(5-5-04)
はじめまして。いつも当サイトを楽しく拝見させて頂いております。 この度はじめて投稿させていただきます。 わたしは、いわゆる二世として物心ついたときからエホバの証人と交わっており、30年近くになります。 現在の会衆での立場は奉仕の僕です。 昔からこの組織にはなんとなく違和感を持ち、 これが唯一神に導かれた組織という考えがどうしても飲み込めませんでした。 しかし、身近で起きたある事件をきっかけに、 やはりこの組織が神に導かれているとはどうしても考えられないと思うようになりました。 その事件については、今はまだ公開することができないのですが(およそ察しはつくと思います)、 レイモンド・フランズ氏や金沢司氏の経験したことは まず間違いのない事実であるということが理解できるようなことです。 最近は、この組織の教えを見聞きすることにも嫌悪感を覚えるほどになり、 この先の身の振り方に苦悩する毎日です。 ところで、以下は最近ものみの塔研究で学んだ記事について、 わたしなりの疑問と考察をまとめたものです。 ものみの塔誌2004年3月1日号に掲載された二つの研究記事では 「忠実で思慮深い奴隷」という特定の人たちが、 一つの級として神に是認されているという内容のことを学びました。 エホバの証人、あるいは彼らの主張を調べたことのある方であれば誰でも知っているはずの、 エホバの証人の基本的な教理です。 二つの記事においては“統治体”というものについて言及されていないのですが、 第一研究記事の導入部分で『霊的食物の供給』に触れられていることから、 この記事が彼らに注意を引くように意図されていることは明らかでしょう。 さて、第一研究記事の5節ですが、『「忠実で思慮深い奴隷」という表現は、 一般的な意味でクリスチャン個人個人にあてはまる』のではないということが説明されています。 その理由として 『イエスによれば、主人は到着すると、その奴隷を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるからです。』 そして 『個々のクリスチャンが主の持ち物のすべてをつかさどるなど、不可能です』と述べられています。 この点を踏まえて6節の冒頭では 『ですから、道理にかなった唯一の結論として、 イエスは一団のクリスチャンを「忠実で思慮深い奴隷」と呼んでいたことになります』 と結論付けられています。 しかしここでわたしが疑問に思うのは“個々のクリスチャンは、 本当に主の持ち物をつかさどることが不可能なのでしょうか”ということです。 そしてこの疑問を解く鍵は“主人の持ち物とはいったい何か”ということだと思います。 つまり、“主人の持ち物”の性質あるいは量によっては、 個々のクリスチャンがそれをつかさどることのできる可能性はないのだろうかということです。 この点については19節で 『それは主人に属する、この地上の霊的な事柄すべてです』と説明されています。 その後に漠然とした説明が続くのですが、 要は宣べ伝えて、人々、特に「大群衆」と呼ばれる人たちを集めることが “主人の持ち物”であるとの主張であると理解してもよいでしょう。 この点をさらに裏付ける記事には以下のようなものがあります。 ***塔93 5/1 17ページ キリストの臨在の期間に拡大する活動*** では,『イエスのすべての持ち物』とは何ですか。 天の王としてのキリストの権威に関連してキリストの所有物となった地上の霊的な資産すべてです。 これには確かに,キリストの弟子を生み出す任務が含まれており, その任務には,世界中のすべての国の人々に対し, 設立された神の王国の代表者として行動する壮大な特権が伴っていました。 ***塔87 8/1 15ページ 今日における,キリストの積極的な指導*** その持ち物には,「キリストの代理をする大使」(コリント第二5:20)であることと, イエスが始めた宣べ伝える業に従事し, それを「地の最も遠い所にまで」(使徒1:8)広げることが含まれていました。 ***千 12章 216ページ 王の持ち物を増やす*** それはキリスト教のわざを推し進めるための土台, つまり神のメシアによる王国の良いたよりを宣べ伝え, キリスト教を実践する弟子を作るわざをさらに続行して成果を上げ得る耕された畑でした。 これらの記事の説明からも分かるように“主人の持ち物”とは、 おもに“宣べ伝えて人々をキリストに導くこと”となります。 この理解が正しいかどうかは定かではありませんが、ここではひとまず受け入れて話を進めます。 では、この“宣べ伝えて人々をキリストに導くこと”は 個々のクリスチャンがつかさどることが不可能なことなのでしょうか。 いいえ。答えは明らかです。 また、記事の中では『すべての』という語がわざわざ太文字で強調されて、 この持ち物が非常に大きなものであるかのような錯覚を覚えます。 確かにこの『すべての』という言葉だけに注目するなら、そのような大きなことを成し遂げられるのは、 やはり一つの有能な集団でしかないという結論に誘導されていくかもしれません。 しかし、この後に続くマタイ25章の「タラントの例え話」や並行記述のルカ12章48節を考慮するなら、 主人が要求しておられることは彼の検分の前であっても後であっても、 基本的に個人個人の能力に応ずるものであるということが分かります (この個人個人の能力に応じて要求されるという考えは、聖書全体に貫かれている―コリント第二9:7)。 つまり、この『すべての』という語は相対的なものであり、 誰か特定の人や集団だけが負うことのできる大きなものであるとは言えないということです。 確かに個々のクリスチャンであっても自分の可能な範囲で精一杯、 誠実に人々をキリストに導こうと努力しておられる方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。 それでわたしなりの結論なのですが、主人であるイエスがつかさどらせる持ち物の性質と量を考慮するなら、 個々のクリスチャンでも十分に負うことのできるものであるといえるでしょう。 ですからイエスが任命して自分の持ち物をつかさどらせる奴隷は、 個々のクリスチャンであるという可能性も含んでいるということになります。 少なくとも聖書の述べていること、さらにものみの塔自身の説明を持ってしても、 「忠実で思慮深い奴隷」が唯一ものみの塔の「油そそがれた者」である という結論に導くことには無理があるということです。 先ほども言及しましたが、6節の冒頭では『ですから、道理にかなった唯一の結論として、 イエスは一団のクリスチャンを「忠実で思慮深い奴隷」と呼んでいたことになります』と結論付けられています。 しかし、この一連の説明に基づく結論は、短絡的で少しも道理にかなってはいないのではないでしょうか。 このような薄弱な裏づけをもって結論をごり押しするというやり方は、 ものみの塔協会の出版物の中に頻繁に見られます。 わたし自身は、自分の考察したことが必ずしも正しいとは思ってはいません。 また「忠実で思慮深い奴隷」が本当のところは一体何なのかということをどうしても知りたいとも思っていません。 そもそも、これは例え話の中で語られている事柄であり、 要点は「いつも目覚めていて忠実でありなさい」ということであることが聖書の中にはっきり書かれています。 それ以上の考えを無理やりひねり出す必要がどこにるのでしょうか。 別にものみの塔を攻撃しようと思っているのではありません。ただ悲しいだけなのです。 このサイトの読者の中にも、 エホバの証人として生活をやりきれなさと共に過ごしておられる方も多いのではないでしょうか。
《編集者より》
あなたも書かれているように、「忠実で思慮深い奴隷」の教義は、ものみの塔宗教の創始者であるラッセル以来の中核となる教義であり、それが誰を指すかも、最初はラッセル個人であったものが、その後はものみの塔の指導部を中心とする「油塗られたもの」級の人々に変わりました。あなたが的確に指摘しているように、このたとえ話は単純明快なメッセージ、すなわち主の帰還に備えていつも準備をしていなさい、というものであって、それ以上のこじつけ解釈は、典型的な自己中心の誇大妄想解釈であると思っています。
会衆内の事件について、それがどのようなものか分かりませんが、実名や会衆名を伏せる形で是非とも詳しい状況を投稿して下さい。きっと多くのエホバの証人や元証人に役に立つ情報になると思います。