「信仰心への認識の変化」−pendulumより

(4-6-04)

こんにちは。pendulumです。村本さんの著書の内容に非常に興味を抱きましたので、エホバの証
人とは直接関係しない話題かとも思いましたが、今回は、JW2世の私が宗教や神についてどのよ
うに自分の考えを変化させていったかを振り返って書かせていただきたいと思います。

私はエホバの証人を辞めたあと、宗教や神について、やはり堂々巡りの疑問を持ち続けていまし
た。今思い返せば、そこにはエホバの証人特有の考え方にまだ影響されていたがゆえのところも
あったとは思いますが、それだけでなく、自分の生き方や価値観を模索する過程での、自分なり
の真剣な探求の動機もあったのだと思います。

はじめは、書物としての新約聖書について、史的イエスについて、歴史としてのキリスト教につ
いて、それぞれ調べていき、これらが個別に検討される必要があるものと気づくようになりまし
た。特に様式史研究と呼ばれるアプローチに触れてからは、エホバの証人の聖書観、歴史観、終
末観、キリスト観などは到底採りえなくなりました。これらに触れた後、自分の中でキリスト教
の問題はひと段落を迎え、少なくともエホバの証人の教理からは心理的にもほぼ完全に自由にさ
れました。

その後、私が特に関心を持って調べたのは、心理(意思決定論、マインド・コントロール)、精神医
学(精神分析学、精神病理学)、科学史、哲学の分野になっていきました。大学で生物進化について
も学ぶようになり、中でも中立説の木村資生、「進化的に安定な戦略(ESS)」を唱えたメイナード
=スミスなどの学者による本は私自身に大いに役立ちました。特に進化ゲームを学んだあたりから
は、それが一つのモデルであるとはいえ、自分の抱えていた色々な問題意識に対して示唆的なヒン
トが得られたと感じました。


進化と言えば、協会の進化論批判を思い出します。協会の進化論批判にまるで価値が無い理由は、
悪質な引用や自然選択説をはじめとした学説への根本的な誤解・曲解もその一つですが、より根本
的な論法の誤りとして、村本さんも指摘しておられるように、進化の<事実認識の問題>と、進化
の<メカニズム理解の問題>の混同に原因があると思います。協会の論法は、喩えるならば、福音
書の成立過程に関して学者間で意見の相違があるからと言って「意見が一致していないからそもそ
も福音書が書かれたかもアヤシイ」というようなもので、学者たちがどう考えているかなどとは全
く関係無しに、そもそもの論法の立て方として根本的に誤ってしまっています。学者たちは、積み
上げられた多くの観察や検証の証拠などから、その事実性は十分認めたうえでさらにそれをメカニ
ズムとしてどう説明できるかを議論しているのであって、その際、ある学者が別の学説を批判した
からと言って、さもそれが事実自体をも疑える根拠であるかのように引用してみせる手法は、控え
めに言っても不誠実と言われなければならないでしょう。学者の主張を捻じ曲げて別物に仕立て上
げ、それを攻撃や利用の材料にしているその姿は、学者にとって、もはやまともに相手にするだけ
の価値を見出せない、少なくともそうするだけの誠実な意欲を失わせる内容になってしまっている
と思います。知っている人が単なる読み物として『生命』の本を読もうとすれば、かなり始めの段
階でそれ以上読む意欲が湧かなくなってしまうのでしょう。私がこの本に触れたのは小学生のとき
の書籍研究ででしたから、残った印象は「進化論は中間の生き物がいないからどうもダメらしい」
という大変いい加減なものでした。それでも印象として確立されますから、教育の重要性を身を以
って認識させられました。

協会の進化論批判はかなりいい加減なものですが、そうする協会の意図が私には分かりません。た
だ、もしかしたら協会は、事実と仮説(モデル)の区別という根本的な認識が本当にできていないの
かもしれません。私がそう考える理由は、エホバの証人や原理主義的キリスト教徒が、「進化論は
科学の問題、創造論は宗教の問題」ということを理解できずにいるからです。彼らにとってはその
ように言われることは我慢のならないことでしょう。それは「創造論だって事実の問題だ」と考え
ているからですし、口の達者な人であれば、「進化論だって事実でない」などと主張するでしょう。
そして、これこそが協会が「進化論の学説の対立」を一生懸命にあげつらう原因ではないでしょう
か。

もちろん進化「論」はそのまま事実ではありません。学説は事実を説明するためのモデル、理論で
す。「進化論が事実」なのではなく、「進化論は生物進化という事実を問題にした仮説理論」であ
ることを理解すれば、協会のような論法を取ることはないでしょう。このような、進化の<事実認
識の問題>と、進化の<メカニズム理解の問題>の混同が、議論をとんでもない方向へと導いてい
ってしまっている要因なのではないかと考えます。


話を私の問題に戻します。結局私は、人間の生物学的基盤を無視しては人間の営みである信仰など
も考えることはできないと思うようになっていきました。また、それとは別に、精神医学や哲学な
どの人間の内側を探求する考え方からも影響を受けました。その結果、人間の信仰心というものに
ついて、人間学的な観点から考えるようになりました。その中で私が特に注目するようになった概
念が「内なる神」についてでした。こうした経験から「神」や信仰というものへの考えがだいぶ変
化していきました。ですから、その後、村本さんがJWICのFAQで、宗教について「人間の脳に深くプ
ログラムされた一つの行動パターン」と仰っているのを見たとき、非常に印象深く感じたのを覚え
ています。その言葉の背後に、素人の私などには窺い知れないような医学者・脳神経学者ならではの
多くの意味と含蓄が込められているように感じたからです。神について考えることは確かに形而上
学的問題です。しかし、「神そのもの」を問題にするのではなく、人間が「神」を意識し信仰する
その精神活動自体を科学的に探求することには十分意味があると考えます。進化の過程で獲得され、
現在に至るまでヒトに根強くこの営みが保存されてきたその事実は、形而上の問題ではなく事実の
問題として検討できるからです。

神について言えば、私は今でも神についての観念を持っています。ですから無神論者では全くあり
ません。しかし、外界にその存在物が実在するかのように「神」を考えたり、そこから神や世界の
問題を考えるような大風呂敷を広げた見方をすることはもはやありません。もっと言ってしまえば
<創造主>の次元で語るような神の観念も色褪せています。今の私にとって神とは、私に人生をプ
レゼントし、私の人生を通して私に何かを期待し問いかけるような存在として意味づけられていま
す。私の信仰は私と神だけの間の問題であり、その信仰は他者に「証明」したり、体系化したり、
教義化したりする類のものではありません。従って、「人生は生きるに値するか」とか「人間は何
のために生きているのか」というような一般的抽象的な問いを発することは私の中では終わりまし
た。誤った形式の問いからは誤った答えしか期待できないと考えています。一般的抽象的に、いつ
如何なる場合にも当てはまるような意味で「人間はこう生きるべき」という「答え」が与えられれ
ばラクではあるでしょう。そして、そうした「答え」を求める人が少なくないことも事実です。し
かしそれは、「いつでも絶対儲かる金儲けの方法」とか、「いつでも絶対勝てるチェスの指し手」
を探し求めるようなものだと思います。「自分が」商売に成功するためには、そのとき置かれた自
分の具体的な状況の中で考えなければ意味が無いはずですし、チェスに勝つためには、やはりその
とき置かれた具体的な局面の中でどう指すかを考えなければ意味が無いと思います。人生について
も私は同様に考えています。自分の人生と言う具体的な状況の中で人生から差し向けられる「問い」
に対して今の自分はどう答えるか、という意味において初めて「何のために生きているのか」という
問いは価値を持ってくると思うのです。そんな私にとって、エホバの証人の教理は、「絶対勝てる
人生の方法」を言っているように見えてしまうのです。ただし、信者一人一人の信仰に尊いものが
あることもまた事実です。

先ほど、神について私は「外界にその存在物が実在するかのように『神』を考えたり、そこから神
や世界の問題を考えるような大風呂敷を広げた見方をすることはもはやありません。」と述べまし
た。エホバの証人的な思考パターンの持ち主にとって、このような意見は、無神論者と変わらない
もののように感じられるかもしれません。しかし、そうではありません。私は、神とは実体論的な
<存在>の問題ではなく、信仰者との<関係性>の問題だという確信を抱いています。それはちょ
うど、愛の問題が実体論的な問題ではなく、関係性の問題であることと似ています。愛は間違いな
く観念しえますし、その意味では存在するとの表現も可能です。しかし、愛したり愛されたりする
主体の存在を全く無視して愛そのものだけを抽出して考えようとすることはほとんど意味がないと
私は思います。その点は神についても同じように考えるようになりました。ある人が次のように述
べた神の概念が、今の私が考えるものと非常に近いものとなっています。「神は、あなたにとって
一番親しい、独り言の相手である。あなたが自分自身に向かってこれ以上ない誠実さで語りかけ、
本当の孤独の中で語りかける時にはいつも、実はその相手になっている人、その人のことを神と呼
ぶのだ。」

エホバの証人時代と比べて変わったと自分で思うのは、体系や教理といったスタティックな信仰の
スタイルから、人格的に関わり、生き方として無言のうちに現れてくるようなダイナミックな信仰
のあり方に自分の考え方が変わっていったことだと思います。その結果、宗教についても「最後は
個人に帰着する問題であり、その人と神との問題である」という強い信念のようなものを抱くに至
っています。ですから、現在はどこかの宗教組織に属しているわけでもありませんし、特定の宗教
を信じているとも言えません。現役のJWだったころは、宗教について言うと「すべての人はJWでな
ければならない」と考えていました。JWを辞めようと決意した直後は、「すべての人はJWであって
はならない」と考えていました。今では、「JWがあってもよい。ただ、いくつかの問題については
考えてもらいたい」という認識に落ち着いています。辞めようとした直後の私の状態は、言ってみ
ればまだJWの傾向を引きずっていて、それが裏返っただけだったと言えるかもしれません。それが
変われたことが素直に嬉しいです。

自分で振り返ると、こうした変化を通して、性格的にも少し穏やかになったと思います。現役の頃
は義務的で「〜すべき」という言葉をよく使っていました。どこか皮肉っぽいところがあり、自分
でも冷たいところがあると感じながら、それがどうしてかは分かりませんでした(その原因をJWの所
為にするつもりはありません。現役でも暖かい人格を示せる多くの友人を私は知っています)。以前
の自分を思い返して反省したいところがたくさん思い浮かびます。そして、また少し時が経てば今
の自分を反省したくなるのかもしれません。ただ、私の中では信仰や宗教の問題はどこかひと段落
した感があります。その意味で、私は"pendulum"ではもはやなくなりました。

今回このような投書をさせていただいた理由は、宗教や信仰について私が抱くようになった考え方
と、村本さんの著書との間に(学識や思考の水準には違いがありこそすれ)幾ばくかの関連がもし
かしたらあるのかもしれないとの私の勝手な期待が喚起されたからでした。本当は全くの勘違いか
もしれません。それはそれで別に良いのですが、その点は、『神の神経学』を読ませていただき、
是非確かめたいと思っています。私の関心のある分野であることには変わりないからです。

神経科学といういわば人間のハードウェアを専門に研究してこられた村本さんが、ユングや西田幾
多郎などの人間のソフトウェアの領域の研究者たちの考えをどうお考えになるのか関心があります。
また、哲学者のなかでもショーペンハウエルに言及しておられるようで、そこが私にとってはいさ
さか意外でもあり興味を惹かれます。特に第三部は全体的に楽しみです。

『神の神経学』のHPを見たとき、私が以前個人的に興味を持って読んだ本を思い出しました。信仰
体験への神経学的アプローチをとった神経学者による本です。
『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』(Andrew, Md. Newberg 2002)
(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569626858/qid%3D1081091992/250-2354407-2907436)
原題は"Why God Won't Go Away: Brain Science and the Biology of Belief"です。本当にそれと
関連があるのかそうでないかは分かりませんが、いずれにしましても入手できるのを今から楽しみ
にしております。

長くなりました。失礼します。

《編集者より》
「神の神経学」を読んでいただければ分かりますが、pendulumさんの宗教観と私の宗教観には非常に近いものがあると思います。私は無神論者でも唯物論者でもなく、科学が全てを説明して解決するとも思っていませんが、エホバの証人問題を含めて現代の世界に蔓延する宗教の悲劇に対処するには、宗教の科学的な分析、特に医学的、神経学的な解明がどうしても必要であると思っています。このアプローチはまだ日本には知られていませんので、この本を出版する意味を感じたわけです。英語圏ではこのアプローチは、神経学の主流からはまだ受け入れられていませんが、徐々に必要性が認識されて来ました。宗教が理由となっている悲劇がますます世界中で増えている中で、心ある人々がこのような研究の必要性を認識しだしたからです。あなたも紹介しているNewbergの本は、このようなアプローチに重要な貢献をしていると思います。(この本が日本で翻訳されていることは知りませんでした。)