「組織における身体障害者の扱い方のひとつの実例」−ラハムより

(2-28-04)

組織における身体障害者の扱い方のひとつの実例-ラハムより

エホバの証人の組織にも他の宗教と同じように身体に障害のある人が大勢交わっ
ています。わたしにも障害のある兄弟たちと親しい人がいましたが、そのひとり
の兄弟は最近集会に出席しなくなり、いつの間にか引っ越したのですが、彼が手
紙をくれたのです。

わたしの親しい友人として彼ら、障害者が異口同音に述べる事柄は、障害者に
とって仲間の証人たちよりも聖書を知らない世の人のほうが理解を示してくれ
て、親切であり、組織の中で障害者としての生活に息苦しさを感じ、不当に扱わ
れているというものです。

彼の手紙にはその一部が現れており、彼の許可を得ましたので、彼が特定されな
いように調整を加えて、投書してみることにしました。

なお、この手紙で述べられている、K兄弟は主催監督で、T兄弟は書記です。

また、決議の様子は偶然にもテープに録音され、それに基づいた彼の報告の内容
は以下のようなものです。



≪このときの決議の採り方ですが、最初に決議の内容が説明され、採決を取ると
きに『この決議に賛成でない方はおられますか?』と言われ、誰の手も上がりま
せんでした。その後『賛成でない方がおられないので、全員賛成でよろしいです
ね』と聞き返され、賛成の挙手が確認されずに全員賛成にされてしまったので
す。

  二つ目は法的なもので、王国会館を建設するのでそれを公にする看板を立て
るというものでした。これをおこなうために法人団体である会衆の信者の賛成が
必要だという説明でした。このときも『この決議に賛成でない方はおられます
か』と言われ、誰の手も上がりませんでした。しかし、こちらの場合『賛成の
方、手を上げてください』と言われ、おおかたの手が上げられました。

  この後質問を受けるということでしたのでわたしは『これまで決議を採ると
きは伝道者の人数を数えておこなっていたのに今回から採り方が違うのはどうし
てでしょうか?』と質問しました。

  このようにして賛否の確認を確実に行う方法はK兄弟も以前からおこなって
いましたし、これまでの長老兄弟たちもずっとおこなってきたのです。しかし、
彼の返事は『兄弟のする質問の聖書的な根拠は何ですか?』とステージの上から
問い返してきました。そこでわたしは『根拠は別にありませんが、以前とは違う
のはどうしてかと思ったのです』と答えました。ここで一瞬ですが、彼は怒った
ような表情で顔を下に背けていました。

  その答えは『王国宣教に“大多数が賛成ならそれでよい”と書かれている』
というものでした。このときT兄弟も出席していましたが一言もありませんでし
た。これらは70人ほどの出席者のいる中でなされたものです。

  こうした返答に当惑したわたしは王国宣教84・7と94・2の質問箱を見つけま
し
た。ここには決議文を入念に準備して読むこと、質問を受けてから賛否の挙手を
おこなうことが記されています。この王国宣教以外に組織の指示があれば別です
が、この質問箱に照らし合わせてみた限り、明らかに採決の仕方は組織の指示と
は違うと思います。もしもこの決議の採り方が誤りであれば、このまま放置して
おくことは疑問を感じざるを得ません≫



O兄弟へ

  O兄弟には黙って転居してしまったことをたいへん申し訳なく思っていま
す。でも、わたしの心が落ち着いたら連絡するつもりであったこともたしかなこ
とです。また、わたしとしては会衆の人々に対して別れを告げずに転居するなど
というやり方がよいなどということは少しも考えておりません。しかしながら、
このような形にする以外に自分を精神的、もしくは身体的に廃人への道を突き進
んでしまうことを避ける手段を見つけることができませんでした。

  わたしはO兄弟がわたしのことをほんとうに気遣い、心配してくださってい
ることがよくわかりますので、長くなりますが、兄弟の人間性を信じて真実なこ
とをお話しておこうと思います。ただ、この手紙の内容が他の人、特に長老たち
に知られるとわたしを背教者扱いにし排斥に追い込もうとするかもしれません。
聖書的な観点に立てば、神とキリストに対する反逆が背教なのですが、組織に対
する反逆が背教であると言えば、わたしが背教したという解釈も出来るからで
す。わたしは断絶することや排斥されることを望んでいません。



  わたしが精神的におかしくなるような出来事はK会衆から分会したS会衆に
なってから、こまごましたことはたくさんありました。しかし、決定的に変化が
始まったのは、兄弟もご存知の出来事である、新王国会館建設の決議のときのこ
とでしょう。これはわたしの精神に大きな打撃を加えることになりました。

  わたしは王国会館の建設はよいことであり、賛成でした。わたしには反対す
る理由など何もないからです。でも、わたしは聖書と組織のやり方にしたがって
決議を採択してほしかったのです。それで、K兄弟の決議の取り方がどうしても
納得できなかったわたしは、索引を調査してそれに関する王国宣教をふたつ見つ
けました。

  それで、翌週その資料を持参してT兄弟にほんとうにあの決議のとり方でよ
いのかということを聞いたのです。彼の答えは、お金に関して銀行を移動させる
ことだけなので問題ないだろうということだったのです。わたしはそれでも、王
国宣教に書かれているようにしたほうがよいだろうと告げると、「書かれている
のなら仕方がない、兄弟は自分の気持ちに忠実なのはいいが、みんなが王国会館
のことで盛り上がっているのに、どうしてその意気をくじくようなことを言うの
か」と言い返してきたのです。

  この日、K兄弟は集会を休んでいました。こう言い返されてから、しばらく
話し合ったのですが内容は忘れてしまいました。徒労に終わったと思います。偶
然ですがその決議のときの内容はテープに録音されていたので、巡回のY兄弟に
これまでのいきさつを説明するときに用いました。

  A兄弟は断絶しましたが、このときまでK・Tの両人から不当な扱いを受け
ていましたし、二人が会計のことでも王国宣教や協会の指示通りおこなっていな
いことを知っていました。彼は彼で二人の長老に進言していたのですが、ことは
正されませんでした。それで、わたしと彼は連名で巡回監督に手紙を書き送った
のですが、やはりほとんど取り上げられなかったと思います。

  そのすぐ後の巡回訪問中にわたしは2時間ほど、Y兄弟と話し合いました。
彼の答えは決議を取らなかったわけではないので、いいのではないか。それにい
まさらやりなおすこともできない、というものでした。そして長老たちを徐々に
指導していくとも話しておられました。

  わたしはこの巡回訪問のあといくどか決議の採択に参加していますが、とて
も王国宣教どおりだと思えず、巡回監督が指導しているとも思えませんでした。
わたしにとっては信じがたい方法なのです。

  

  さて、去年のX月にいきなり群の司会を交代させられたことについてです
が、わたしは交代になったこと自体に不平や不満があるのではありません。わた
しが不当だと思うのは、はっきりした理由を告げずにいきなり交代させるという
行為についてなのです。

  これはA兄弟が理由を告げられずにいきなり会計を交代させられたことと同
じで、この事件を彼から直接聞いているわたしは、大きな不信感を持ちました。
そして長老たち4人に集まってもらい、理由を聞きだす前に、C兄弟に相談した
ところ、聞いておいたほうがよいということもあったのです。しかし彼はこの時
点では長老に任命されたばかりでしたので、話し合いではただの一言も発言しま
せんでした。

  このときのいきさつについては電話でお話ししたとおりです。でももう一度
詳しく記してみたいと思います。わたしは4人の長老たちに時間を割いてくだ
さったことに感謝を述べてからだいたい次のようなことを言いました。



  わたしはバプテスマから25年、僕の任命をいただいてから14年以上、群の司
会者として7年以上奉仕してきたが、そのあいだ、3日ぐらいしか司会を休んでい
ない。高齢の兄弟たちの送り迎えもおこなってきた。王国会館で集会がなされて
いるときで、どうしても自分を背負ってくれる兄弟のいない場合は、階段を這っ
てあがったことも幾度かある。自分はエホバの預言者とは違うけれどもエホバで
すらご自分が事をおこなわれる前に、知らされる(アモス3:7)のであるから、
わたしが大切にしてきた奉仕を交代させる前にその理由を教えてほしい。そして
黙って交代させるのが神権的だと言うのであれば、その聖書的な根拠を聖書から
示してほしい。

  これについては誰も直接的にこたえませんでした。こののち、T兄弟は新し
い王国会館のトイレのことを持ち出してきたのです。このトイレの話というのは
わたしの人格に対する攻撃だと思います。

  わたしが初めて新しい王国会館に行ってトイレを見たとき失望したことはた
しかです。というのは、男子トイレのほうを最初に見たのであり、ここは車イス
が入ると扉が閉まらないほど狭かったからです。また、聖書をあれほど学んでい
るのに、わたしたち障害者はこの世界でトイレのことでも恥ずかしい思いをせね
ばならないのかと思いました。実際、E兄弟という人が車イス使用者のおとうさ
んを連れてきたときにそのトイレに入ったのですが、狭くてやりにくかったそう
です。それでしばらくわたしは古い王国会館で用を足しました。

  初めてトイレを見たときはドアに男子用女子用のマークは張っておらず、現
在のようにベビーや車イスのマークもありませんでした。それでわたしが、K兄
弟にこれらを聞くと、なんと女子トイレが車イス用もかねていることがわかった
のです。マークが貼られてから、そのトイレが障害者用もかねていて、男性も使
用する場合があることを大勢の兄弟姉妹たちに聞いてみましたが、誰も知らな
かったのです。S会衆以外の会衆の兄弟たちもその事実を知りませんでした。

  そのようなわけでわたしが初めて新しい王国会館に行った集会後にT兄弟か
ら、トイレはどうですかと聞かれたとき、非常に困惑してしどろもどろになって
しまいました。いくら使いようのないトイレでも、善意で作られたものに悪い返
事をしたくなかったのです。でもこうした気持ちを彼は気付きませんでしたし、
このときの困った様子を彼は悪い態度だと解釈したようです。こうしたいきさつ
は4人の長老たちのいるところで説明しましたが、彼らからは何のコメントもあ
りませんでした。

  このようなやり取りがあった後、K兄弟はわたしが司会を交代になった理由
について、自分で考えればわかるはずだとか、祈ればエホバが教えてくださるは
ずだとか言っていました。また、神権的だという聖書的な根拠については、それ
ほど長く聖書を学んでいるのにわからないのはおかしいと言って、第二会場を出
て聖書を持ってきたのですが、机の上にぽんと置き、ここに書かれているはずだ
と述べただけでそれを開きませんでした。

  実は、洞察の本によると、その神権的ということばはユダヤ人の歴史家ヨセ
フスが最初に用いたものです。彼は出版物にもよく登場しますが、クリスチャン
ではありませんでした。それにこのことばは聖書にはないのですから根拠はない
ことになります。

  この話し合いで、K兄弟はいろいろな質問をわたしにおこない、わたしの疑
問を別の方向に持っていこうとしましたので、わたしは、「わたしが質問してい
るのです、わたしの質問に答えてください」と強く主張して、決して話を刷りか
えられないようにしたのです。彼らは、自分が答えたくない質問をされると、よ
くこうしたことをします。

  実際、D兄弟は「わたしの以前いた会衆でも僕の兄弟が群の司会をしていた
が、仕事場が八王子になって集会に間に合わなくなってしまったところ、司会を
交代になった。彼は、時間に余裕ができたので、講演の準備が十分にできるよう
になって助かったと言っていた」という話をし始めたのです。

  このような話は、そうしたことがあったというだけでわたしの質問の答えに
はなっていません。このときの3人の態度を見て、わたしはこれ以上彼らを相手
にするのは無駄だと思い、話し合いをやめました。失望したのです。



  わたしはこうして集会に出席することや野外宣教に参加する意欲をなくして
ゆきました。

  この司会を交代すると同時におこなわれたのは群の配属の転換でした。わた
しは近所の群から3Kmぐらい離れた群に変更になり、これも何の断りもなくなさ
れたことです。以前の群のときはH兄弟のところでしたので車イスでも5分ぐら
いで行くことができ、体力的にも非常に助かっていました。

  でも配属になった群のほうはというのなら、まず自動車のあるところまで
350メートル(これはH兄弟の家よりも遠い)ぐらいを車イスで移動し、さらに
自動車で10分ほどかかります。しかも、夜の7時半からでした。長老たちの言い
分では駐車場もあるのでいいだろうということだったのですが、正直を言えばわ
たしにはきつい変化でした。ことさら雨でも降れば、傘を差して駐車場まで車イ
スで行くことはたいへんなことです。

  

  わたしにはS県にわたしと同じ年で同じ障害を持つ、仲のよいエホバの証人
であった友人の兄弟がいます。ここで“であった”と書くのは去年のX月以来、
集会に行くことをやめ、エホバの証人としての活動をやめたからです。しかし、
彼は断絶や排斥ではありません。



  組織はものみの塔や王国宣教でインターネットにはポルノがはびこっていた
り、背教者などの情報がたくさんあるといって警告しています。わたしもそれを
信じていたのと、エホバの証人という項目を見るのがつまらなかったので、見る
ことはありませんでした。

  しかし、彼のところで、インターネットを見ているうちにほぼ30年前に扱わ
れた、ものみの塔の読者からの質問に関しての話が出てきたのです。わたしもそ
の質問についてはよく知っていました。そこで彼は言ったのです“兄弟が真実を
知りたければ見たほうがいいよ、でも、組織に忠実でありたいなら見ないほうが
いいよ”と。

  その話というのはもと統治体の成員であったレイモンド・フランズという人
の書いたものを英文から短く翻訳したものでした。わたしたちは出版物という形
で聖書の理解を与えられていますが、統治体でどのように討議されて、どのよう
に与えられるのかを知りませんので非常に興味を持ちました。エホバの証人は使
徒15章に記されている記録が1世紀の統治体の会合であると理解しています。

  でも、新世界訳聖書を読んでいても、ライニングヘッド以外には統治体とい
うことばは出てきませんし、数多くの書簡を書いたパウロも統治体には一言も言
及していません。使徒15章に記されている記録では、どのようないきさつで教義
が定められたのか、誰がどのような発言をしたのか述べられていますが、現代の
統治体ではそのようなことはわたしたちにはぜんぜん知らされません。そのよう
なわけで、インターネットで公表されていることに興味を持ったわけです。

  その情報の中には、組織が過去130年近くにわたって出版し、おこなってき
た事柄でわたしたちには知らせない事柄が非常に多く公表されていました。そし
て多くの兄弟や姉妹たちの苦痛や苦悶の叫びも記されており、わたしのこうむっ
てきた苦しみが特別なものではないことを知りました。その経験の中には長老た
ちから不当な扱いを受けたというものが多く、奉仕の僕からというのは見ること
がありませんでした。

  わたしはインターネットで公表されていることがすべて真実であるとは思い
ません。わたしは自分の知ったことを最初は否定したかったのです。自分が長年
真理だと信じていたことを覆されるのは非常に怖かったです。そして、公表され
ていることの真実性を確認する方法もありません。

  わたしはインターネットで公表されていることが自分の経験してきた事柄に
反していれば、その情報を否定することができたと思いますが、現実にはなぜ自
分が不当だと思える苦しみに会うのかということの裏づけになってしまいまし
た。それを真実なものとして受け入れざるを得なかったのです。それで、わたし
の得た結論は、末端の会衆の長老たちによっておこなわれているあさましい事柄
は組織の上層部から来ている体質で染み付いたものであり、事実上変化を望むべ
くもないというものになってしまいました。まったく残念です。

  

  わたしは組織の提案によって(ものみの塔95.5.1 p13からの記事)聖書を
毎日読み、しかも新世界訳も含めて、他の翻訳を加え10冊分ぐらいは読み続けた
と思います。このうち新世界訳は3回以上全部通読していると思います。こうし
た行為を通じて組織がわたしたちに教えた聖書の理解と聖書そのものの述べてい
る事柄の違いを悟るようになってしまいました。

  いまでも聖書自体が述べる真実なことを愛する気持ちはあります。現在でも
毎朝聖書通読はおこなっているのですから。でも、自分が聖書に反しているとわ
かっている事柄を会衆の面前や伝道することが良心的にできなくなってしまった
のです。もし、演壇から、組織の聖書解釈と大幅に違ったことを聖書そのものか
ら説明させたとしても、背教者扱いされることはわかりきったことです。だから
わたしの良心は葛藤して破裂しそうでした。

  

  そのようなわけで、神と他の人に対する責任から、良心的に考えて、自分と
兄弟姉妹たちを欺き続けることはできないという結論になりました。自分の気持
ちにうそを強要し続けることはうつ病などの精神障害を抱えることになり、O兄
弟も言われたように自殺願望を抱くことになるかもしれません。自分をそのよう
な状態にゆだねるわけにはいかないのです。



  それで、わたしとしては外部から組織が聖書的にも社会的にもどのように健
全になって行くのかを見守りたいと思います。そして、わたしの生きている間に
そのような状態に改善され、もどる必要性があれば、わたしは自分から戻るかも
しれません。



  ここに述べられたことはF兄弟もご存知です。もし、質問したいことがあれ
ば、お電話ください。よろこんで正直にお答えします。でも、決してエホバの証
人たちにはこの手紙を見せたりしないでください。O兄弟のこれまでのご親切に
深く深く感謝いたします。



このような経験をした彼に感想などおありであれば、わたしがお伝えしたいと思
います。kenbouoh@ybb.ne.jpまでお願いいたします。

《編集者より》
この身体障害を持つ方は幾つかの会衆内の問題を提起しています。まず身体障害者への配慮の問題があります。アメリカのエホバの証人の社会では、障害者への配慮は他の団体と比べて特に問題があるとは思えませんが、これは日本に特有な問題なのでしょうか。日本の社会は一般的に言って、障害者への配慮がアメリカなどに比べると少ないようですが、最近は改善されていると聞いています。

質問に対する率直な答えが与えられず、ごまかしたり、逆に質問者に対して差別や攻撃に出る体質は、エホバの証人の指導部の伝統的な体質です。これは、ある意味で日本的な風潮でもあり、特に日本で顕著なのではないでしょうか。つまり、「出る釘は打たれる」というか、「お上に逆らうな」というような態度は、長老や監督が組織の指導部として、エホバに通じているという観念に根付いているのでしょう。そのような権威的な指導部に対して、率直な質問をすることは失礼であるし、実際に指導部が答えられない時にその権威が失墜することになるので(そうははっきり言いませんが)、質問を控えるように、という暗黙の了解が社会の中に出来上がっているのではないでしょうか。疑問を持つより、盲目的に従うことが美徳とされる社会なのです。やはり日々の問題の中に、組織全体の本質的な問題が反映していると思います。