「全体を見ることが出来ない巡回監督」

(3-30-04)


御返事有難うございます。

なぜなら、監督が会衆を半年に一度訪問する組織の取りきめにおいて、会衆の成員たちは
心得たもので、常日ごろとは打って変わった方法を取るからです。

それは奉仕において、いつもだと「だらだら」した奉仕で、よく角で固まって「噂話」や
他の雑談めいた話しに時間を取られ、その様にして奉仕時間が終わっていくのですが、訪
問中となると人がガラッと変わった様になり、熱心な奉仕者として振る舞うのです。

また、王国会館では、いつもだと活気の無い打ち沈んだ状態ですが、訪問中となると、何
かと監督に寄っていって(得に姉妹達)にこやかに話し掛けたり、成員同士も同じように
振る舞いをしています。

その様な姿を見て、これが「自分の会衆」?と疑いたくなるのです。

表裏をうまく使い、絶対自分達の悪いところを訪問中は見せない。

そして監督のお気に入りになるために再訪問を増やし、研究生をつくり、一緒に奉仕を監
督と楽しみ、食事招待を積極的に行い、そういった兄弟、姉妹たちは、良い奉仕者として
監督の目に映りますから、それらの人達が話した事柄は、監督にとって信用ある言葉とし
て受けとめられます。

またそういった人達の家で訪問中の一週間、「ただ」で泊まり、「ただ」で食事提供を受
けるわけですから、「それは、違う」とは言えない弱さがあると思います。

そして会衆の兄弟、また姉妹達の中には茶封筒に万札を入れて監督に渡すこともあり、こ
ういった「もてなし」を受けた監督は、知らず知らずのうちに、正しい識別力を失い、結
果的に正しい判断力から反れていくことになったのです。

しかし、「泣き寝入り」をしつづける訳にはいきません。

私は、その後組織の言う事柄や、会衆の様子をしばらく静に見ることにしながら、自分な
りに調べることに取り掛かりました。

(それは、村本様のサイトにたどりつくまでの少しの期間がありました。)


《編集者より》
これは「「異常な組織」−続き」のお返事です。エホバの証人が裏と表のある二重人格の生活をしており、表面の見かけを第一にして、会衆から離れた所では第二の生活をしていることは何度もこの場で紹介して来ました。彼らは、神が人の心の中を見抜くこと(ルカ16:15)が分からないようで、長老や巡回監督にどう見られるかが、エホバにどう見られるかと同等であると錯覚しているようです。そしてこの問題は決して、個人個人の性格の問題ではなく、エホバの証人の組織の根底にある宗教観に基づいています。つまりものみの塔の教えは、信仰は個人個人が内側から培って育て上げるものではなく、エホバに選ばれた一握りの人間たち、すなわちものみの塔の組織の指導者が、外側から「霊的な食物」として信者に与えるものであるからです。外から来るものは外から見えなければならず、しかも一つの出所から来る「真理」は一つでなければなりませんから、論理の帰結として「外側で一致」しなければならないのです。しかし、人間は本来様々な個性を持ち、様々な年齢や社会的な環境にいるわけですから、それを「一致」させるとどうしても無理が出てくるのです。そこで大部分のエホバの証人は「外側で一致」していても、内側では二重生活をせざるを得ないのです。この現象は、エホバの証人の宗教の本質から出てくる問題であると私は把握しています。


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