2004年2月「王国宣教」

(2-28-04)

2004年2月「王国宣教」1ページの集会への出席についての記事と、8ページの
「エホバが求めておられる事柄を行うことは可能」という記事に関連して

 週3日の集会出席の引き締めは逆効果だと思う。
 基本が的外れだし、非現実的。
 
  統治体が振りかざすヘブライ10:25の聖句は、週3日の集会を背景に(念頭
に)述べている言葉じゃない。
 
記念式は過ぎ越しと対応しているから「1年に1回行うのが正しい」と言っているの
に、集会は、安息日ごとの集まりに対応させて「週1回が正しい」とは言わないんだ
ね。

 でも、1世紀のクリスチャンは、律法の記憶がまだ色濃くあったから、きちんとし
た取り決めとしては安息日に対応して週1回だったと思うよ。任意の集まりはいろい
ろあったと思うけれどもね(律法下でも任意に神殿に行ってた人はいたからね)。

  ヘブライ10:25の背景はそういうものだったのに、やみくもに現行の週3日の
集会に適用するのはおかしい。
  まして週3日の集会を支持できない人を、古代に安息日を破った人と対応させるの
は問題外。週3回を支持できないことと、週1回を支持できないことは全然違うで
しょ。エホバはあくまでも週1回の安息日を支持できない場合に厳罰と言ってる。

 うまいたとえが見つからないが、高尾山について言っている言葉を、富士山に適用
させるようなもんかな(かなり無理のあるたとえだ)。
 高尾山なら重荷じゃない登山も、富士登山にすりかえて同じように「来い」という
のは変だろ。「エホバは今は富士登山をするように言っておられます」と言い訳して
も、「本当かいな」と思われるだけだよ。「はい、ごもっとも」と従うのは、聖書が
言っていることを知らないか、無視できる人だけ。

 ヘブライ10:25を根拠に、終わりの日が近いから週3日の取り決めは神のご意
志と言っているが、あれは、律法が廃止されたことと、霊的眠りのために、任意の集
まりはもちろん、週1日の集まりにも来ない人がふえてきたので、「集まり合うこと
をやめないように」とか、「終わりが近づいているから休まないでいよいよ励まし合
おうよ」と言っているのであって、取り決めをふやすという意味の話じゃない。1週
間ってアッと言う間にたつから、週一でも休む人が出るのは不思議なことではない。

 統治体やベテルって、世離れして自分たちの世界に浸ってて、その世界をエホバと
つなげて考えるから、見えてないことが多いように思う。そりゃ、世離れして安楽に
生きていける人にとっては、週3日の集会なんて楽なものだろうけど(それにしては
よく休むって聞く)、世で頑張っている人たちを締めつけるのは逆効果だっせ。統治
体離れを招くこと間違いないから、見ててごらん。

 奉仕会だって、シーンとしてた。みんなバカじゃないから、何だか変だと感じるん
だよ、きっと。長老や僕の一部や開拓者の一部が一生懸命盛り上げて、シラケタムー
ドを消去しようとしていたが、浮いててむなしかった。

 古代に安息日を守るよう口うるさく言っていたパリサイ人たちにイエスが言った言
葉があったね。マルコ2:27の「安息日は人のために存在するようになったのであ
り、人が安息日のために存在するようになったのではありません」という言葉。
 律法下での安息日といったら、明らかに神のご命令で、今の集会の取り決めどころ
の話じゃない。それでも、(本末転倒の)「本」は人で、安息日の取り決めは「末」
だった。
 本末転倒が「神の見方」とされれば、不当な重荷を課せられる人が出るし、神の怒
りも買う。

 「神の見方」を振りかざすなら、取り決め自体も厳密に聖書と調和していなければ
ならない。取り決めの根拠はピンぼけで、従うことだけ「神の見方」をふりかざすの
はおかしい。「集会は人のために存在するようになったのであり、人が集会のために
存在するようになったのではありません」から、週3日ともなると一層各人は自分で
判断して出欠を決めるべきだ。人間は機械じゃないから、一律に外から見て判断でき
るものではない。

 聖書的根拠が希薄な取り決めを決めておいて、「エホバが求めておられる事柄を行
うのは可能」と言い放つ神経はおかしい。おかしいとわからないのはもっとおかし
い。 「エホバが求めておられる事柄を行うのは可能」というのは真実だよ。聖書
的。でも、もしそれをエホバが「求めておられない」ことに適用して、支持できない
人を締めつけるなら言語道断。神の最も嫌うことで重罪。病人もふやす。

 こういうことを「神の名のもとに」行い続ければ、当然神の不興も深まっていくこ
とになる。組織に生活基盤を依存している人たちは、自分たちで自分の首を絞めてい
ることになるんだよ。

  人の苦しみがわからない人たちが人を苦しめるというのは真理。ベテルに入りっぱ
なしが悪いと思う。3年か5年交代で世に出て来て顔を洗い直したらどうかな。仕事
の引き継ぎは全部きちんと文書化しておけばいい。交代制で十分機能する部署は多い
と思う。

 ベテルにどっぷりつかる人たちがいるというのは、特権階級を作っているというこ
とにほかならない。イエス・キリストはそういう特権階級の「と」の字もつくらな
かった。みずから歩き、頭を横たえるところがなかったという、そういう模範を残し
た。そういう足跡には従わなくていいの。

 「終わりが近い」とか「世界中に宣べ伝えなければ」という理由でつくり出してき
たベテルだろうけれども、エホバは「(人の)軍勢によらず、力によらず」ご意志を
推進できる方なのだから、それにもっともっと信仰を持って、本当に聖書的なシステ
ムをとった方がいいと思う。そうしないと、エホバの不興は徐々に世界的にあらわに
なるよ。

 どっぷりつかっているうちに、知らず知らず、自分たちの気持ちしかわからない、
取り巻き連中の気持ちしかわからない、元気な者たちの気持ちしかわからない、愛想
のいい者たちの気持ちしかわからない、単純な気持ちしかわからない、都合のいいこ
としかわからない、都合の悪いことは無視して雲散霧消という傲慢経営者と同一化す
るのではなく、それこそもっと聖書研究をして、エホバ神とキリストとの深い愛と
「見方」を本当に反映しないと、まいたものを刈り取る時期が今後も続くこと間違い
ない。

 以前の日本と同じ急増の時期にある国々があるので、今は見えにくいかもしれない
が、遅から早かれいずれ日本と同じような状態になる。そうなるスピードは日本より
もっと速いんじゃないかな。

 日本はこれから減る一方だ。二世や不活発な人たちに力を入れているけれども、野
外は本当にふえる見込みがない。研究なんて真実いえば形だけ。昔の「再訪問」を
「研究」に入れてもいいことになったから、かろうじて「研究」の数は維持している
けれども、はっきり言って、あれはとても「研究」じゃない。

 「研究」というのは読むだけのことではないと教えている一方で、奉仕報告に関し
ては、相手が「うん」とか「へえ」とか答えるだけでも「研究」になるんだよ。そ
れって何。どう考えたら意味があるの。数に意味があるとしか思えない。ナンセン
ス。こっけい。

もっと、聖書的な真の信仰と真に霊的に強くなることが課題だと思う。

<後略>

《編集者より》
最近の会衆の慢性的な不活発化、集会の出席率の低下に悩むものみの塔協会の指導部は、王国宣教やものみの塔誌などで時々このような記事を出して、何とかエホバの証人全体の不活発化と沈滞を食い止めようと躍起になっています。しかし、その叱咤激励の言葉はいつも同じ、聖書の引用も同じなら、「いよいよ終わりが近い」という警鐘も同じ。おおかみ少年が「おおかみが近づいている」と叫べば叫ぶほど、人はそれを信じなくなり、本当におおかみが来る時に全く役に立たなくなるという、誰もが知っている教訓さえも、ものみの塔の指導部は分かっていないようです。あなたの指摘するように、ものみの塔の指導部は現実離れした夢想の世界でめくらの群集を引きずりまわしているのですから、エホバの証人の悲劇は今後も続くことでしょう。