「JWICから私が受けた影響」−pendulumより

(2-15-04)

こんにちは。pendulumです。
今回は、私がJWICから受けた影響について、その出会いから遡って書きたいと思います。

私が一番最初にJWICに訪れたのは、おそらく1998年だったと思います。私が20歳の頃です。
その頃は、日本でインターネットはまだそれほど普及していませんでした。JWICを訪問した
のも、検索サイトで「エホバの証人」と打ってたまたま引っ掛かったというのがきっかけだ
ったと思います。楽園の本の、地図を見ながら道を戻るように指摘されている場面の絵が最
初に目に入りました。JWICの英語版の表紙では今でも使われていますね。

HPの「初めて訪れられた方へのメッセージ」を読んで、私はほぼ反射的にこのHPを見ること
は「危険」であると感じました。組織が常々注意している「背教者」によるHPだと感じたか
らです。私はJWの聖書解釈や教理に疑問を抱き始めてはいましたが、組織内の関係に特に不
満があったわけではありませんでした。今思えばマインド・コントロールの影響下にどっぷ
り浸かっていたことになります。「危険」とは、その反射的な反応だったわけです。しかし
そこで引用されている『楽園』の本の次のメッセージを自分に当てはめて読んだとき、考え
なければならない気持ちにさせられました。

「ある事柄が本当に間違っているのであれば,それを心から信じまた実践しても,それによ
ってその事柄が正しくなるということはありません。自分の信じている事柄が間違いである
証拠を示されたら,あなたはどう感じるでしょうか。・・・」

私は自分の信条を一体自分はどこまで「徹底的に」吟味したのだろうかと問い直す必要にせ
まられました。『楽園』の本が要求していたことに対し、自分は応えてこなかったことに私
は気づかされました。組織にいることによって『楽園』の本を含めた協会の主張を支持し、
さらに伝道によって他の人にその信条を勧めてきた私は、自分の支持して来た上記の主張に
対し責任を取る必要がありました。これは、私にとって自分の信念が覆される可能性を十分
に視野に入れた上での判断でした。今思えば、このとき私は、「精神的な事柄に対し冷酷な
までに正直でなければならない」と、ある哲学者が述べた言葉を自分に当てはめようとした
のだと思います。同時に、批判に打ち勝てない真理というものを、私は真理だとみなすこと
ができなかったのでしょう。

JWICの豊富な情報は、たくさんの再考のきっかけを私にくれました。とはいえ、当初はそれ
らの情報を、ショックを伴わずに読むことは不可能なことでした。組織の種々の不正行為を
知らされたとき、2世である自分がまず感じた印象は、ちょうど自分が愛し信じていた親が
実はとんでもない嘘つきで、自分の親ですらなかった、というのに近いものでした。自分に
突きつけられたそれらの情報をウソだと思いたがる自分に気づいていました。でも、目をそ
むけることは解決にはなりません。上記の『楽園』の本にあるとおりです。「ある事柄が本
当に間違っているのであれば,それを心から信じまた実践しても,それによってその事柄が
正しくなるということはありません。」

まだインターネットが普及し始めの時期であったこともあり、「情報の信用性の低さ」とい
う一般的な批判を利用してJWICの情報も信じないでおく選択もなかったわけではありません。
しかし、そうするにはJWICの情報はあまりにも信憑性が高すぎました。少なくとも私にとっ
てはそうでした。どうしてもウソだとは思えませんでした。信じたくない人間にとってすら
(誠実に検討すれば)認めざるを得ないだけの徹底的な情報収集と協会の記事による裏づけが
なされ、公明正大な情報公開への努力がありありと見て取れました。私の関心はむしろ、な
んとかしてこのHPを信じたくないと思っている自分の心的傾向でした。

「読者の広場」も、非常に有益でした。勇気ある現役の人たちのメッセージや質問は、自分
が彼らと同じような思考回路を持っていることを気づかせてくれました。また、それに対す
る村本さんの真摯な返答を読むことは、ちょうど自分がそこで対話をしているかのような効
果を与えてくれました。記憶に残っているのは、http://www.jwic.com/forum99/090998.htm
の中での村本さんの返信でした。だいぶ昔になりますが、1998年のものです。

    あなたの、「犠牲者となった人は・・・・地上の楽園で解決されます」という考えがいかに
    矛盾したものかは、次の簡単な例を考えて頂けばご理解できるでしょう。これは全くの仮定
    の話ですが、エホバの証人であるあなたが、気の狂った仏教のお坊さんに襲われてけがをし
    たとしましょう。お寺の責任者があなたの入院している病院を訪れ、「犠牲者となったあな
    たには気の毒ですが、あなたには仏の加護が加わるからすべて解決します」、と言われたら
    あなたは納得しますか。「仏の加護」はこの場合、加害者を守るための加害者のための論理
    です。「地上の楽園ですべて解決されます」というあなたの論理も、同じように加害者にと
    って都合のよい論理ではありませんか。被害を受けた人に必要なのは、加害者に都合のよい
    「仏の加護」や「地上の楽園」のような慰め話ではなく、公正な義ではないでしょうか。

ここでの村本さんの返信を読んだとき、私の中で何かが変わりました。このとき、私はエホ
バの証人の主張がいかに型にはめられた思考パターンであるか、それが第三者からどう映る
のか、さらにエホバの証人の信者にとって組織がどう機能しているかを見た気がしました。
信者を支配し、自分をも支配していた「型」の存在を見たのです。それを他の人が見て「共
産主義的」と表現しても私はその理由が理解できます。そういう型の存在に気づかせられた
のでした。

加えて、JWICの記事の論旨の組み立て方、問題へのアプローチの仕方などは、私の見方を新
たにしてくれました。一言で言うと学問的訓練を受けた人のそれと言うのがしっくりくると
思います。定性的アプローチでなく定量的アプローチを大切にすること、事実と意見を分け
ること、特に議論において意見を言う際はその根拠を提示すること、思い付きではなく調べ
てからモノを言うことなどです。そうした姿勢はそうでない人からの書き込みと比べ、私に
とって明晰判明に映りましたし、説得力がありました。

そうした経験を通して私は、自分がいかに安易に文章を読んできたのか、ある問題を本当の
意味で批判的に検討するとはどういうことかを学ばされたと感じました。エホバの証人によ
る文章は物心ついたときから私に染み付いていた、いわば私の血肉そのものでした。私はそ
れまで自分が食べているものが何なのかを吟味しないで食べていました。しかし、ひとたび
それらを吟味する視点を得たとき、その読み方は明らかに変化しました。その意味で、私は
蒙が啓かれたと言えるでしょう。

それ以降、私の物事を調べる姿勢は変わったと思います。一つは、まずできる限り徹底的に
調べるということです。もう一つは批判的に読むということです。ここでいう「批判的」と
いうのは、日常伴いがちな「否定的」という意味ではなく、「距離をとって吟味する」とい
う意味です。そして、そうすることは決して楽なことではなく、時間や労力その他のコスト
を伴うものでしたが、そこで得た知識や見方はその後の私に大きな影響を与えましたし実際
益になりました。そして、JWICの内容もそのような姿勢で読むようになりました。こうした
経験は実は私が村本さんに感謝する謂れとなっています。そして、そうした影響を受けた人
はおそらく他にもたくさんいると思うのです。今後ともこのHPの繁栄を願っています。

《編集者より》
ご親切なお言葉を頂き恐縮しています。私も、自分の発言が多くの人々の生き方を変えさせる可能性があることを思い、責任感を新たにさせられます。また、私自身の立場から言えば、pendulumさんを含む多くの読者の方の投書から、多くのことを学ぶことができました。私のエホバの証人に対する見方も、それに従って変わってきましたし、宗教観一般についても多くのことを教えてもらったように思います。コミュニケーションというものは、決して一方的ではなく、お互いがそれによって影響しあいながら、それによって少しずつものの見方、考え方が変わっていくのだと思います。そしてこれが、インターネットの一つの威力であり、またある程度の危険でもあると思っています。