「腹が立つものみの塔研究」−P98より

(6-29-04)


腹が立つものみの塔研究という主題で投稿させて頂きます。
ここのところず〜っと何年も投稿していませんでしたが先日の研究記
事にあまりにも腹がたったので投稿いたします。
先日6/27(日)の第一研究記事で「高齢者−クリスチャン仲間
の貴重な成員」という記事でした。一言で言うとこの記事は「おまえ
達は死ぬ寸前まで述べ伝えなければならないのだ」という趣旨のも
のです腹が立つのは1節です1節は高齢者に対する一般的世の
見方が書かれていますがこれはものみの塔上層部の見方ではない
でしょうか、そこでは「国内で毎年50万人近いお年寄りが虐待や
放置の犠牲者になっています。」 高齢者となっいる自分たちの信
者を彼らの思いを虐待したり文字通り動けないようになった人々に
何の援助や励ましを与えず知らんふりして使い捨てカイロとしている
のはものみの塔そのものなのです。これが長年エホバに仕えている
としながら協会に熱心に仕えてきた人たちに対する態度です。
その点、世の人々の方がず〜っとず〜っと哀れみ深く親切です。
世の人々だったらその人々に対する何らかの手だてを設けますよ。
さらに文面は「世界各地からの同様な報告はお年寄りへの虐待
が全地球的な問題であることを物語っています」正にこれは世界
中のエホバの証人に当てはまるようになるのです。また「ある団体の
言葉を借りれば云々」とありますがこの団体とは正にものみの塔のこ
となのです。自分たちのことを世の風潮に置き換え信者を欺こうとす
るとはあきれるばかりです。
続く以降の節では古代のエホバの僕が高齢になってもエホバの業 
をやり通したという記事です。”現実的な見方をしろ”と言いたい 、
まっ!信者向けに書かれたものだからでしょうが、
古代の人々はエホバからの霊が直接働いていたのであって現在は 
聖霊があるとはいえその導きは聖書なのだ。そこには聖書的な知恵 
識別力、洞察力などを自分で働かせ生活するようにるようになって 
いる。古代の選ばれた僕と現代の幾多の開拓者では次元が違うの  
です。確かに彼らの態度や熱心さには習うべきでしょうが、
そして現代の方々のコメントがいろいろ載せられられていますがそん
な見方を否応にもするように教え込まれてきたのです。
本来の自分の見方ではないのです。
ともあれものみの塔協会は口ではきれい事を唱えていますが実際
問題として末端信者の高齢者のことや信者達の行く末のことなど
気にもしていないのです。考えていることはすべての者に死ぬまで述
べ伝えさせて1人でも多くの信者を獲得し組織を拡大させることの
みに翻弄しているのです。宗教拡張ビジネスと化してしまっています
1匹の羊でも大切にされるイエスの見方と正反対なのです。
キリスト教の思いはどこへ行ったのでしょう。
この記事の討議が終わった時点で私は「塔」の司会者に「ご苦労
様でしたこんな信者を欺く記事を司会されるのも大変ですね」とお
礼をいい「1節のことはものみの塔そのものですね」といったところ
司会者は「兄弟のように協会に批判的な見方をする人はこんな
集会に来ても意味がないのではないですか」と言ったので私は「聖
書の真理を学びに来ているつもりですよ」「ものみの塔のことや欺き
を観察しに来ているのではありません」といい後はものみの塔協会が
信者をどう扱ってきたか正しい導きを与えていないことなどで論争と
なり王国会館じゅうに聞こえる大声となってしまいました。
ものみの塔は聖書の知恵を借りて高齢者には誰でもなるのでその
時事柄を配慮する導きを与えるべきだったのです。
4/27に投稿されていますフリーダムさんの投稿にあるとおりです。
さて来週の記事ですが「高齢者の世話−クリスチャンの責務」とい
う主題です。いよいよ高齢者が増えどうしようもないような時期とな
っています。クリスチャンが歳の行った人たちの世話や気遣いを示す
のは確かに聖書的ですし課せられています。
しかし協会はきれい事を言っているだけで何もしません、良い導きを
与えてこなかったにもかかわらずその責任を総べて会衆の人々、長
老などになすりつけようとしています。高齢者1人1人に気遣いの手
紙でも書いてみろと言いたい、それもプリントしたモノでなくその人に
あった手書きのモノだ。
協会の拡張ビジネスに載せられるのは自分を台無しにすることです。
協会のやり方をよく観察しそれが聖書的かどうかよく考える時期に
来ています。キリスト教というのは宣べ伝えることにのみに自分をすり
つぶし組織の拡大に寄与することなのでしょうか、 考えましょう。
                           P98より

《編集者より》
ものみの塔協会が老後の準備を教えず、そのために備えのない惨めな老人群を作り出してきた最大の理由は、その独特な「終わりの日」の教義そのものにあると思います。「終わり」が間近に迫っていて「この事物の体制」が破壊されるはずの時に、「この事物の体制」の恩恵をこうむるための老後の準備など教えるわけには行きません。目の前に迫っている(と教えている)「終わりの日」に対処すればよいだけで、後は「エホバまかせ」と決め込んできましたが、その結果アリとキリギリスのキリギリスの憂き目を見ているのが、今の老齢化したエホバの証人と言えるでしょう。今ごろになって、高齢者に対する世話を教えた所で、備えのない老人群を作り出した究極の責任者であるものみの塔協会の社会的責任をごまかすだけの煙幕としか見られないのではないでしょうか。それにしても、P98さんは会衆の中でそのような議論を堂々と繰り広げているのでしょうか。もしそれが会衆内で議論されるようであれば、それは会衆の指導者にとっては最悪かもしれませんが、会衆内の現役の証人たちを現実に目覚めさせるには効果があるのではないでしょうか。またその後の会衆内の反応をお知らせ下さい。


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