「JWから離れて20年近くになりました」

(6-7-04)

JWから離れて20年近くになりました。
 
 以下に記すように20代にほとんどをJWとして生きてきました。しかし、JWとして
は不徹底な生き方で問題の本質に触れていないかもしれません。ただ自己消滅後の心の葛
藤を癒す経験談として読んでいただければと思います。
 学校を卒業して(高専)家業を継ぐため取引先に見習いとして入社し、なおも自分の進
路に動揺していたときに、JWと出会い”研究”が始まり、同時期に勉強していた研究生
と競うように“献身”しました。1975年のことでした。もう少し慎重に考えれば良か
ったのに、その時はもうすぐ現在の社会体制すべてが終焉を迎えるというメッセージに自
分をゆだねてしまいました。
 体験談の中に語られているような本部、支部あげての人間関係の大騒動や葛藤のような
際だった経験はなかった。それでも、徹底できない自分に対する嫌悪、当時口にはできな
かったけれど、教理に対する疑問、組織の不完全さがありました。でも後何年かの辛抱な
のだから、こんな”仮小屋”でも我慢するしかないか、と思っていました。(もし当時の
私のことを知る人なら、おまえこそその不完全さの最たる者だといわれそうですが)
 家業も忙しく、ふとしたことでJW的人間関係に深い溝を感じるようになりました。だ
んだん不活発になり、自分を責めさいなむ日々でした。このように書くとあっさりしてい
るようですが、自分としては深刻でした。
  ある時から、暗澹たる心情で”自己消滅”の道へと歩んできました。自分の立場を確
かめる言葉もなく、自分を敗れた人間、だめな人間としか認識できない有様でした。
 そのころ、こんな醜い自分や、歪んだ人間関係から逃れるのに、自然の中に自分をおい
てみたいと思いました。(以前からハイキングをしていたことを思い出した)
 始めは、山登りの肉体の苦しみに忘れがちでしたが、気がつくと自分を責めさいなむ気
持ち、現体制とともに滅ぼせれる恐怖から逃れられませんでした。そんな自分を忘れるた
めよりハードな登山を求め、山にのめり込みました。(自分を取り囲む、自然には目もく
れずに....)
 雪山だけには行かないつもりだったのに、とうとう、積雪期の山登りに手を染めました。
最初から、強風吹き荒れる山行となり、途中で引き返す、羽目になってしまいました。
誰もいない山で吠えるように吹き荒れる強風の中でしたがでしたが、不思議と自分の内面
は静かな感じでした。
 やがて何度目かの山行ので、ふと積雪の山の美しさに気づきました。(それまで自己嫌
悪の気持ちが強く、自然と力比べしているような不毛の山行でした)人間を寄せ付けない
ような荘厳さでした。
 またある雪山行で、強風のなかテントを張り、、ほとんど眠れぬ夜を過ごし朝ふとラジ
オのスイッチを入れると(後から分かったのですが)マーラーの第9番のシンフォニーが
流れてきました。僕以外にもこんなに死について考え、美に昇華している人がいる...。
その響きが心にしみいりました。
  また、梅雨の合間に思い立って、山に登り、高山植物の咲き乱れるお花畑に足を踏み
入れました。冬の間、雪に埋もれる一帯にこんな別世界があったのか..。こんな厳しい
環境で、誰も恨むことなく、一生を全うする花々に心を打たれました。
 自分の中の凍り付いた気持ち、追いつめられて頑なになっていた心が次第に柔らかく、
平静を取り戻せるようになりました。心の中の鎧が外れ、自分を閉じこめていた、敗北感、
罪悪感から逃れることが徐々にできるようになりました。

《編集者より》
自然の美しさを見いだすことが心の癒しになることはよく知られていますが、あなたの場合、これがとてもよく働いたようです。自然の美しさを見て、神の創造を感じる人は多くいますが、その神の存在感を、ものみの塔のような宗教団体に結びつけるのは、大きな飛躍が必要です。神の存在感を起こす自然界の感動は宗教の原点になるとは思いますが、宗教団体はあくまで不完全な人間の産物です。自然に戻ることで、宗教団体から離れた宗教の原点に遭遇できるかも知れません。