「正しい答え」−フリーダムより

(4-27-04)

エホバの証人をやめてから会社の同僚に「プロレスに今晩一緒に行かないか」と誘わ
れたことがある。無料のタダ券を知人から手に入れたらしく「一人で行くのもなんだ
から」みたいな感覚で誘ってきたらしい。「プロレス?」一瞬誘われたとき戸惑っ
た。エホバの証人時代格闘技の柔道さえ拒否してきた自分がプロレスに誘われた。行
こうか行くまいか迷った。特別関心があるわけでもなく逆に行くことをためらわせる
ような理由も今の自分には見当たらない。そうだ、誘ってくれたその同僚との「付き
合い」という意味合いもあるし、これからの自分の人生の中での話の種にもなればい
いや、みたいな気持ちで行くことにした。夕方会社を退社してすぐにその同僚と一緒
に市民体育館へ車を走らせた。体育館の中は少し異様な雰囲気に自分には感じられ
た。筋肉もりもりのプロレスの選手がチケット配りやグッズの販売をしている。プロ
レスを見に来るファンの人たちは自分が今まで接してきたエホバの証人とはまるで別
世界に住んでいる人たちのようだ。試合が始まった、どうも最初は新人といわれる人
たちから試合が行われてゆき、最後は「メインイベント」という「横綱級」の試合が
あるらしい。選手たちが格闘し合いリングに身体が打ちつけられるたびにこちらにそ
の振動が響いてくる、最初はその迫力に圧倒されたんだけど、試合を見ていくうちに
何か「やらせ」のような雰囲気が感じられてしかたがない。わざと自分から相手の動
きにあわせて動いているんだ、正直いってしらけた。最後のメインイベントは最悪
だった、あの有名なジャイアント馬場選手の登場だ。ジャイアント馬場のテーマソン
グが大音量で体育館に流れる中ガウンをつけたままファンの間をかき分けリングに登
場した。「ウォーッ」という叫び声でファンの酔いしれる姿が異様に見えた。「あ
あ、ここではジャイアント馬場という一人の人間が神様なんだな」、なんてエホバの
証人的な考え方で冷静に分析している自分も異様だ。ガウンを脱いだジャイアント馬
場を見て驚いた、ガリガリのあばら骨を露呈したおじいさん、巨大でよぼよぼの老人
がそこに立っている。試合が始まってもジャイアント馬場は動きに機敏さが少しも感
じられない、相手の選手がわざと馬場のほうに向かってゆき、空手チョップをもらっ
てい
る、そして最後の決め業「十六モンキック」だ、あれあれ、ジャイアント馬場が足を
振り上げたら相手の選手のほうがわざとその足に自分の顔をぶつけていったぞ、それ
で・・・・倒れた。「カンカンカーン、ノックアウト勝ち!」人生初のプロレス見学
がその日終わった。もうこれから先、プロレスを見に行くことはおそらくないだろう
・・・。

自分は今までの人生の中で「プロレス」に関して少なくても三回自分にとっての「答
え」を出してきた。一つはエホバの証人時代、「プロレスはやってもいけないし見て
もいけないんだ」という答え。二つ目はプロレスに行かないかと誘われたときに出し
た答え、つまり「プロレスを見に行くくらいならかまわない、つまり見てもよい」と
いうそのとき出した結論。三つ目はその試合を見に行った後に出した自分の答え「プ
ロレスはもう見に行くことはないだろう」と思い、出した答え。この三つの答えの中
で「正しい答え」はいったいどれなんだろう?、いや、どれもその一つ一つがその時
出した「正しい答え」なんだ。自分にとって「正しい答え」だと思っていたものが変
化してゆく、変更されてゆく、自分にとって正しい答えとは普遍的なもの絶対的なも
のではないんだね。プロレスなんていうどうでもいい答えなんて何回変わったとして
も関係ないんだけれど人生の中で人(自分も含めて)はさまざまな答えを出しながら
生活し暮らしている。どんな職業に就くだろうか、どんな人を友達として受け入れて
いこうか、どんなことに関心を持つのだろうかとか、人は衣食住の中でさまざまな
「正しいと思える答え」を出しながら暮らしていくのだろうと思う・・・。人生の中
で究極の
自分にとって大切な正しい答えとは何だろう、究極の一番重い、出すことの困難な
「正しい答え」ってなんだろう。それは自分にとっての「人生の意義」「人生の目的
とは何か」
という問い掛けに「正しい答え」を見いだすことなのかもしれない・・・。

「人生の目的について考えたことはありませんか?」あの頃はよくこんな大そうな問
い掛けを野外奉仕で偉そうに見ず知らずの人にしていたな。人生の目的や人生の意義
なんて本気で考えてみたり、答えを真剣に知りたいなんて思ったのは情けないことに
エホバの証人をやめてからなんだ。そう、あの頃は自分自身で人生の意義とか目的を
考える必要すらなかったんだからね。あの中では自分自身の出す「正しい答え」を出
してはいけなかったし、考えてみることもいけなかったんだ。組織が提出する「人生
の意義」「人生の目的」の答え、その答えのどこがいったい正しい答えだったのだろ
う、組織が次々と成員の前に提出する「正しい答え」その答えが「正しい」とする根
拠がいったいどこにあったのだろう?組織の提出する答えがいかに根拠のないものな
のか、それは組織を第三者的に組織を離れて初めて気づくことが出来た、理解でき
た、そう組織の出す「正しい答え」がいかにいい加減なものだったのかという「正し
い答え」を自分は今理解し提出する。

「聖書の原則を当てはめてみると・・・・」 組織はこの言葉が大好きだ。「聖書
の原則を当てはめてみれば」この言葉の裏には実は「聖書の原則から推測または推論
していくと」という意味があるんだ。推測や推論から導き出された答えがいつも「正
しい答え」を出すことなんて不可能なんだ。その推測や推論が「正しい答え」だとす
るときにそれはどんな場合にもそれを証明するための「事実や証拠、裏づけ」が必要
になってくる。いやそれだけではない、その推論や推測とはまるっきり逆の「反証」
も必要な場合もある。「すべてのカラスの羽は黒い」と推論したとするときにそれが
正しい答えだと証明するためには世界中の鳥類図鑑を調べるだろうし、インターネッ
トでもカラスに関して検索したりする、実際に自分で世界中のカラスを観察するため
に旅行する場合もある。黒いカラスだけの事実をかき集めてみても意味がない、それ
だけではなく「では白いカラスは存在しないのか」という反証にさらされる必要もあ
る。
組織はそうした厳しい「事実や証拠、裏づけ、反証」そうしたものは自分たちの出す
答えには必要ないんだと説明する。それは自分たちには「神からの聖霊の導き」とい
う特別な力が働いているからだと。しかし自分たちの聖書の理解には聖霊の導きとい
う力が働いている、実はこれも自分たちの「推論」に過ぎない。「統治体」なんて言
葉は聖書の中にひとつも出ていないし、統治体の前身であった「小さな聖書研究グ
ループ」が忠実で思慮深い奴隷で霊的食物を与えるにふさわしいグループでイエスが
1914年に来てそのグループを承認したなんていう「推測」をしている。ではそんな推
測から出た答えは「正しい答え」だったのだろうか。当時エジプトのピラミッドが
「神の証」であると「推論」してその長さを計算し当時の「終わりの年」を人々に振
れ
まわっていた人々がイエスから本当に当時霊的食物を配る資格があるとみなされた
だろうか。そしてそれは今でも同じ、「世代」の予言をやはり自分たちの独自の推論
で「正しい答え」としておきながら、都合が悪くなってくると実は白いカラスも存在
していたんだ」というように、勝手に組織がいつも非難している「キリスト教世界」
からの
「聖書辞典」や「カトリック大百科事典」などの引用を根拠に平気で自分たちが今ま
で述べてきた答えをひっくり返すんだ。組織が成員の前に提出してくる「正しい答
え」は推論から導き出されるゆえにいつも変えられていく、だからそれは決して「真
理」
だとはいえない、真理は正しい答えであり、その答えは「普遍的」変えられることと
のない
「絶対的」なものだからだ。

では組織が提出する答えの中で「正しい答え」は存在しないのか、いや、その逆だ。
組織の出版物の中には私たちが生活してゆく上で役立ちそうな「正しい答え」を沢山
見つけることが出来る。しかし出版物を読むときに「正しい答え」だと思えるものが
沢山あればあるほどその沢山の正しい答えの中から「間違った答え」を見つけづらく
するという「からくり」を見破らなければいけないんだ。毎月発行されている「目ざ
めよ!」の中にはいろいろな話題がテーマとして取り上げられている。まさに「目ざ
めよ!」は一つの「百科事典」と言ってもいいだろう、糖尿病に関する詳しい解説、
世界中の珍しい動物や草花、宇宙科学、歴史的遺産や建造物の紹介などなど、最新号
の「目ざめよ!」誌には自動車のタイヤの仕組みやタイヤの整備のチェックリストな
んてことまで取り上げられている。まさに読者にとってこれだけの情報を与えてくれ
ている「組織」はまさに「物知り博士」であって、最近のはやり言葉で表現するなら
ば「うんちく王」に匹敵する。ではそんな「信頼できそうな」「尊敬されそうな」物
知り博士から教えられる100の情報の中で1つだけ意図的にこっそりと「間違った
答え」を入れ教え込まされたとき、その間違った答えに読者が気が付くだろうか、い
ろいろなテーマが取り上げられる中で、ある今月号に特集記事として「インターネッ
ト」のことが取り上げられるとしたなら読者はその「隠された組織の意図」に気付く
ことが出来るだろうか。組織が毎回毎回成員に教えてくれる数々の「道徳的価値観」
正直さ、誠実さ、そんないつも「正しい答え」を与えてくれている崇高な組織が自分
たちに不誠実な答えや偽り、マインドコントロールなどするだろうか、「間違った答
え」には気付きにくいのです。「永遠の命に導く知識」の本P47ページ9節には次のよ
うに書かれています。

○9 そのような知識は,わたしたちの崇拝を汚染から保護するものとなります。使徒
パウロは,「光の使い」のふりをしている,ある霊の被造物につ         
いて述べています。(コリント第二 11:14)この霊の被造物―サタン―は自らをその
ように装って,わたしたちを惑わし,神のご意志に反することを行なわせようとして
います。また,サタンと交わっている,ほかの霊の被造物も人々の行なっている崇拝
を汚してきました。パウロが述べているように,「諸国民が犠牲としてささげるもの
は,悪霊に犠牲としてささげるのであって,神にささげるのではない」からです。
(コリント第一 10:20)神が望んでおられることを行なっていないのに,正しい方法
で崇拝を行なっていると思い込んでいる人は少なくないようです。そういう人々は惑
わされて,汚れた偽りの崇拝へと導かれてきました。サタンと悪霊たちについてはあ
とでさらに詳しく学びますが,これら神の敵たちは,確かに,人間が行なう崇拝を汚
してきました。

○10 あなたは,いつも使う水にだれかが故意に毒を入れたことを知ったとしたら,
その水を飲み続けるでしょうか。あなたは不純物のない安全な水の供給源を見つける
ため直ちに行動するに違いありません。神の言葉に関する正確な知識があれば,真の
宗教を見分けることができ,崇拝を神に受け入れられないものにしてしまう不純物を
退けることができるようになります。

「たくさんの「正しい答え」を私たちはいつもあなたの前に提示します。だから安心
してそのコップの中の水を飲んでくださいね、毒なんか間違っても入っているはずは
ないでしょ、」沢山の聖書の道徳的価値観を教え、沢山の正しい答えとなる情報を目
ざめよ誌の中で取り上げ、まさに「光の使い」のふりをする組織に出来るだけ多くの
組織の中にいる成員が気付いてくれたらいいな、と私はいつも思いながら村本さんの
JWICに投稿しています。私は組織の中にいる人たちに「正しい答え」を見つけてほし
いのです。

「正しい答え」を出すこと、これは本当に難しいものです。冒頭で書いたようにそれ
はいつも「不変ではない」からです。自分にとっての正しい答えはその時々の自分の
頭の中に入ってくる情報によっていつも変化してしまいます。もしその出した「正し
い答え」がずっと変わることのないものであればそれは限りなく「真理」に近い「正
しい答え」となるはずです。出来るだけ真理に近い正しい答えを出すためには何が大
切なのでしょうか。それはその答えを出すにあたっての自分の頭の中に入ってくる
「情報」が出来るだけ「変化しない情報からなる材料」でその答えを組み立てること
なのだと思います。いくつかの材料を考えてみると・・・。その材料の一つとは「過
去の事実」に目を向けてみること、過去の事実は決して変化しないし、変化させるこ
とも出来ません。たとえば最近でいえば「組織が国連のNGO団体になっていた」とい
う過去の事実はもう決してだれも変えることは出来ないのです。変化しない情報のも
う一つ
の材料、それは今起きている「現実または実状」です。ブッシュ大統領がイラクの戦
争は正しい戦争だと言い続けたとしても、今実際にイラクという国で起きている現
実、実状を国民が目の当たりにするときこの戦争が本当に正しいものなのかどうか、
各個人が「正しい答え」を得ることが出来ます。変化しない情報の中で一番大切なも
の、それは「過去の自分の経験や感情、あるいは現在経験している事柄、現在抱いて
いる正直な感情」なのかもしれません。人間は過去の人生経験を変えることは出来ま
せんし、その経験を消し去ることなど不可能なものです。それと同じように現在経験
している事柄、それに対する自分の心の中の正直な感情はそれを誰も変えたり無視す
ることは出来ないのです。辛いと感じているのに楽しいと感じることは出来ません。

ものみの塔94年5月15日号号「若い皆さん、あなたは誰の教えを心に留めますか」
P19には次のように書かれています。
○正しい選択をしなさい

20 わたしたちは,若い皆さんに勧めます。エホバに仕えることによって正しい選択
をしてください。そして,ひるむことなくその決定に付き従ってください。(ヨシュ
ア 24:15)実際のところ,選択は二つに一つしかありません。イエスは,広くて大き
い道―自分の好きなことをするという楽な道―があると言われました。その道は行き
止まりになっています。つまり,滅びに至るのです。もう一つの道は狭い道です。そ
れは,みだらな生き方をする,悪霊に支配されたこの世に汚されないように歩む困難
な道です。しかし,この道を歩む人たちは,やがては神のすばらしい新しい世に入り
ます。(マタイ 7:13,14)あなたはどちらの道を行きますか。だれの教えを心に留
めますか。

21 エホバはその選択をあなたに任せておられます。強制的にご自分に仕えさせよう
とはされません。神の預言者モーセは,『あなたの前に命と死を置いた』と言い,
『命を選びなさい』と勧めました。この選択は,「あなたの神エホバを愛し,その声
に聴き従い,これに堅く付く」ことによって行なえます。(申命記 29:2; 30:19,
20)是非,神の教えを心に留めて神の栄えある新しい世での終わりのない命を楽し
む,という賢明な選択をしてください。

二者択一、組織は白か黒どちらかを選択するよう迫ります。組織の勧めている道、そ
れはどんな道だと教えますか。学校卒業後「開拓奉仕」の道を選びエホバに仕えなさ
い、実際には神にではなく組織のために組織の拡大と出版物の配布のために仕えるよ
う教えます。開拓者になることによって奉仕から多くの喜びが得られるといいます。
出版物には長年開拓奉仕を捕らえてきた年長の開拓者夫婦の経験がたびたび載せら
れ、自分たちがこの道を選んだことが成功だったと振り返る経験談がお決まりのよう
に最後の文面を締めくくっています。しかしこれは将来に対する1つの予測、推論を
あなたの思いの中に置くことだけだということに気付いてほしいと思います。将来あ
なたが開拓奉仕を捕らえたとしても、それが確実に喜びの奉仕になるかどうか保障す
るものは一つもないということです。この道は将来の永遠の命、楽園の道につながる
と組織は約束しますが、それも1つの推測、または推論から出た答えの1つなので
す。事実この約束を信じて今まで多くの若者が過去この道を選び、最終的にはその約
束は実現されず年老いて死んでいっているのです。では先ほどの「変化しない情報か
らの材料」で自分が組織の勧める道を選ぶかどうか「正しい答え」を得るよう答えを
組み立ててみるのはどうでしょうか。組織が今まで成員に言ってきた行ってきた「過
去の事実」に注目してみてください。いまさらここで取り上げるまでもありません。
組織が過去に行ってきた事実は「偽り」に満ちているのではありませんか。数々の自
分たちの推測、推論による予言の失敗、変更は何回行われてきたのでしょうか。まる
で「天気予報」の予報が外れたときの言い訳のように「それは不完全だからしかたが
ないよ」とさらっと言い逃れてきたのではないでしょうか。そして何よりも最悪なの
はいままで組織がそれらの「過去の事実」を中にいる成員に隠そう隠そうとしてきた
事実です。ではそんな組織の勧める道を「正しい答え」正しい選択だと信用できます
か。

あなたの会衆、巡回区の中の成員の「現実、現状」を冷静に観察することです。あな
たの周りでかつては開拓者として、あるいは長老や奉仕の僕として働いていたことの
ある人はいますか。では、その人は現在喜びを抱いて奉仕を続けていますか。集会で
の様子はどうですか。開拓者だったときと同じように生き生きとしていますか、長老
だったときと同じように会衆内の人たちから引き続き敬意と指導力を発揮できている
でしょうか。それとは正反対にあなたの会衆にはかつては健康で活発だった兄弟姉妹
が今は年老いて、会衆内でも寂しそうに過ごしている様子は見られませんか。最新号
のものみの塔5月15日号の二つの研究記事「高齢者、クリスチャン仲間の貴重な成
員」と「高齢者の世話、クリスチャンの責務」という二つの記事を冷静な眼で読んで
みてください。そこには相変わらずの高齢者に対するお決まりの励ましの美辞麗句が
並べられているだけではないでしょうか。「エホバはあなたの今までの組織の拡大の
ために尽くされてきた忠実さを忘れたりはなさいません」とか「会衆内でそうした高
齢者のために各個人が何が出来るか考えましょう」と述べています。しかし、忘れて
はならないのは「各個人」がまたは「エホバ」がその働きを忘れられたりはしないと
いうことではなく、「組織」がそれら高齢者に対して今までのその働きと忠実を忘れ
たりはしていないということを示すための具体的な対策を何一つ述べていないという
ことです。会衆内にいる高齢者が不安、孤独感を抱いていることに対して組織は会衆
内の奉仕会の実演などで時々用いてあげることが出来ます。あるいは会衆内で積極的
に話しかけたりすることはそうした孤独や不安を和らげてあげることが出来るだろう
と述べています。ブルックリンのべテルで「終身」生活が保障されている高齢者たち
には末端の会衆内で生活している高齢者の本当の不安、孤独感、そうした実情をどこ
までその身になって理解してあげることが出来ているのでしょうか。若いときを組織
の拡大のために費やしてしまった人たちは今現実に生活してゆく上での経済的な蓄え
などほとんどしてこなかったのが実情なのではないでしょうか、経済上の不安だけで
はありません。自分の身体が年々弱くなり、ゆくゆくは寝たきりになってしまうよう
な場合、はたして会衆はあるいは組織は自分の介護そうしたことをどこまで世話をし
てくれるのだろう、そうした不安を抱いているのです。ときどき奉仕会で実演の特権
をもらったり、かつての開拓者時代の経験や思い出を聞いてもらったりするぐらいで
はそうした不安や孤独感はいつになっても解決しません。「楽園が来るので貯金など
する心配は必要ない、保険にかかる必要もない、子供を生むことさえも楽園になって
からならいつでも生むことが出来る、だから今は王国宣教の業に心置きなく携わりな
さい」、そう勧めてきたのは組織だったのではないでしょうか。その言葉に対する
「責任」を組織は何一つ取ろうとしてきませんでした。組織が「機能主義」つまり一
般の会社のように各個人を機械の中の働く部品の1つのようにみなしている以上、リ
ストラまたは自主退社した成員に人生の最後まで組織としての対策や責任を取るつも
りは毛頭眼中にないというのが「現実」そして「実情」です。組織の中に本当の貧し
い人たちに対する、立場の弱い人たちに対するイエスキリストの示した「キリスト教
精神」はみじんのかけらも見出すことは出来ないのです。

さて、あなたの過去の自分の経験や感情、あるいは現在経験している事柄、現在抱い
ている正直な感情を「鏡に映して」みてください。そこには何が見えてきますか、喜
びあふれた自分ですか、それともそこには「二人の自分」エホバの証人としての自分
と本来の人間としての自然体としての自分の姿が見えてきませんか。自分の本当の姿
を素直に見つけることかいかに難しいことなのか、組織は自分の本当の姿や感情とい
うものを自分で自分をごまかすように巧みに仕組んでいるので私自身組織の中にいる
ときこのことは非常に難しいことでした。ぜひここの村本さんのJWICの中で取り上げ
られているエホバの証人の中に見られる精神状態、あるいは精神疾患について取り上
げられている情報に接してください。あなたにぴったりと当てはまることはありませ
んか。あるいはここのホームページの中のいくつかの投稿が、あなたの今の感情と
そっくりな様子が重なり合うということはありませんか。自分の本当の姿を理解する
うえで私の場合は一冊の本スティーヴン・ハッサン氏の「マインドコントロールの恐
怖」という本が非常に役に立ちました。この本は統一教会で熱心に組織のために働い
ていた元信者が自分の体験を下に書き綴られたものです。たくさんのこうした組織が
出す出版物以外の本などの情報は自分の中の本当の心を理解し本当の望んでいる姿と
いうものをはっきりと映しだしてくれるのに助けになるに違いありません。そして自
分の本当の姿や感情から「正しい答え」を見出すときそこに後悔というものはないは
ずです。

私が自分のメールアドレスを公開していることで現役の証人から「あなたはエホバの
証人を辞めてから、組織が出す「人生の目的」に代わる「人生の目的」の答えを見出
せないでいるのではありませんか。」とメールが届きました。確かにそうなのかもし
れません。人生を歩んでいく上で私はいろいろな「正しい答え」となる質問を自分に
投げかけてきました。そしてエホバの証人を辞めた直後の自分の中の正しい答えと数
年後の正しい答え、そして現在の自分にとっての正しい答えはいつもコロコロ代わっ
ています。そして人生の中での究極の質問「人生の目的とは何か」これに対する正し
い答えもコロコロ変わっています。つまり、現役時代、組織が提出した人生の目的の
答えに代わる人生の目的の答えを見出しているのですがその正しいと思える答えは自
分の中でいつも変化しているということです。そしておそらくこれから先も変化する
と思います。そして、もし仮にいつか自分が人生の中で決して変化することのない
「人生の目的」に対する正しい答えを見出すことが出来たとしたら、それは自分が
「神様」のような存在になるときのことだと思います。だから人間は自分の人生の中
で「正しい答え」と思えるもので絶対変化しないもの、つまりそこに「絶対的な存
在」としての「神」を必要としてきたのではないのかと思います。私はエホバの証人
を辞めたとしても「宗教はもうこりごり」という立場の人間ではありません。組織さ
れた、組織に縛られたマニュアル宗教はもうこりごりですが「宗教、神を信仰する」
そのものは人間の中でごく自然なものなのだと思っています。エホバの証人を辞めた
後、私の周囲にはほとんど神というものを信じている人は一人もいません。(創価を
学会の人が一人いますが)しかし、無宗教な人は神に代わる絶対的な存在たとえばお
金、財産そうした価値の変わらないものを神として必死に追いかけている姿が私には
観察できます。しかし、それらの人たちは自分たちの「人生の目的」だと思ってお金
や財産を求めているのではなく多くの人が現在と将来に対する「不安」それが動機と
なっています。エホバの証人を辞めてそうした周囲の人々を観察して私は「人生の目
的とは何か」これに対する答えはやはり人間の中の「精神的な部分」が大切になって
くるのではないかと思います。だから私は今でも「神」という存在は否定していませ
ん。いつかそうした「精神的な部分」がやがて再び自分の中で「人生の目的」となる
答えに重要な要素として関係してくることになると思っています。メールを下さった
方も「人生の目的は何か?」なんて、もしエホバの証人にならなかったなら一度も人
生の中で考えずにあっという間に人生を駆け抜けてしまったことでしょう。私の場合
も、もしエホバの証人として育てられなかったなら一生「人生の目的」なんて崇高な
テーマを考えることなどなかったと思います。そういう意味で私は自分がエホバの証
人として過ごした時間は決して無駄ではなかったと思っています。

「正しい答え」それは自分の中でいつも変化しています。そしてそれは同時に周囲の
他の人が下した「正しい答え」も絶えずころころ変化しているのです。大切なのはそ
れぞれの人たちが下した正しい答え一つ一つを互いに「尊重」しあうことではないで
しょうか。私の答えは正しくてあなたの答えは間違っている、そういう傾向が一番い
けないことなのだと思います。組織はそうした傾向を自分たちが示しているのみなら
ず、そうした傾向を末端の成員にまで押し付けているということです。「他の人を裁
く」この傾向はエホバの証人の特徴です。エホバの証人を辞めてまもなく会社の同僚
からプロレスに誘われてプロレス会場に着いたとき、私はまだこの「他の人を裁く」
という傾向が抜け切れていませんでした。プロレスを見に来るファンの服装や髪型、
言葉遣い、そうした夢中になっているその人たちのことをどこか軽蔑したり裁いたり
していました。自分の答えだけが正しいのだと思っていたのです。でも今は違いま
す。大相撲では高見盛が大好きで朝青龍が大嫌いです。いつか高見盛が横綱になれる
ことをファンの一人としていつも応援する一人です。プロレスは今でもやらせぽくて
あまり関心ありませんが「K-1」格闘技は興味がありボブサップが大好きです。そし
て必ずテレビでビデオ録画を予約しておきます。私の中の「正しい答え」はいまでも
更新中です。

pfreedom@nifty.com

《編集者より》
人間を含めた全ての生ある物は、必ず変わりそして死ぬ、これは自然界の「変わらぬ」摂理です。これは東洋の仏教やヒンズー教に共通の根本的な見方ですが、キリスト教、ユダヤ教の根本的な見方はこれと正反対の「絶対に不変の神」、「永遠に死なない命」、「進化しない生物」という、現実の自然を否定するものでした。私は仏教徒ではありませんが、今、「諸行無常」という言葉がいかに自然の現実を的確に捉えているかを、しみじみと感じています。人間は生まれ、育ち、成熟し、老化し、最後に死にます。これは連続的な変化の過程です。それに伴い人の嗜好、価値観、世界観、信仰なども変化するのは自然の成り行きです。もっと長い目で見れば、人間という生物種も、人間の作る社会も、連続的な変化をとげ、進化してきました。これも自然の成り行きです。一世紀当時に最も大事であり、最も正しいと考えられた判断は、二十一世紀に通用しないのも当然です。その意味で、私はフリーダムさんがおっしゃるように、時と場所とによって変化する人間の判断や見方は当然のことであり、恥じることでもなければ批判されるべきものでもないと思います。

私は「真理」自体も「進化」すると思っています。エホバの証人社会の「真理」を見ても、1914年を見た世代の預言や、輸血拒否の教義が年を追って変化したように、外の「この世」の動きに応じて、「真理」もまた変わってきました。その意味では、私は聖書に明確には書かれていない「三位一体」が、キリスト教の中核となる教義となったのも、聖書が書かれた時代以後のキリスト教の教義の「進化」の一つであったろうと思っています。それでは現実はこのように「諸行無常」であるはずなのに、なぜ不変であることが良いとされ、変化するものは疑いの目で見られるのでしょうか。私は、この見方は東洋的な観点から出てきたものではなく、絶対不変の唯一の神を信じる、絶対的な一神教の伝統の中で生まれた価値観なのだと見ています。つまり最も偉大であり、最も崇拝される存在が不変であるのであれば、めまぐるしく変化するものは価値の無いもの、信じることや判断基準が変わる人間は「神」と縁のない人、という見方がどうしても人の心の中に築き上げられるのではないでしょうか。いずれにしても、これはエホバの証人のような、伝統的絶対的一神教の思想に最も強く影響された宗教で最も著しい現象であり、信者の柔軟性のない硬直した見方と行動の原動力になり、多くの宗教問題の根源にもなっているのだと私は思っています。なぜならこのような非現実的な恒常性志向は、現実の自然な人間の姿を否定するものであり、その軋轢が多くの問題として噴出してくるからです。