「わたしにとってわからなかったこと−その一」−ラハムより

(3-23-04)


わたしにとってわからなかったこと−その一-ラハムより

最近、とある大きな書店に入ってユダヤ人関係の書籍を眺めていたら、見覚えのある
少女の白黒写真が表紙にあるのに目が留まった。どこかで見たような気がするなあと
思いながら、ぱらぱらと本をめくって最後に、その少女の現在の写真があり、
奥付などを読んでみると、やはり雑誌に掲載されたことのある姉妹の写真で、
少女時代の写真は2003・3・1号のものみの塔 9ページにあるものと同じだった。

この本は「ライオンに立ち向かって」というのが日本語タイトルで、
そのタイトルの上に「ナチ占領下で良心に従って生きた少女の記録」という
ことばもつけられていたので直感的にエホバの証人の本だと感じた。
なぜなら、エホバの証人は迫害されたときの表現で「ライオン」という
ことばを、ダニエル書から連想して好んで使うからだ。

この本は“FACING THE LION Memoirs of a Young Girl in Nazi Europe”という
英語タイトルがある。日本語版はドイツ語から翻訳されたことがあとがきに
記されており、著者は“シモーヌ・A・リープスター”という
現役で忠実なエホバの証人の姉妹である。そして、巻頭の謝辞のところには
統治体の成員であったロイド・バリー、ジョン・E・バーが本に書くことを
熱心に勧めたことが記されており、ブルックリンの協会にある保存資料からも協力を
得たことが述べられているので、エホバの証人公認の商業ルートの本だと思う。

組織を離れて、協会の出版物をほとんど読まなくなったわたしが
この本に興味を持ったのは、子どものときの記憶というものに関心があるからだ。
わたしは成人してからエホバの証人になったので、子どものころに
組織の主張する聖書の原則を守ろうとして、周囲の子どもから嫌がらせを受けたり、
大人から圧力を受けたことはないが、別の面でいじめや、大人からの
圧迫を受け大いに苦しんだので、それを書き記したら、原稿用紙で300枚を超えた。
形は違えど圧迫や圧力を受けたもの同士の共通点を知りたかったのである。
またどのようにして精神的にも生き延びることができたのかをも…。

しかしながらこれを購入しようとしたとき、組織を離れたわたしがこれを読むことに
よって、逆戻りさせられることになりはしないかという懸念も持った。
まあそのときはそのときで考えることにし、とりあえず読むことにした。
日本語訳で忠実なエホバの証人に関する本が発行されるのは極めてまれだと思っ
たからだ。

さて、日本語でエホバの証人の年鑑が発行されたのは1975年版が最初であり、
これには、第二次世界大戦当時のドイツでエホバの証人が受けた
迫害の記録が掲載され、わたしも夢中になって読んだ覚えがある。
そこには、リープスターが述べるように、幼い子どもたちが学校から
放校処分を受けたり、親から引き離されたことが記録されていたと思う。

そのような処置がなされたのは、ドイツ国旗に敬礼しないとか、
“ハイル・ヒトラー”などと、周囲の子どもたちといっしょに叫ばないという
理由だったと思うが、ほかにもあったかもしれない。
現在でも、学校生活で学級委員-今はクラス委員であろうか-を選ぶ選挙に参加しないとか、
校歌や国家を歌わないということが、聖書の原則にかなっているとされ、
その子どもが良心的に参加できないことだとされている。

聖書を学び始めたわたしは、ドイツの兄弟たちがとった行動は、聖書そのものの
原則にかなっていると思い込み夢中になって年鑑を読んだ。
でも、組織にいる時間が長くなり、聖書そのものを読み始めると、
組織が出版物で主張する聖書の原則はどこのどの聖句に基づいており、
それはいったい聖書のどこに書かれているのかと考え始めるようになった。

“ハイル・ヒトラー”と叫ぶときの-ハイル-ということばの意味は正確にわからないが、
万歳であるとか賛美だとか聞いている。国旗に対する敬礼は偶像崇拝だと言われている。
これの掲揚の参加については出版物は多くのことを述べている。

もし、ものみの塔の主張を聞かないで、聖書から直接これらの考えを示すように
求められたら、おそらく不可能であろう。直接は何も書かれていないのだから。
学齢期の子どものいる姉妹に学級委員を選ぶ選挙になぜ参加しないのかを
子どもに説明できるかどうかを質問してみたら、彼女は正直に自分もなぜそうなのか
わからないと述べていた。彼女は子どもにどうするのかを任せているそうだ。
長老に聞いても、出版物に書いてあることしか言わず、答えは決まっているので
聞かないとも言っていた。賢いと思う。

要するに、出版物にそう述べられているだけで、聖書の根拠はないのである。
それは当然で、聖書時代に学級委員などはなかったはずだ。
偶像については聖書には多く述べられており、バアルやタゴン、ネブカドネザルの建てた
像などがある。これを知らないエホバの証人がいるだろうか。
聖書に忠実でありたいなら、偶像は崇拝するべきではないが、何を偶像というかは
かなり難しく、個人によって判断はかなり違うだろう。

何しろ聖書は人間の欲望までいきすぎると偶像だと教えている。
貪欲だとか性欲などとうてい物理的には見えないものまで含んでいるのである。
国旗は過去において国家の象徴であったので敬礼することは国家崇拝だと
聞かされてきたが、現在の日本でもそうした意味合いがあるのであろうか。

結局“良心に従って”とは主張するが、いったい誰の良心なのか、わからなかった。
これらを考えていたときはJWICのことは知らなかったが、うすうす、
出版物を書いた人の良心、最終的には統治体の人々の良心だと思っていた。

当時小学校3年生の女の子が、学級で席がえをするときにくじ引きで決めることに
参加しないというのを聞いたことがある。くじ引きが聖書に反していると言っていた。
親もいたこともあって、わたしはものみの塔の中で、商店が景品としてくれる
くじはもらっても良心状の問題だと認めていること、箴言の書では
くじによって得られる結果はエホバからだと述べていることや、イスカリオテの
ユダが死んでから後任の使徒がくじによって選ばれたことなど、
悪い例ばかりでないことを話してあげたら、彼女たちは驚いていたと思う。

結局、エホバの証人は聖書を研究して信じていると主張するが、
普段からの会話を通しても、組織による聖書解釈を信じているのであって、
聖書そのものですらまともに読んでいないと思う。
わたしが奉仕会のプログラムで、毎日の聖書通読や全巻を読んだという人の
インタビューを扱うときに、これに応えてくれる人はほとんどいず、
奉仕の僕クラスでもいなかったのが現状である。

リープスターの本は500ページ以上あるので、読み終わってから
感想は後日ゆっくり書いてみたい。しかし、当時彼女たちが書いたという
楽園の絵画がたくさん掲載されていることは興味深い。

わたしは、組織の聖書解釈をひとつ残らず否定しているわけではないが、
個人として聖書を読んで、組織の聖書解釈に無理がある、あるいは、
根拠がどこにあるのかと思うことが多くなっていった。

たとえば、楽園についてである。わたしとしては休日に人々が海や山に出かけること、
つい近年までは自然と調和して生きてきたことを考慮すると、楽園の状態で
生活するほうが自然だと思うし、大好きだった死んだ祖母にも会いたいので、
復活もあってほしいという気持ちが今でもある。

エホバの証人がヘブライ語聖書と呼んでいる旧約聖書には楽園の情景を
心に描かせ、その到来を思わせる記述がいっぱいあるが、おもしろいことに
クリスチャンギリシャ語聖書-新約聖書-にはそうした記述がほとんどないのは
いったいなぜだろうか。もし指摘できるとしたら、ルカ23:43や啓示21:3,4ぐらいだろう。
わたしには「楽園が来る」という直接的な聖句を読んだ記憶がないのである。

アダムが禁じられた木の実を食べなければ、彼は死なずに永遠に生きたはずだと
いう主張がある。しかしその創世記の記録を読んでみると、食べると死ぬということだけ
述べられており、食べなければ永遠に生きられて死なないという記述もない。
だから、逆に解釈したい気持ちは理解できるが、その解釈が
神の意図や目的に、かなっているかどうかはわからないと思った。

太陽の寿命は100億年とか言われ、現在は50億年ぐらいだとか聞いている。
これが真実であれば、人間はそれをはるかに飛び越えて永遠にいたるわけだから、
太陽の寿命が尽き果て、なくなってしまうことになってしまう。
太陽が地球を飲み込むほど膨張するかどうかは別にして、物理的には
エネルギーがなくなってしまうわけだから、人間はどうなるのかという
考えが浮かんできた。しかし、エホバ神の全能性を考えて心配するのをやめたが、
これもわたしにはわからなかった。

ギリシャ語聖書を読むと、イエス・キリストや弟子たちが多くの奇跡をおこない、
死んだ人を生き返らせ、病気の人をいとも簡単に治している。
こうしたことが現在でもあればいいのにとわたしは思う。
組織の解釈ではそのような奇跡はイエスによる王国支配が始まったときに
大規模な仕方でおこなわれる奇跡の証拠だということになっている。

それはそのように考えれば、そうとも主張できるが、その聖書的な根拠は
何ですかと問われれば、わたしは聖書からの答えがわからない。

わたしがなかなか奉仕の僕や長老になれないので、どのような努力をすれば
よいのかを、巡回監督や会衆の長老に聞きにいっても、あいまいな返事しかなく、
出版物には彼らに援助を求めるように述べられているのに、
理解不可能な助言をされる理由がわからなかった。
しかし、いまとなってみればわたしが彼らにとって、その矛盾した物事の
扱い方を指摘するので、都合の悪い存在だったからだと気がついた。

結局、聖霊による任命などと神がかり的なことを言うけれど、
彼らの指図に盲従し、お気に入りにならなければいけなかったということだ。

組織は1919年にキリストが地上の組織を検閲してものみの塔の役員が
ご自分にかなっているとして判断し、忠実で思慮深い奴隷の代表として
任命したとか主張していることはずっと聞かされてきた。そうかもしれない。
聖書によれば、モーセの時代もイエスの時代も誰もが認識できて
理解できるような出来事があり、彼らには天からの声が聞こえていた。
だから、彼ら自身にもまわりの人々にもはっきりわかったはずである。

しかしながら、それ以降は天からのしるしや神からの声がはっきり聞こえたことは
確かめられていないのではなかろうか。だのに、彼らは自分たちが神やキリストから
任命されたなどということがどうしてわかるのだろうか。
自分で勝手に思い込む以外にないのではなかろうか。

末端のエホバの証人は善良な人が多いと思う。
しかし、自分の体験もネットで公表されている情報も組織の上層部に行くほど、
不思議なぐらい、偽善が蔓延していることを証明していると思う。
聖書に示されている全能の神はそうした偽善的な上層部の人間が運営する
組織を用いなければ、ご自分の意志や目的を知らせることができなかったのだろうか。
聖書に示されている神の善良さを考慮するとこれはわたしにとって大きななぞだ。

なぞだったことはたくさんあるので、再び書いてみたいと思う。
振り返ってみるとなぞだらけのことのかくも深くはまっていたのかというのも
大きな疑問ではあるが、自分で自分の気持ちを押し殺し、
疑問を感じさせないようにしてきたのであろうと思う。

ご意見、ご感想などいただければうれしく思います。
kenbouoh@ybb.ne.jp までお願いいたします。

《編集者より》
「ライオンに立ち向かって」という本は、エホバの証人の第二次世界大戦中のドイツでの活動を賞賛する本として書かれ、エホバの証人の間で広く読まれているようですが、私は読んだことはありません。ただ、エホバの証人とヒットラー政権との関係については、ものみの塔協会の宣伝が余りに一方的で、ヒットラーとの裏取引があったことに沈黙を守っている以上、いかに「立ち向かった」と言っても、私には宣伝広告以上の意味は見出せません。あなたも指摘している通り、末端のエホバの証人はドイツでも苦しんで、永遠の命を信じて殺されたのかも知れませんが、当時から上層部は偽善と腐敗が横行していました。これは今も変わらないと思います。

永遠の命の希望ですが、これは私が何度も言ってきたことですが、一見理論上は素晴らしいことに見えるが、実際に人間が永遠に生きられるようになったら、そのこと自体が最大の災いとなって人類は滅びるでしょう。全てのいい事は「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのです。最高においしいご馳走でも、いつまでもたらふく食べ続ければ病気になるし、人間が生きて行く上に不可欠の水も余りに多くなれば洪水で人は死に絶えます。人生は確かに素晴らしいものですが、それが限りなく続いたら、人口過剰で住む所も仕事もなく、食べる物もなくなるでしょう。どんなにいい事でも、人生でもご馳走でも、「もうちょっと」という所で終わるから本当の素晴らしさがあるのです。

「生」が続くためには「死」が不可欠なのです。「死」は生物の世界で不可欠な重要な働きがあります。私の住むオレゴンの川には、太平洋から鮭が産卵にのぼってきますが、彼らは必死の思いで川を遡り、浅瀬で産卵をして死に絶えます。そしてその死体は幼魚たちの重要な栄養源となります。親魚の「死」は、幼魚たちの「生」にとって絶対に必要なことなのです。「生」と「死」は、生物の存在にとって不可欠な「抱き合わせの」二つの現象です。その抱き合わせの二つの現象から、「死」を取り除き「生」だけを永遠に続けようというのは、昔からある不老長寿の欲望の極端を行ったものであり、私はこれは物質欲にかられて現実を見失った妄想だと思っています。私は適当な時期が来たら、ご馳走を腹八分で終えて満足するように、「人生ご馳走様」と言って感謝して死を迎えたいと思っています。私たちが死に絶えて新しい世代が主役になること、それが私たちの子孫にとって私たちができる最大の贈り物なのです。


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