「堅苦しい格好をするのはなぜ?」を投書された方へ

(3-17-04)


私も同感です。

私がまだ「エホバの証人」で、ある夏の大会に出席した時にあった事を今でもよく覚
えています。もともと堅苦しい背広が嫌いな上に、とても暑かったので、ネクタイな
しでカジュアルな服装で出席しました。と言ってもスラックスに半袖のカラーのワイ
シャツ姿でしたから、十分まともな身なりだと思いました。会場でたまたま会衆の長
老に会った時です。「ネクタイは?」と嫌みったらしく聞かれました。何でこんな暑い
時にまでネクタイをしなければならないのかと思いました。

こういう事もありました。逆に冬のある寒い日に背広を着ないでスラックスとセー
ターを着て「書籍研究」のために「王国会館」へ行きました。(私が属していた「群れ」は「
王国会館」を「書籍研究」のために使っていました。)「群れ」で行っている「書籍研究」に
は必ずしも背広を着て行く必要はないだろうと思ったからです。でも研究の司会者で
あった別の長老に「風邪でも引いたの?」と聞かれました。まるで「ちゃんと背広を着
て来なければダメでしょ!」と言わんばかりに。個人の家で「書籍研究」をする時も背広
を着ているのでしょうか?もしそうならバカじゃないでしょうか?

古代イスラエル人もイエス・キリストもネクタイなんかしていなかったはずです。そ
の証拠に「ものみの塔」や「目ざめよ!」の中でネクタイを着用したイエス・キリスト
なんか見たことがありません。ネクタイは西洋人(イギリス人?)が考案したもので
す。エホバの民がどうしていついかなる場合でも西洋風の身なりをしなければならな
いのでしょうか?誰も疑問に思わないのでしょうか?思っていても排斥されるのを恐
れて何も言わないのでしょうか?

統治体によるとハルマゲドン後は言葉もヘブライ語(古代?)になるそうです。誰が
どう教えるのか分かりませんが。統治体に次のように言いたいです。それならいっそ
のこと服装も、「エホバの証人」たちが使っている歌の本に描かれている古代イスラ
エル人の様に、ヘブライ風にしたらいかがですか?ネクタイなんかしていません。お
まけにサンダルを履いています。イエス・キリストも似たような身なりをしていたに
違いありません。

服装の件もさることながら、統治体の教義とやり方に疑問を感じて「エホバの証人」
をやめた後、普通の教会に行ってみて驚きました。皆さん普段着でした。これが普通だ
と思いました。オフィスに働きに行くわけでもあるまいし、どうしてネクタイ着用で
背広なんか着なければならないのでしょうか?統治体の成員が全員白人(しかもアン
グロ・サクソン)であることからも分かるように、この組織の白人(WASP)至上
主義が見て取れます。

《編集者より》
これは、「堅苦しい格好をするのはなぜ?」に対する発言です。服装や髪型、その他の外見を統一するのは、人間の集団の行動をコントロールする道具として広く使われています。軍隊、警察、消防などでは、その集団に属する人々が他の人々と区別され一斉に行動するために、制服が使われます。学校でも制服の着用を義務付ける学校は、自由な服装を容認する学校に比べ、生徒に対する規律が厳しい傾向があります。宗教でも同じことが言えます。ある種の宗教は、信者や指導者が特殊な服装や装飾品を着けますが、そのような宗教では内と外とを厳密に区別し、戒律によって信者を厳しくコントロールする傾向があります。そのような背景を理解してエホバの証人の服装へのこだわりを考えると、納得できるのではないでしょうか。個人の個性に基づいた自由な信仰を尊重する宗教には、このような外見の規制はありませんが、上から下へと教えが伝えられ、信者が一斉にそれに従うことが重要なエホバの証人のような宗教では、やはり外見の統制が必要になるのです。もちろん、服装を規制する本当の理由が、信者集団の行動のコントロールにあることは、大部分の人は気が付いていませんし、組織もそんなことは認めたくありませんから、なんとか聖書にこじつけるわけですが、あなたも指摘しているように、そのこじつけは滑稽としか言い様がありません。この前の投書のコメントの所に引用した王国宣教の記事には、「世に見られる服装や身なりの規準がしだいに低下している」とありますが、一体何を基準として「低下している」のでしょうか。江戸時代の服装が今より上であり、一世紀当時のイスラエルの服装は更にそれより「上」なのでしょうか。そもそも一世紀当時のイスラエル人は、現代のズボンのようなものははいておらず、日本の着物に似た構造のものを着ていたと言われます。その点からすれば、ズボンをはく習慣は後で出てきた「服装や身なりの基準の低下」の代表ではないでしょうか。それなのに平気でズボンをはいて、一世紀当時の服装をせずに、「服装の基準が低下している」、などと言うのは、結局は自分たちが都合の良いものが「基準」であり、聖書の基準が問題ではないことを示していると言えるでしょう。


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