「元・研究生の一人として」−7

(5-13-04)

四月に行われました記念式の後、二回ほど書籍研究させていただいてからはいったん交わ
りを中止しています。
司会者はふだんとても寛容な方なのですが、統治体への疑惑追及になるといささか熱くな
りやすいと思いました。二度目の衝突だったかもしれません。それ以外ではとても有益で
楽しい一年半でした。
ディスカッションも多岐にわたり、また激しかったと思いますが、ずいぶん忍耐してくだ
さいました。ありがとうです。
 
中学時代の友人であったエホバの証人の成員とは、今でもメールをやりとりしています。
こちらが質問すると、「洞察」の中から抜き出してプリントしてくれたりします。
他の方ともあるところでお会いしましたが、挨拶してくれないということもなく、ホッと
しているところです。それどころか、相手の方のお宅がすぐ近くだったので、遊びに来な
いかとお誘いをいただきました。
批判書をたくさん読んでいろんな知識があったので、偏見を抱いてしまったようです。恥
ずかしいです。
ただ、再びものみの塔の書籍研究に臨む日が来るとは思えません。やはり窮屈に思うとこ
ろもありました。
 
今回このサイトで他の方の投書を読ませて頂いているとき、目についてモヤモヤしてしま
ったことがあります。それは村本様のお言葉に次のようなものがあったからです。
 「一世紀当時に最も大事であり、最も正しいと考えられた判断は、
  二十一世紀に通用しない」
というところです。
 
編集者様のようなお考えはよく聞かれるところだと思います。とくに年代が大きな節目に
あたる前後には多くなるでしょう。
私が今までに大きな影響を受け、失望も激しかった宗教団体(GLA)においても同じこ
とが言われています。すなわち、
 「イエス様の教えは2000年前の民衆を救うことはできても、現代に    
  山積みされている問題に回答を与えることはできません」
ということです。
そのためGLA信者は、自らミカエルの生まれ変わりを標榜する指導者の、新しい考え方、
新しい方法に傾倒してゆくのです。
造語はありますが、オリジナリティには乏しいので収集家ともいえます。でも一人一人の
事情に合わせた細かな指導によって、その人が本当の自分に出会えるよう助けているとい
うことになっています。
個人崇拝だということは聞こえが悪くて言わないでしょう。TL運動(トータルライフ人
間学)とも呼ばれています。
 
私とはハ具体的判断が著しく違うので、どうしても好きになれません。被害者と加害者が
入れ替わるくらいに著しい時があります。なお、私が信者だったことはありません。
 
指導者である高橋佳子はミカエルの生まれ変わりと信じられており、父親はエホバの生ま
れ変わり、祖母は聖母マリア、伯父はパウロだそうです。幹部には熱心党のシモン、モー
セ、ガブリエルもいました。彼らの周辺にはイザヤとかマグダラのマリアまでいます。
ちなみにこれらは方便ではなくて本気なのです。人類の歴史は三億六千五百年前にベータ
ー星から宇宙船に乗ってやって来たということになっています。その時の指導者がエホバ
であり、佳子の父親(故人)として生まれ変わってきたといわれています。
 
一部のクリスチャンがなぜ天国と地獄なる発想をもつに至ったのかを、このあいだ聖書続
編・外典と呼ばれるエズラ記(ラテン語)の日本語訳を読んで得心いたしました。そこに
は山羊と羊を分ける時の具体的な描写があります。一世紀末に書かれたものだそうです。
7章には死後の霊がたどる道というものが書いてあり、おそらくこれかなと思った次第で
す。
 「霊が体から出て、自分をお与えになった方のもとに、再び帰って行
  く」(7:78)
 「それでは魂には、体から離れた後、今言われたことを見る時間が
  与えられるのですね」(7:100)
 
GLAの影響を受けて設立された幸福の科学もあの世に天国と地獄があることを信じてい
ます。GLAもそうなのですが、彼らは信じるというよりは知っているという表現を用い
ます。幸福の科学が聖書のなかで根拠としている部分は次の言葉です。出版社不明。
 「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」(伝道の書
  12章)
の銀のひもというのが、肉体と魂とのあいだにある霊子線(れいしせん)のことで、シル
バーコードとも呼ばれているものです と。これが切れると死ぬんだそうです。
 
 ※ 日本聖書協会「白金の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける」コヘレ
    ト(11:6)
    新世界訳「銀の綱は取り除かれ、黄金の鉢が砕かれ」伝道の
    書(12:6)
 
はじめに戻りますが、
「二十一世紀型」といいましても、人間自体が古代から変わっていないのに、見かけが変
わったくらいでそうそう判断も大きく変わるとは私には思われません。むしろ古いお酒が
好まれるように、掘り起こしによって陽の目を見たものが新鮮に感じられるくらいの程度
ではないでしょうか。自分の目には新しくても、それは古くからの習わしだったものかも
しれません。
「二十一世紀」というのは、あんまり意味のない言葉・目標ではないかなというのが、さ
きほどのモヤモヤの正体だったと思います。ちょっとニヒリズムすぎるでしょうか。
 
もう一つ驚いたのが、アメリカのエホバの証人の間でUFOが特に根強い人気であるとい
うくだりです。これも別の方の投書にコメントされた編集者様のお言葉です。
ご存じのようにエホバの証人は死後の霊を信じません。また広い宇宙の中で地球だけに人
類が存在していると信じています。私の司会者は「宇宙人はいない」と主張しました。い
たら宇宙論争になるはずがない と。エホバのやり方が気に入らなければ、サタンがよそ
へ行けばいいだけなのだからということを、聞いたことがあります。
なのにアメリカのエホバの証人たちはUFOを信じるのですか? 
驚きました。宇宙人抜きで信じているのでしょう。悪霊たちによるしるしでしょうか。
 
GLAがよく使う言葉で嫌いなのが「ウチ・ソト」「モノ・コト」という考え方です。こ
とばも嫌いです。
ものみの塔がどんなに矛盾に満ちたものでも、それに対する大きな嫌悪というものは生じ
ません。ある意味どうでもいい団体なのかもしれません。脅威を感じないのです。私が嫌
いなのはやはりGLAです。
また、神を内部に見るか、外部に見るかという分け方がどうしてもわかりません。物質と
状態に分けて考えるやり方も何かピンときません。
 
私の考えは編集者様のご著書の内容とは対立する概念かもしれませんが、正直なところ脳
内に神がいるとは思えません。脳が作り出すイメージではなく、また心のうちにある漠然
とした何かでもありません。
 
エホバの証人との出会いで私が感謝しているのは、聖書にもう一度立ち返らせてくれたこ
とです。
聖書は実際に存在しておられる「神の御手」を、輝かせる言葉の集まりだと思います。預
言者たちの創作ではありませんし、神が個性をもって存在しておられることを伝えるもの
だと信じます。
これは私の信仰と呼んで差し支えないと思います。
 
イエスはモーセの律法を踏まえたうえで、さらによい態度をとるようにすすめています。
敵を憎むのは正しい。しかし敵を愛し、敵のために祈ることはもっと正しいというふうに
です。「旧」と「新」の間にある矛盾を、私はこのように考えました。
また イエスは寛容すぎることについても戒めていると思います。黙示録(啓示)に テ
ィアティラにあてた手紙があります。その中でイエスは「近頃の行いが最初のころの行い
にまさっている」ような人に対しても、イゼベルという女を大目に見ていることについて
はとがめておられるからです。
 
聖書は現代でも信ずるに値する書物だと思います。イエス・キリストは、ご自分のことが
書いてあることを証ししてゆきました。「旧」と「新」が矛盾ないものとして認識されて
いることは、イエスの次の言葉に言い表されています。(マタイ5:17〜18)
 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならな  
  い。廃止するためではなく、完成するためである」
 「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一
  点一画も消え去ることはない」
 
弟子は師を越えないという言葉は、弟子の言葉よりも師の言葉の方に力があるということ
でしょう。霊感が与えられてはいてもイエスの言葉を優先すべきだと思います。
 
聖書の時代はまだ終わっていません。私は書いてあることがすべて必ず成就すると信じて
います。イエスの言葉を流用する宗教は、聖書を軽んじたり別の考え方を混ぜるべきでは
ないと思います。
解釈の問題はいろいろあるでしょう。でも、最終的には手尺によって天を測ることはムリ
だと悟るべきでしょう。
自己反省も兼ねてそう思います。

《編集者より》
いつものことですが、非常に興味ある視点を提供していただきありがとうございます。幾つかの興味ある点について考察してみたいと思います。先ず、「一世紀当時に最も大事であり、最も正しいと考えられた判断は、二十一世紀に通用しない」という問題を考えてみましょう。これはあなたも指摘されているように、多くの人が直感的に分かっていることです。早い話が、明治時代の私たちの祖父母や、曾祖父母の道徳律と現代の道徳律とを比較してみるとき、違いのあることを認めない人はいないでしょう。一番典型的な例は、女性と男性は根本的に権利も義務も異なるという見方で、これは聖書にも書かれていることですし、日本もたった50年前までは社会全体がそのように信じていました。人の病気が悪魔や呪いの結果であることも、昔の日本でも聖書の中でも信じられていた通念ですが、今では通用しません。これらは極端な例かも知れませんが、もっと基本的な原則、たとえば「殺すな」についてでも、この原則をどう当てはめるかで、見方は変わってきています。聖書の時代にも、あるいは今の社会でも日本やアメリカでは、「殺すな」という原則があるにもかかわらず、「死刑」を認めています。これが人が人を殺す行為であることは明らかで、見事な矛盾ですが、それに気がついて死刑を廃止した国々が最近になってようやく増えてきました(アメリカでもかなりの州で死刑が廃止されきています)。これは、それをどう評価するかに関係なく、無視することのできない事実です。私はだからと言って、GLAのような新たなカルト宗教を作って、「真理の改訂版」を出すべきであるとは言っていません。ただ、素直に「真理」も進化することを認めて、「真理」を当てはめる時に柔軟性を持たせるべきであると言っているのです。あなたは「人間自体が古代から変わっていないのに」と書かれていますが、現代の医学、人類学は実に「人間自体」が古代から現代にかけて確実に変わっていることを示しています。この研究は現在は始まったばかりですが、いずれ脳の進化について更に多くの知見が得られると思います。

これに対し、「唯一、絶対、不変の真理」があると信じる人々は、現実を無視して2000年以上前から時の流れを止めたように、昔の「真理」をそのまま当てはめています。これは現実に則していませんから、現実との間に常に軋轢が生じます。これが世界的な原理主義的宗教の様々な問題の根源なのです。しかし、彼らも聖書に書いてあることを全て文字通りに実行したら、現代では生きていけないことを知っているので、実際には適当に都合のよいように「解釈」を変えて、柔軟性を持たせています。現代でも聖書の時代と同じ様に、祈祷や魔除け(マタイ17:18、ヤコブ5:13)だけで病気を治すことを教える原理主義キリスト教の宗派もありますが、多くの信者は「象徴的」に解釈することによって、らい病はらい病菌の感染によって起こることを信じて、聖書の記述は現代には文字通りあてはまらないと考えています。

しかし、私はいつの時代にも不変な真理があることも否定していません。イエスの教えた、いわゆる「黄金律」といわれる、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)は、古今東西を通じて、人間社会の倫理の基本となっています。なお、興味あることは、この教えは決してイエスが初めて言い出したことではなく、それ以前のギリシャ時代から倫理の基本となっていたことです。私は聖書の中に、多くの「真理」がちりばめられていることを否定するものではありません。しかし、エホバの証人の主張するように、「聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です」という見方、つまり聖書に書いてあることは全て言葉通りに成就し正確であるという見方が不可能であることは、現実を素直に見れば自明のことであると私は思っています。

「脳内の神」の概念は、一言で説明するのは難しいと思いますので、よろしければ私の著書を読んで下さい。これは私の一つの仮説であり、試論であって、今後検証と批判を受ける必要があることは承知しています。ただ、今後の研究であなたの脳の一定の部位を損傷させると、神の認識が消え、またある脳の部位を活性化させるとあなたに神の認識が出てくるとしたら、神の認識も、他の全てのものの認識と同様に、脳の活動がなければ存在し得ないものであることは納得されるのではないでしょうか。

最後に誤解を防ぐために申し上げておきますが、聖書が不完全であり神の認識が脳の活動の産物であることを認めることは、決して聖書と神を否定するものではないと言うことです。そのような見方は、これも原理主義的キリスト教者の常ですが、「全か無か」の二者択一しかできない硬直的な思考によるものです。神と聖書への信仰に、現実に則した柔軟性を持たせること、これが私のお勧めしていることであり、これがエホバの証人問題への私の助言でもあるのです。