が細かいので行を斜めに読んでしまうことが多いため、少しでもそう
ならないように行かえや段落がえをひんぱんにし過ぎて、原稿自体がおかしかった
のかもしれません。きょうは改善を試みましたが、直っていなかったらごめんなさ
い。
また、パソコンを複数で使用しているので、原稿を保存せず、打ったらすぐ送信して
しまうことも、投稿内容が読みにくかったり、わかりにくかったりする原因になると
思
います。あらかじめお詫びしておきます。


この前、ベテルの支部委員の兄弟が、講演の中で、「地位や立場は失うことがあるか
もしれません。しかし、心は残ります云々」と言っていました。長い講演のほんの一
部分なので、記憶しておられない方たちも多いかもしれませんが、とても印象に残り
ました。もともと失う立場など持っていない信者にとっては、「今さら何」「当たり
前」ともとれる言葉ですが(当たり前すぎて忘れてしまった人も多いかもしれません
ね)、組織のいう特権的立場を得ている人たちからすれば、意味ある発言だったこと
でしょう。ベテル家族で強調されているのかもしれません。なぜなら、今は、この事
物の体制が滅びるのが先か、この組織の体制が崩れるのが先か(滅びるとまではいい
ませんが)という、緊迫的状況になっているからです。

世が長続きすれば、信者という「水」の減少は避けられません。少子高齢化も影響し
て確実に減少は加速していき、組織は年々縮小していくことを余儀なくされます。日
本で今話題になっている年金制度と同様、次世代が高齢者や特権階級を支え切れない
状態になっていくため、支部のリストラが年々進み、下の方から切られていくことに
なるでしょう。支部委員たちに関しては、自然死亡者が出ても欠員補充しない形で
徐々にリストラすると予想されます。会社組織も同じで、重役クラスは通称「仲良し
クラブ」と言われるように、個人的には仲が悪くても、相互の利得のために呉越同舟
を決め込むのが普通です。エホバの証人の組織でも、リストラに際して、まず手本を
示してやめていく支部委員がいるとは考えられません。重要な役割を担っていると主
張するかもしれませんが、60歳以上は体質の古さで組織をダメにする老害もあるこ
とは、世の組織を見れば一目瞭然です。信者の多くに精神的虐待をし、病人をふやし
てしまうという大間違いをした世代ではなく、そういう意味では無罪の若手を起用し
た方が、エホバの目に許しを得られると思います。また、変化の大きいこの時代の時
宜にかなっていると思います。

でも、中高齢者を世に放り出せと言っているのではありません。中高齢になった忠実
な正規開拓者たちと同様、地元の会衆に受け入れてもらい、必要なら世話を受ければ
いいのです。仲間の愛を信じていれば何も不安に思うことはありません。それとも、
本当は仲間の愛を信じていないのでしょうか。人には勧めるけれども、自分たちはで
きないのでしょうか。支部に死ぬまでしがみついている程度の信仰なのでしょうか。

「愛は信じる」とあるように、私たちを信じる心を持っておられ、失うことがないな
ら、皆、喜んでお世話をさせていただくことでしょう。そして、パウロに対して弟子
が心からの涙を流したように、私たちも心からの涙を流すことができるでしょう。

正直言って、一世紀の忠実な弟子たちの姿と今支部にいる兄弟たちの姿はどうしても
重なりません。むしろイエス・キリストが終わらせたユダヤ教の神殿制度の方と重な
ります。ベテル制度の頭にイエス・キリストがおられると考えるのは、その生き方に
おいて全くチグハグであり、無理の多いものです。肥大化し階級化したベテル制度を
崩して原点に戻すことがエホバのご意志であり、それを悟るように摂理を働かせてお
られるように感じます。

要点のわからない話になってきました。初めはもっとビシッとした内容にしたいと
思ったのですが、年々頭がすぐ分散状態になってきます。支部委員の兄弟の話から
「徒然なるままに」書かせていただいたと思ってください。

分散ついでに最後に付け加えますと、最近号にマナセの悔い改めについて触れられて
いました。あの許しについては、息子が世の友に話したら、「ふざけんじゃあねえ」と言わ
れたそうです。いわば悪の限りを尽くして人を苦しめておいて、自分が殺されそうになった
ら許しを請うのは、世では通用しない話で、それを許す神は人間以上に信用できないと
のことでした。それが常識的反応かもしれませんけれども、あの許しを考えると、エホバ
の証人が犯してしまった数々の間違いも許されるかもしれませんが、同様に、キリスト教
世界の数々の間違いも許されることを意味していると思えます。先日、イラクの戦争について
法王が老体を押して戦争は絶対にしてはいけないと呼びかけていました。カトリックも悔い
改めているのではないでしょうか。許しは自分たちだけに適用されると考えるのは独断的
といわれても仕方ありません。

ご静聴(?)ありがとうございました。

《編集者より》
「静聴」させていただきましたので、余り声を出してコメントしませんが、罪の悔い改めと許しの問題は、いつも付きまとう大きな問題です。誰が誰に対して悔い改め、誰が誰を許すのかを履き違えると、結局、「私は許されている、だから私には(過去にあれだけ悪行を重ねたのに)罪はない」と開き直る、手っ取り早い自己正当化の議論になってしまいます。神に対する罪は神に対して悔い改め、神の許しを得るのが当然ですが、人に与えた罪は、やはりその人に悔い改め、その人の許しを得るのが当然ではないでしょうか。問題は、人に与えた罪も、神が許したから(被害者が許していないのに)私は許されたと開き直ることでしょう。ものみの塔協会の虐待や差別に対する態度には、そのような傲慢さがどうしても見られます。