「30歳を過ぎて理学療法士になられた方へ」−ラハムより

(6-21-04)

わたしは兄弟の気持ちがよくわかります。わたしも組織に30年
近くいましたが、ついに結婚できませんでした。いや、つきあってくれる
女性も皆無に等しいものでした。交際を申し込んだとき、
わたしの話も最後まで聞こうとしない人がほとんどだったのです。

わたしの場合、正規開拓奉仕をおこない、奉仕の僕となって
書籍研究の司会、奉仕会、神権宣教学校、公開講演など、
いわゆる長老でないと果たすことができないとされること以外は、
およそ何でもおこなってきたのですが、そのようだったのです。

兄弟は理学療法士になられて、援助の必要な高齢者や肢体不自由者に
接することを職業とされましたから、わたしの経験よりも
肢体不自由者の兄弟の経験のほうがなじむであろうと思いますので、
最近組織を離れた理由を手紙で知らせてきた、
障害を持つ、兄弟の経験をお伝えしたいと思います。
彼に許可をいただきましたので、特定されない程度に
手紙を引用してみたいと思います。

-以下引用文です-

…わたしが組織に、はいってきた理由のひとつとして、
世の中では障害者として疎まれているわたしが、
聖書のすばらしい原則を信じ実行している人々の中から、
自分が愛情を注ぎ、偏見もなく自分をも愛してくれる
女性が見つけられるという期待感もあったのですが、
これは完全に裏切られる結果になり、
つまづかせるものになってしまいました。

わたしが女性を見る目がなかったというのもあるとは思います。
わたしとしては霊的であれば、きっとわたしの人間としての
価値を認めてくれ、障害を持っている障壁を乗り越えることが
できると考えました。でも、そうではなかったのです。

この15年間は必死になって配偶者を見つけようと努力をし、
見合いもしたのですが成立しませんでした。交際相手を見いだそうとして、
せめて交際だけでも申し込むのですが、それも成立しませんでした。
こうしたことが幾度も生じ、わたしは「人間としての価値がないのだろうか」
という思いに、取り憑かれたようだったのです。

あるときは、同じ障害を持つ娘の母親からわたしに向かって
「兄弟は結婚する資格はない、王国会館を背負ってあげてもらっている人が
自分の娘の世話をできるはずがない」という暴言までありました。
この二人はともにバプテスマを受けています。

わたしたち人間は生まれてくるときの状態をだれも選択はできません。
ましてや、障害者になるかどうかなどは選択の余地はないのですが、
真理を知ってエホバの特質を反映していると主張している人々の中から、
無理解どころか、傷つけ打ちのめすようなことばの出てくることが
わたしには信じられませんでした。組織と交わったわたしには期待とは、
逆のことが生じてしまったのです。
  
でも、悪いことばかりではありませんでした。わたしがほんとうに
霊的であろうと、努力してきたことを認めてくれる人はいました。
**姉妹や##姉妹、現在ヘルパーに来てくれている$$姉妹も
そうだと思いますし、わたしの人生においてみなさんは貴重な存在です。

エホバの証人として聖書を学んできた者として残念な感じ方かもしれませんが、
パソコン教室や他のことを通して多くの慰めを得ていることにも
気がつきました。わたしとしてはより霊的な人として成長するために
努力をしてきても、自分の人間としての価値をほとんど認めてもらえなかった
と思うわけですが、パソコンの指導は、いくらかの収入になり、
尊敬され、感謝されることが多くなりました。

また世界中では戦争やテロの脅威があるわけですが、日本において、
特にわたしにとってかもしれませんが、障害者にとって
生活しやすくなっており、社会全体としても、わたしが子どもだった
ときよりも積極的に手助けしてくれ、やさしくなっているというのが現状です。

今のわたしにとっては、聖書の言う終わりの日のしるしとは正反対のような
気さえするのです。いったいどうなっているのだろうかとさえ思います。

わたしは自分の意志と選択によってエホバの証人になりましたので、
そうなったことについて後悔はありませんが、
あまりにも自分を傷つけすぎました。これを回復させるには
膨大な時間が必要であり、おそらくは人生の幕を閉じるまで
背負っていく荷なのでしょう。ですから、どうぞ温かく見守ってください…

-ここまでが引用文です-

彼がリハビリを施されたのは小学生時代でした。
現在から40年以上前の出来事でしたが、そのころのリハビリの考え方は
不自由に生まれて身体的な機能が欠損している子供たちに
スパルタ式の残酷で非人間的な訓練をおこない、無理やりにも、
健常者の社会に物理的適合をさせようとするものでした。
それは非常につらく苦しいものだったのです。

現在では、バリアーフリーという言葉がちまたで聞かれて、
障害を持った人々の必要に合わせ、さまざまな改良改善がなされ、
精神面でも、物理面でもハンディというものを軽減しようという方向に
社会全体が動いていると思われます。

わたしはこの広場の投書に組織での障害者に対する扱いを書きましたが、
それは主に彼のことでした。(2-28-04)

エホバの証人は聖書の預言を現代に当てはめて、
社会全体の愛が冷えることを主張しています。
でも彼の話では、自分が車いすで病院の外を出歩くようになった、
30年以上前と比べると現在のほうがずっと暖かく、親切で
人々が気軽に声をかけて、サポートを申し出てくれるそうです。

兄弟は霊的な差別の存在することを述べておられましたね。
まったくそのとおりだと思います。
エホバもイエスも外見を見ずに心を見ると聖書は述べています。
当然、エホバの証人もそうであるべきですが、現状は違っていました。

もしそれができるのであれば、真に聖書的・霊的であれば、特権の有無や
身体上のハンディに左右されることは非常に少なかったでしょう。
それですから、彼もわたしもパウロが述べたテモテ第二3章の終わりの日の
自然の情愛がないとか愛が冷えるというイエス・キリストの
預言を自ら成就させているのは、
エホバの証人全体としての傾向だと考えています。

組織を離れて彼は、半年になろうとしていますが、
自分の所属していた会衆には80人ほどの成員がいても、
この手紙に現れる**姉妹以外からは
電話の一本、はがきの一枚もないそうです。

長老も4人いますが、最初のころ同じ群れの長老からいくどかの
電話があっただけで、ほかの3人からは何もありませんでした。
彼は電話をかけてきた長老は彼を大きく傷つけたゆえに
非常に嫌っていましたので、電話をしないように
伝えたところそれっきりになりました。
##姉妹は以前から親しかった近隣の会衆の人です。

彼はエホバの証人ではない友人の提案で視覚障害者を含めた
パソコン指導の技能を身につけ、パソコン教室を開いており、
手紙で述べられているように、組織では得ることのできなかった、
感情的な必要を満たすようになっています。

編集者が兄弟の投書に対するコメントで述べてくださっているように、
高齢者や身体の機能にハンディのある人々を扱うには、
エホバの証人のおこなっているような一律の価値観を押し付けたりせずに、
その人々のありようを受け入れ、個々の人の人間としての自尊心を保ちつつ、
残された機能を最大限に活用できる道を模索することが必要でしょう。

こうした事柄は、組織の拡大に貢献せず、役に立たない人々に
無関心になっていくエホバの証人全体の傾向とは大いに異なります。

わたしも長いこと組織と関係を保ってきた人間ですから、
編集者が「神の神経学」で述べておられるように、進化の過程で
「内なる神」という概念を獲得してきたことを受け入れておりませんが、
反面「内なる神」という概念は長いこと神に関する考察を続けてきた
わたしには、疑問に関してひとつの答えが与えられたと感じております。

外なる神や内なる神が存在するのかどうかは別にしても、
この投書を読んでいる、兄弟やわたしたちが存在し、
この世の中の片隅で生きていることは厳然たる真実だといえるでしょう。

そして、このサイトの編集者も彼もわたしもあなたも
人としての良心を持ち、他の人の福祉を顧みたいという
気持ちを抱いて生活していることも真実なことです。
これがわたしたちにとっては「内なる神」かもしれません。

早い時期に組織から出てリハビリや他のことをおこなえばよかったと
考えて悔やむことは当然のことです。ですから、後悔を感じるのであれば、
そう感じることは、その人にとって必要なことですので、
そのように感じる自分を受け入れて愛し、大切になさってください。

そして、その中から立ち上がってきたときに、自分がいたことを悔やんだ組織で
学び知ったことが、きっとリハビリで扱う人々の必要を顧みるために
役に立つことが少なからずあることを発見できるでしょう。

あなたにお会いすることはないであろうと思いますが、
同じ空の下で生きており、同じような苦難を味わったもの同士として、
わたしは残りの人生をできる限り有意義に生きていくつもりです。

どうぞ、ご自分の人生の持ち時間を大切に有意義に送ってください。
そして、最善・最良の配偶者が見つかることを願っています。

ご意見ご感想など聞かせていただければうれしく思います。
kenbouoh@ybb.ne.jp までお願いいたします。

《編集者より》
ものみの塔の教える「終わりの日」の証拠の一つとして、現代の社会の愛が冷えていることがよく上げられますが、あなたも、あなたの障害者の兄弟も書いているように、必ずしもそのようなことは言えないと私も思います。人の愛の表現の仕方が変わっていることは、全ての人間の行動と同様、時代と共に変化するので当然ですが、昔のような愛情表現がなくなった代わりに、昔なかったような愛情の表現が出てきたのも確かでしょう。障害者に対する扱いはその一つの例でしょうし、高齢者、女性に対する扱いも、社会全体としては昔よりはるかに愛情があるように思います。これも、ものみの塔協会がいかに物事を一面的にしか見ないかを示す、一つの例だと思います。

私の著書で論じた「内なる神」について言及されていますが、「内なる神」の元型は、やはり誰にでもある愛情、同情、哀れみ、良心などであると思います。これが組織だった個々の宗教よりも、人の心(脳)に普遍的に存在し、人の宗教心の原点になっていること、それが「内なる神」を論じた私の本の一番の論旨なのです。あなたも多分気がついておられると思いますが、あなたも私も、多くの元エホバの証人も、その外形はどうであっても「内なる神」において、共通のものを分かち合えるのではないでしょうか。これが私の訴えたい結論なのです。