「わたしにとってわからなかったこと-その二」−ラハムより

(4-21-04)

わたしにとってわからなかったこと-その二-ラハムより

先月は、わたしが組織に交わっていた頃、疑問に感じていたことを
いくつか書き連ねてみた。一度では書ききれなかったことを
再度書き出してみたのが今月の投稿である。

以前の投稿で「エホバの証人と性の問題」として性に関しての考察を
書いてみたので、今回のもそれに該当するかもしれないが、
罪として感じさせてわたしたちの人間としての存在を卑しめることについて
述べたところが、異なる点だと思う。

今回ふれたことは、兄弟のあいだでも、たとえ個人的にも
話し合ったことはなく、心に秘めてきたことだ。
年若い二世の研究生でこれらについての疑問を持ちかけてきた人もいたが、
わたしは自分の立場を守るために、あいまいな返事をしてきたので、
その彼に対する返事の意味も含まれている。

彼は不幸にして交通事故で亡くなったと聞いているので
彼に読んでもらうことはできないが、これを読んでくださる、現役、
非現役の方にはそのように柔軟に考えていた者のいたことを知って欲しい。


最初の人であるアダムが罪を犯したのでその結果として、わたしたちにまで罪が
及び、
キリストが血を流して贖う必要が生じたということは、聖書にはっきりと
記されているのでキリスト者であれば否定のしようがないと思う。
これはこれで純粋にキリスト教という宗教の教義だろう。

わたしにとって不思議だったことは、出版物で人間は不完全で、受け継いだ罪の
ゆえに
罪人であり、間違いを避けることはできないと、呪文のごとく教えられているの
に
自分自身の内側に、罪人だという意識や、感覚を感じられなかったことだ。

わたしも聖書を真理だとして受け入れてきたので、直接聖書に述べられているこ
とを
否定したいわけではないが、組織の言うように人間というものが罪人で
アダムの原罪を背負い込んでいるのがほんとうであれば、そうした感覚や感じを
現在に至るまで持ち続けているのではないだろうかと思ってきた。

でも、自分が誤りや失敗を犯すことが多々あっても、罪の意識や感覚を
感じ取ることはなかった。これは現在でも同じだ。
こう述べたからといっても聖書の教えを否定したいというわけでもない。

その罪の意識を感じない理由は、自分が日本という非キリスト教の国で成長し
て、
根本の土台にキリスト教がなかったためであろうか。
要するに背景がキリスト教国とぜんぜん違っているということだと考えた。

また、わたしたちがエホバの証人になってから自分が悪いことをしたと
感じさせられるのは聖書の原則に触れたというよりは組織が出版物で
はっきりと、あるいは暗に聖書的に罪だと判断したことについてだった。

先回の投書でも書いたことだが、学級委員になること、宝くじを買うこと、
投票に参加すること、誕生日を祝うことなど際限がないほどたくさんあった。
現在でもほとんどこれらの聖書解釈は有効とされている。
それらは他の人に目撃されてしまうので、発覚すれば長老たちからの
助言の対象となって、いやな気分を味わうことになる。

レイモンド・フランズ兄弟の書いた“良心の危機”でも取り上げられているが、
夫婦が寝室でおこなう性的なたわむれにまで聖書的だとされる制限が
課されたときもあった。
また、独身者、特に男子を大いに苦悶させるのがマスターベーションの
禁止だろうと思う。女子よりも男子のほうが苦しいそうである。

わたしが研究を始めた十代後半の頃、イエスが言われた「女を見続けて
情欲を抱くものは姦淫を犯したことになる」とか「霊と肉の汚れから
清めて…」というパウロの言葉を読んで、自分なりにこれらは
マスターベーションにも当てはまると考えて避けるよう努力したが、
これはとてもつらすぎることだった。

そうして研究を続けているうちに出版物にもマスターベーションを
禁じていることがあるのを知った。
わたしも純粋だったから必死になってこの聖書解釈を守ろうとしたが、
苦しすぎてどうしても守ることができなかった。
バプテスマを受けて兄弟になっても同じだった。それをおこなったときは、
エホバに罪を犯したと思い、惨めさに浸って自分を責めた。

自分を責める理由として、組織は出版物でそれを克服した人の例を
たくさん載せているので、克服できない自分は信仰が弱くて
モーセのごとく神を目の前においたような行動ができないと考え、
無理矢理にでも罪の意識を感じるようにさせられたと思う。

しかし、わたしはあるときからこう考えるようになった。
もし、マスターベーションというものがほんとうに神から見て
悪いことであるのなら、聖書に直接、禁じる聖句がないのはどうしてか?

ある時には死ぬほど辛い思いをして克服の努力をしている
自分がどうしてその行為を避けることができないのか。
神の組織が述べている助言を必死に守ろうとしているのに
どうして神は助けてくれないのか、などなどである。

聖書は日本語訳でも2000ページ近くあるので、たかだかマスターベーションのこ
とに
ひとことぐらいふれることができないはずはない。だから、述べられていないこ
とは
神から見てどうでもいいことだったのだろうと考え始めた。

それから、体から排出される体液や便についても考察した。どの排出物でも
溜まれば自然にか人為的にか必要に応じて流れ出るようになっている。
わたしは組織の出版物でマスターベーションについて述べているものを
たくさん読んだが、そのひとつに精液は体に溜まれば夢精という形で
自然に排泄され、溜まったからといって体に害はないというものがあった。

害はないかもしれないが、これは自然なことだろうか。
よく考えてみれば、大便も排尿もあるところまで自制しコントロールできる。
排尿については夜中眠っている間にもらしてしまうこともあるわけだが、
だからといって眠る前にトイレに行かないであろうか。
だれも、自然に出るものはそれにまかせればよいなどとは考えない。

女性だって神による自然の摂理というべきだが、毎月の生理の時不要になった
血液が排泄されてくる。人為的な処置を講じなければ、止めることはできない。

体から出るべきものは、せきやくしゃみ、鼻水、汗だってある。
他にもあるがどれも、必要だから出てくるのだ。

このような考察を通して、聖書的原則と称しマスターベーションを禁止するのは
非常に不自然で自然の摂理に反していると考えるようになった。
男女ともに手の長さもそこに届くようになっている。
聖書が述べるように、こうしたように創造されたのは神なのだから。

そのような考察の結果、直接聖書と自分の良心に反しなければ、
他の人、特に仲間に知られなければよいと考えるようになった。

わたしが献身したのは神に対してであり、仲間でもなく
ものみの塔でもないのだから神が直接悪いと言うのでなければ、
人間のこしらえたつまらない規則で自分を苦しめることをやめたら、
ほんとうに気が楽になった。もし見つかって責任を追及されるのなら、
聖書の根拠を強く要求するつもりだった。神に献身したのに、どうして
人間性の解釈による規則で自分を縛って苦しめる必要があるだろうか。おかしい
!

そこで不思議に思ったのは、どうしてそのような不自然な規則、
まったく個人的なことまで無理矢理抑制させようとするのだろうか、
ということだった。
それはきっと、性的に不能な人間がひがんでこしらえた規則だろうと、推測し
た。
こうして考えてくると、罪でもないものを罪と感じさせ、
規則を守りきれない人間を、自分たちよりも低めて支配しようとしたのだろう。

さらに、わたしにとってもっともわからなかったことのひとつは、
自分はなぜ幸福ではないのだろうかというものだった。
いや、幸福感に乏しいというべきか。なぜむなしさ、空虚感があるのか。

日常生活において収入面で満たされ、霊的には奉仕の僕であり、
聖書や出版物もすべて読むことができ、
公開講演、奉仕会、神権宣教学校、群の書籍研究の司会の割り当て
適度な伝道活動、こうした活動に十分参加できているのに、
どことなく空虚で満たされない感覚があるのが不思議だった。
なぜそのようであるのかわからなかった。

聖書そのものも出版物もエホバの民であれば世界一幸福であり、幸いだと
述べられているのに、なぜ自分にはそうした感覚がほとんどないのか。
自分の信仰に欠陥があり、弱いからだとも考えた。はたしてそうなのか。

わたしの人生において自分が行き詰るのは、わたしが霊的でないからだ、
と言ってわたしを責めた仲間もいた。わたしは霊的でないとなぜ行き詰るのかと
彼に説明を求めたが、彼は答えずにわたしを悪魔の考えを持っていると言った。

エホバの証人の立場から考えれば、聖書の登場人物である
モーセ、ダビデ、ヨブなどはきわめて霊的な人々だったであろう。
でも、モーセは一度の失敗で約束の地にはいれなかった。
ダビデは殺人・姦淫・盗み・人口調査をおこなった。
ヨブはサタンの攻撃で妻以外の所有を失い、死ぬほど健康を害した。

彼らはきわめて霊的な人物であるはずなのに失敗をし、失意に沈んで
行き詰まらなかったと主張できるだろうか。
だのに、霊的でないから行き詰まると言えるのだろうか。
わたしを責めた仲間はこのような疑問にも答えなかった。

あるいは、結婚できないから幸福ではないと言う仲間もいた。
これもおかしいとわたしは感じた。
組織で結婚できている人は大勢いる。わたしはその男女を観察して
どのように考えても見ても、幸福そうに感じられなかったのが多かったからだ。

わたしにとって幸福そうに見える人々は、たとえ未信者の配偶者がいても
愛されていることを感じている、感じ取ることができている人々だった。
集会で見られる多くの表情は、うなだれ、疲れきっている印象があった。
口元は笑みがあるようだが、目は疲労しているように見えた。
何かを訴えたそうで押し黙っているようにも見えた。
これが聖書的に世界一幸福なはずの民なのか?

こうして振り返ってみると、組織から離れた現在のわたしのほうが
精神的に安定しており、空虚感も少なくなった。
やはり、聖書にこじつけて自分の心に無理を強いてきたということかもしれな
い。

組織を離れてもわからないことはまだまだあるので引き続き書いてみたい。

ご意見ご感想などいただければうれしく思います。
kenbouoh@ybb.ne.jp  です。よろしくお願いします。

先月は、わたしが組織に交わっていた頃、疑問に感じていたことを
いくつか書き連ねてみた。一度では書ききれなかったことを
再度書き出してみたのが今月の投稿である。

以前の投稿で「エホバの証人と性の問題」として性に関しての考察を
書いてみたので、今回のもそれに該当するかもしれないが、
罪として感じさせてわたしたちの人間としての存在を卑しめることについて
述べたところが、異なる点だと思う。

今回ふれたことは、兄弟のあいだでも、たとえ個人的にも
話し合ったことはなく、心に秘めてきたことだ。
年若い二世の研究生でこれらについての疑問を持ちかけてきた人もいたが、
わたしは自分の立場を守るために、あいまいな返事をしてきたので、
その彼に対する返事の意味も含まれている。

彼は不幸にして交通事故で亡くなったと聞いているので
彼に読んでもらうことはできないが、これを読んでくださる、現役、
非現役の方にはそのように柔軟に考えていた者のいたことを知って欲しい。


最初の人であるアダムが罪を犯したのでその結果として、わたしたちにまで罪が及び、
キリストが血を流して贖う必要が生じたということは、聖書にはっきりと
記されているのでキリスト者であれば否定のしようがないと思う。
これはこれで純粋にキリスト教という宗教の教義だろう。

わたしにとって不思議だったことは、出版物で人間は不完全で、受け継いだ罪のゆえに
罪人であり、間違いを避けることはできないと、呪文のごとく教えられているのに
自分自身の内側に、罪人だという意識や、感覚を感じられなかったことだ。

わたしも聖書を真理だとして受け入れてきたので、直接聖書に述べられていることを
否定したいわけではないが、組織の言うように人間というものが罪人で
アダムの原罪を背負い込んでいるのがほんとうであれば、そうした感覚や感じを
現在に至るまで持ち続けているのではないだろうかと思ってきた。

でも、自分が誤りや失敗を犯すことが多々あっても、罪の意識や感覚を
感じ取ることはなかった。これは現在でも同じだ。
こう述べたからといっても聖書の教えを否定したいというわけでもない。

その罪の意識を感じない理由は、自分が日本という非キリスト教の国で成長して、
根本の土台にキリスト教がなかったためであろうか。
要するに背景がキリスト教国とぜんぜん違っているということだと考えた。

また、わたしたちがエホバの証人になってから自分が悪いことをしたと
感じさせられるのは聖書の原則に触れたというよりは組織が出版物で
はっきりと、あるいは暗に聖書的に罪だと判断したことについてだった。

先回の投書でも書いたことだが、学級委員になること、宝くじを買うこと、
投票に参加すること、誕生日を祝うことなど際限がないほどたくさんあった。
現在でもほとんどこれらの聖書解釈は有効とされている。
それらは他の人に目撃されてしまうので、発覚すれば長老たちからの
助言の対象となって、いやな気分を味わうことになる。

レイモンド・フランズ兄弟の書いた“良心の危機”でも取り上げられているが、
夫婦が寝室でおこなう性的なたわむれにまで聖書的だとされる制限が
課されたときもあった。
また、独身者、特に男子を大いに苦悶させるのがマスターベーションの
禁止だろうと思う。女子よりも男子のほうが苦しいそうである。

わたしが研究を始めた十代後半の頃、イエスが言われた「女を見続けて
情欲を抱くものは姦淫を犯したことになる」とか「霊と肉の汚れから
清めて…」というパウロの言葉を読んで、自分なりにこれらは
マスターベーションにも当てはまると考えて避けるよう努力したが、
これはとてもつらすぎることだった。

そうして研究を続けているうちに出版物にもマスターベーションを
禁じていることがあるのを知った。
わたしも純粋だったから必死になってこの聖書解釈を守ろうとしたが、
苦しすぎてどうしても守ることができなかった。
バプテスマを受けて兄弟になっても同じだった。それをおこなったときは、
エホバに罪を犯したと思い、惨めさに浸って自分を責めた。

自分を責める理由として、組織は出版物でそれを克服した人の例を
たくさん載せているので、克服できない自分は信仰が弱くて
モーセのごとく神を目の前においたような行動ができないと考え、
無理矢理にでも罪の意識を感じるようにさせられたと思う。

しかし、わたしはあるときからこう考えるようになった。
もし、マスターベーションというものがほんとうに神から見て
悪いことであるのなら、聖書に直接、禁じる聖句がないのはどうしてか?

ある時には死ぬほど辛い思いをして克服の努力をしている
自分がどうしてその行為を避けることができないのか。
神の組織が述べている助言を必死に守ろうとしているのに
どうして神は助けてくれないのか、などなどである。

聖書は日本語訳でも2000ページ近くあるので、たかだかマスターベーションのことに
ひとことぐらいふれることができないはずはない。だから、述べられていないことは
神から見てどうでもいいことだったのだろうと考え始めた。

それから、体から排出される体液や便についても考察した。どの排出物でも
溜まれば自然にか人為的にか必要に応じて流れ出るようになっている。
わたしは組織の出版物でマスターベーションについて述べているものを
たくさん読んだが、そのひとつに精液は体に溜まれば夢精という形で
自然に排泄され、溜まったからといって体に害はないというものがあった。

害はないかもしれないが、これは自然なことだろうか。
よく考えてみれば、大便も排尿もあるところまで自制しコントロールできる。
排尿については夜中眠っている間にもらしてしまうこともあるわけだが、
だからといって眠る前にトイレに行かないであろうか。
だれも、自然に出るものはそれにまかせればよいなどとは考えない。

女性だって神による自然の摂理というべきだが、毎月の生理の時不要になった
血液が排泄されてくる。人為的な処置を講じなければ、止めることはできない。

体から出るべきものは、せきやくしゃみ、鼻水、汗だってある。
他にもあるがどれも、必要だから出てくるのだ。

このような考察を通して、聖書的原則と称しマスターベーションを禁止するのは
非常に不自然で自然の摂理に反していると考えるようになった。
男女ともに手の長さもそこに届くようになっている。
聖書が述べるように、こうしたように創造されたのは神なのだから。

そのような考察の結果、直接聖書と自分の良心に反しなければ、
他の人、特に仲間に知られなければよいと考えるようになった。

わたしが献身したのは神に対してであり、仲間でもなく
ものみの塔でもないのだから神が直接悪いと言うのでなければ、
人間のこしらえたつまらない規則で自分を苦しめることをやめたら、
ほんとうに気が楽になった。もし見つかって責任を追及されるのなら、
聖書の根拠を強く要求するつもりだった。神に献身したのに、どうして
人間性の解釈による規則で自分を縛って苦しめる必要があるだろうか。おかしい!

そこで不思議に思ったのは、どうしてそのような不自然な規則、
まったく個人的なことまで無理矢理抑制させようとするのだろうか、ということだった。
それはきっと、性的に不能な人間がひがんでこしらえた規則だろうと、推測した。
こうして考えてくると、罪でもないものを罪と感じさせ、
規則を守りきれない人間を、自分たちよりも低めて支配しようとしたのだろう。

さらに、わたしにとってもっともわからなかったことのひとつは、
自分はなぜ幸福ではないのだろうかというものだった。
いや、幸福感に乏しいというべきか。なぜむなしさ、空虚感があるのか。

日常生活において収入面で満たされ、霊的には奉仕の僕であり、
聖書や出版物もすべて読むことができ、
公開講演、奉仕会、神権宣教学校、群の書籍研究の司会の割り当て
適度な伝道活動、こうした活動に十分参加できているのに、
どことなく空虚で満たされない感覚があるのが不思議だった。
なぜそのようであるのかわからなかった。

聖書そのものも出版物もエホバの民であれば世界一幸福であり、幸いだと
述べられているのに、なぜ自分にはそうした感覚がほとんどないのか。
自分の信仰に欠陥があり、弱いからだとも考えた。はたしてそうなのか。

わたしの人生において自分が行き詰るのは、わたしが霊的でないからだ、
と言ってわたしを責めた仲間もいた。わたしは霊的でないとなぜ行き詰るのかと
彼に説明を求めたが、彼は答えずにわたしを悪魔の考えを持っていると言った。

エホバの証人の立場から考えれば、聖書の登場人物である
モーセ、ダビデ、ヨブなどはきわめて霊的な人々だったであろう。
でも、モーセは一度の失敗で約束の地にはいれなかった。
ダビデは殺人・姦淫・盗み・人口調査をおこなった。
ヨブはサタンの攻撃で妻以外の所有を失い、死ぬほど健康を害した。

彼らはきわめて霊的な人物であるはずなのに失敗をし、失意に沈んで
行き詰まらなかったと主張できるだろうか。
だのに、霊的でないから行き詰まると言えるのだろうか。
わたしを責めた仲間はこのような疑問にも答えなかった。

あるいは、結婚できないから幸福ではないと言う仲間もいた。
これもおかしいとわたしは感じた。
組織で結婚できている人は大勢いる。わたしはその男女を観察して
どのように考えても見ても、幸福そうに感じられなかったのが多かったからだ。

わたしにとって幸福そうに見える人々は、たとえ未信者の配偶者がいても
愛されていることを感じている、感じ取ることができている人々だった。
集会で見られる多くの表情は、うなだれ、疲れきっている印象があった。
口元は笑みがあるようだが、目は疲労しているように見えた。
何かを訴えたそうで押し黙っているようにも見えた。
これが聖書的に世界一幸福なはずの民なのか?

こうして振り返ってみると、組織から離れた現在のわたしのほうが
精神的に安定しており、空虚感も少なくなった。
やはり、聖書にこじつけて自分の心に無理を強いてきたということかもしれない。

組織を離れてもわからないことはまだまだあるので引き続き書いてみたい。

ご意見ご感想などいただければうれしく思います。
kenbouoh@ybb.ne.jp  です。よろしくお願いします。

《編集者より》
毎回斬新な視点から、様々な問題提起をしていただきありがとうございます。まず、戒律と罪の問題ですが、これらの多くは、宗教が形成した時代とその場所の伝統やタブーが反映されていると思います。血の例がその典型だと思います。時代と場所が異なれば、そのようなタブーが全く不自然で無理な戒律であるのは当然であると思います。あなたも指摘していられるように、昔の多くの宗教的戒律は、人間の生理的な現象に関係しています。それらは「欲」、仏教では「煩悩」などとされ、克服されなければならないものとされました。しかし、人間が知恵を増すにつれ、それらの生理的現象は人間の健康にとって必要なものであることがわかってきました。一生を童貞や処女で通すことを戒律としている宗教もまだありますが、現代ではそれが全く不健康であるばかりか、社会全体としても有害にしか働かないことがわかり、多くの宗教では僧職者でも立派に妻帯しています。

あなたが取り上げたマスターベーションは、聖書にはっきり書かれていないのに、なぜものみの塔協会がこれを禁じたのか、あなたも色々推察していますが、私もわかりません。ただ、個人的な生活に介入するものみの塔宗教の無数の戒律を見れば、その姿勢から理解できるのではないでしょうか。つまり、それは戒律や禁則(タブー)を出来るだけ沢山つくり、それを達成させることに信者の時間とエネルギーを費やさせることにより、常に地上の楽園の目標に向かって自分は努力しているという幻想を与えることだと私は思います。ものみの塔宗教が最も嫌うのは、「信じることで直に救われる」という多くのキリスト教や、仏教などの教義です。このような教義では、一見余りにも達成が容易に見えるために、組織の権威が不要になります。ものみの塔にとって望ましいのは、努力を要する難しい目標を沢山信者に与えれて、決してゴールが達成しない、無限のマラソンを走らせることなのです。そして、このものみの塔宗教の本質が、あなたに決して幸福感を与えず、何かいつも空虚で物足りない気持ちを与えた理由なのではないでしょうか。心理学の実験では、ボタンを押すと必ず餌がもらえる装置に入ったねずみは、自分のペースに合わせてボタンを押して、必要な餌を食べる分だけボタンを押します。しかし、装置のプログラムを変えて、ボタンを押しても餌が出たり出なかったり、ねずみにとって全く予想がつかず、何時になったら空腹がいやされるかわからないようにしますと、ねずみは装置の奴隷になったように、餌が出ても出なくても、ただひたすらボタンを押し続けるだけになります。私はこのねずみの姿が、組織の教義に没入しているエホバの証人の姿と二重写しになって見えます。所で、このねずみの行動は、人間のどのような行動のモデルとして使われていると思いますか。これは人間のギャンブルに対する嗜癖のモデルなのです。人がギャンブルに耽るのに特別に大きな儲けは必要ありません。少しでも儲かりそうだという希望があり、時々少しのお金が出てくるだけで、ある人々はひたすら(スロットマシーンの)ボタンを押し続けるのです。ものみの塔協会は、このような人間の心理を知っているのかどうか私は知りませんが、見事にこのメカニズムを使って信者を奴隷化していると思います。