「私にとっての生涯学習」

(7-3-04)

数年前に何度か投稿させていただいた者です。
今は仕事をしながら趣味や勉強をしています。その課題の中で生涯教育につい
て考える機会がありましたので、ご報告がてらメールさせていただきました。
テーマは「私にとっての生涯学習」です。


私が生涯学習をしたいと思っているのは、自分の視野が狭いことを痛感してい
るからです。

私は、幼い頃からキリスト教系新興宗教の教育を受けてききました。異文化を
知ることが出来る環境ではあったのですが、特殊な宗教教育だったため、世間
一般でしてよいことがほとんど出来ませんでした。日本人としての年中行事、
誕生日、異性との交際、進路問題までダメというような宗教でした。教えにつ
いていけない子供達は自然といなくなりました。我が家は、母一人子一人(父
と弟は家から出ていた)だったため、母に従うしかないと思っていました。本
当は大学に行きたかったですし、普通に出来ることを友達と共に楽しみたかっ
たです。しかし、それが出来る家庭ではないと思っていました。宗教組織の中
にいる時は、宗教教育のいいところから吸収しようと思いを切り替えることで
自分の身を自分で守ろうとしてきました。もともと臨機応変な性格ではなく、
石頭系の人間なので、白黒はっきりさせる教えは性に合っていたのかもしれま
せん。すべては神のおかげと思うように自分で自分をマインドコントロールし
ていったように思います。

20代半ばにはいり、精神と身体が悲鳴をあげました。半年間家に引きこもっ
てしまいました。そして、とうとうその宗教の集まりには足が向かなくなりま
した。子供の頃から、世間の習慣や、友達との交友を断ってきて、就職もせず
にいたため、社会復帰にかなりの努力を必要としました。子供の頃の依存的な
宗教学習から、自己決定として学び人に教えていた自分の生き方を否定せずに
良い所は残し、どのように変えていくか。私には課題が山ほどありました。

活動していた地域から離れ、就職し、仕事をマイペースでこなすことを覚えま
した。友人や趣味を持ち、少しずつ遊ぶことが出来るようになりました。以前
から行きたいと思っていた大学も金銭面や(今更試験受けてまで・・・)とい
う消極的な思いも放送大学の制度のおかげでやってみたいと思えるようになり
ました。

ただ、宗教活動をしていた時の終末思想や人の命を救いたいといった強力な動
機付けがなく、自分の意見を強く言えるような自我が育っていない為、生活に
指針となるようなものがほしいと思ったりすることがありますが、学校の勉強
ではそのようなことは学ぶのではないということがわかりはじめてきたところ
です。

心理学を学び、信仰が思い込みや妄想といったカテゴリーに入ることに唖然と
し、哲学を学び、神の存在の哲学的な意味付けに驚きました。私の周りは知ら
ないことばかり、今まで自分の周りに作ってきた壁をどのように壊していくか
、また、どうやって乗り越えていくのか考えていくことがこれから私にとって
の生涯学習だと思っています。

面接授業の中で映画「学校」のビデオを見ました。猪田さんの常識から外れた行
動まではいかないかもしれませんが、幼い頃から習得して出来ることは喜んで
参加出来ますが、その外へ出て自分の意見を言ったり、周りの人と強調したり
しながら社会生活を送ることが難しいという点ではとても共通するものを感じ
ました。

私の場合、同じ境遇で育ってそこから離れた人たちの仲間の支援もあり随分楽
になりました。けれど、同じ傷を持っているというのはいい面もあり、悪い面
もあり、そのグループから少し離れて自分を見つめ直したいと思い大学で社会
の仕組みや昔習えなかった哲学や心理学を学び交友を広げています。生涯学習
の中には社会人として仕事の為のスキルとしての資格の勉強などもありますが
、それは不得手な分野です。

学習には、自分自身や人間関係を見つめなおすための学習と、社会に役立つ素
材になるための学習があるように思います。人生半ばに差し掛かり私はどの学
習に力を入れるべきなのか?考えてしまいます。もう少し上の世代には、まず
は社会に役立ち、自分自身や人間関係を見つめなおすというのは老後すること
だろうといわれるかもしれません。ただ、母親以外の親族や友人や社会からの
孤立して生き、そこにいられなくなった人間の孤独は計り知れないものがある
という経験をしているので、人との関係を大切にしながら何かをするという生
き方を模索出来たらと考えています。

確かに、子供の頃は依存しながらのベダゴジータイプの学習でした。宗教の世
界はこのベタゴジータイプの教育が死ぬまで続くような気がします。自分の意
思での先には、組織や神を見据えた生き方しかないからです。宗教世界を離れ
た今、自分で物事を考え行動出来る環境に自分を置くようになりました。けれ
ど、まだまだ人まねだったり、自分に自信がなく不安を覚えたりしています。
その中で自信を持って行動出来る基盤作り(仕事をきちんとこなすことや、資
格を取ってどこの会社でも通用する人材になるように努力する)が出来れば、
もう少し自己決定に基づく行動が出来るのではないだろうか。と思うので徐々
に努力していきたいです。

私にとっての生涯学習の意味は、学んだことに隷属しないこと。自分という芯
を持った生き方をするために、生活の基盤を築き、視野を広げ、楽しみを見つ
け、人としての交友を広げていくための手段だと思います。


村本様、JWICの管理ありがとうございます。ご自分の時間を割いてJWに
関わった人のための選択肢を広げてくださっているこのような活動に対して心
から感謝しています。JWを離れてしまうと、自分の生活の建て直しに力が入
るのは当然なのですが、ついつい自分のことだけしか視野に入れていないとい
う自分に気付き悲しくなる時があります。そうではいけない・・・。昔はそん
な風ではなかった・・・・。と思い、悲しくなることもありますが、私は私の
出来ることを精一杯して時々投稿させていただき、後に続く誰かが「私も出来
るかな?」というきっかけの一つにしてもらえると嬉しいなという気持ちで投
稿させていただきました。

これから夏になります。どうぞお身体ご自愛ください。

《編集者より》
重要な観点を提供する投書をどうもありがとうございました。確かに、後に続く元エホバの証人、現在苦悩しているエホバの証人には、心の糧となる内容であると思います。エホバの証人時代には「勉強」、「研究」と言えば、聖書をものみの塔の独特の解釈によって読むことでした。そしてエホバの証人の外の世界で行なわれている教育や研究は、「世の知恵」と蔑まれ、必要最小限にしか行なわれてきませんでした。しかし、実際にエホバの証人をやめて外の世界で、大学や独学で学問、特に「人間学」と言っていいような学問、たとえば心理学、哲学、人類学、宗教学、社会学、生物学、医学などを学ぶと、「勉強」や「研究」の意味が全く違うことに気がつくと思います。エホバの証人の研究は、組織の教える聖書解釈を丸呑みに覚えることでしたが、学問における研究は、基本的概念や手法を覚えた後に来る創造的な探求なのです。残念ながらものみの塔協会の指導部は、学問というものは外側からしか見たことのない人々ですから(統治体員に大学教育を受けたものは一人もいません)、真の学問を知りません。ものみの塔協会は、大学教育や一般の学問も、ものみの塔研究と同じ様に「世の知恵」を丸呑みにすることだとしか理解していません。実際の学問はその正反対で、それは自分の目と耳と心とを開いて、現実を素直に見据えていくことなのです。学問は、ものみの塔と正反対に、「真理」と言われているものにも疑いの目をもって調べますし、逆に「誤り」として捨て去られているものの中にも真理があるかも知れないと思って調べます。この限りない試行錯誤の繰り返しが、われわれを新たな見方に導いてくれるのです。エホバの証人の「研究」では、新たな見方は、ものみの塔協会の指導部の頭の中にしかありません。それを鵜呑みにするのが彼らの「研究」なのです。あなたがものみの塔の世界を出て、真の学問に触れるにつれて、本当の教育研究は何なのかを身を持って覚えられることでしょう。そして、それは単に「世の知恵」として鵜呑みにするものではなく、生涯を通じて続く探求の過程であることがわかるでしょう。あなたの「生涯学習」にはそのような大きな意味があると私は思います。