「聖書を読み研究するとは」

(1-31-04)

  レイモンド・フランズ氏の「良心の危機」によると、統治体の成員は純粋な聖書研究が
疎かになっているとありました。これだけ大きい組織の先頭に立ち、様々な運営上の処理
等を行なっていくのでは仕方が無いと言えるのかも知れませんが、信者には散々繰り返す
お得意の「平衡を取りなさい(より重要なことを見極めなさい)」という事が出来ていな
いような気がします。

  上がそうであれば、当然下もそうなります。
  以前私の交わっていた会衆に特別開拓者の長老兄弟が必要で入って来ました。
さすが特開者だけあって野外奉仕に率先してはいましたが、聖書の知識などは講演や割り
当てを聞いたり個人的に話したりする限りは人並みで、可も無く不可も無いといったもの
でした。
  ある時その兄弟から牧羊訪問を受けました。たいした事でも無かったので内容は忘れま
したが、その仕方はインパクトがあったのでよく覚えています。
彼は協会からの手紙が沢山入った分厚いファイルをテーブルに置き、その中から幾つかの
話をしたのですが、その際聖書を開くどころか手元に置いてさえありませんでした。
今まで他の兄弟から牧羊や助言等を受ける時には必ず聖書から語られていましたので、そ
の状況にはかなり違和感がありました。
そして繰り返された言葉は「協会の考え方は・・・」というものでした。その頃は私も若く
知恵も無かったので、聖書的根拠を尋ねることも出来ずにただ聞いているだけでした。
  その後注意してその兄弟の割り当てなどを聞いていると、「協会は・・・」とか「組織は
・・・」といったフレーズが非常に多く「聖書では・・・」「エホバは・・・」「イエスは・・・」と
いった話はあまりありませんでした。
きっと彼も統治体の兄弟達と同じように聖書の純粋な研究は疎かになっていたのでしょう。
そして協会からの手紙を一生懸命に個人研究していたのでしょう。
  その後その兄弟は巡回監督になりましたから、協会の幹部になるには聖書の知識ではな
く、協会から与えられるマニュアルにいかに精通するかが重要だということがわかります。
(それでも多くの長老が聖書の知識も無く協会からのマニュアルにも精通していないのに
比べると立派なのでしょうが・・・)
  それからしばらく後に、ものみの塔誌に「協会は・・・」というかわりに「聖書には・・・」
という表現を使いましょうというような記事が出ましたから、実際に聖書よりも組織を前
面に押し出していた人たちが多かったのでしょう。

  信者にとって聖書の位置づけとは、どのようなものなのでしょうか。
それは、ものみの塔聖書冊子協会の出版物を学ぶ為のサブテキストに過ぎないように思え
てなりません。
ブルックリンベテルには「毎日聖書を読みましょう」という標語があるようですが、ここ
での読むとはどういったことを意味しているのでしょうか。
  それは単に、聖書のものみの塔解釈を知り、それをただ無条件に受け入れるいう事では
ないのでしょうか。実際、聖書を読んで黙想したとしても、そこで行なわれるのは、協会
から与えられる、決められた通り一遍の適用を常に繰り返しているに過ぎません。

  よく協会は個人研究をするように勧めますが、それは聖書を読み調査をするというので
はなくて、単にものみの塔の出版物を読むことを意味しています。(私自身現役の時から、
協会の使う研究と言う言葉には非常に違和感を持っていました)
というのも、以前巡回訪問の時、巡回監督は演壇から次のように話した事があります。
「よく自分には時間が無くて個人研究が出来ていないと言う兄弟姉妹がいますが、考えて
みて下さい。そうした人たちの多くは、毎日日々の聖句(協会の薄手の冊子)を読んでい
ます。毎週ものみの塔、書籍研究、神権学校、奉仕会の予習をしています。毎月4冊来る
ものみの塔と目ざめよを読んでいます。年末には年鑑、地域大会の時には新しい出版物が
出てそれも読んでいます。十分個人研究をしていると言えるのではないでしょうか。皆さ
んもこうした日々の積み重ねを大切になさってください」
  この中には純粋に聖書そのものを読み研究する、という考えは無いようです。
ただ一方的に与えられる聖書解釈を無条件に受け入れる事が、はたして研究と言えるので
しょうか。

  今後目覚めた現役信者たちが、本当の意味での聖書研究をしはじめたときに、協会がど
のような態度に出るかが楽しみです。

《編集者より》
ものみの塔協会が、自分の出版物を聖書と同等か、それ以上に重要な読み物としてきたことは、この宗教の創始者であるラッセルに始まります。彼はその著書の中で、自分が書いた「聖書研究」を毎日読んでいれば、聖書を読む必要はないし、聖書だけを読んで彼の著書を読まない限り、いくら聖書を読んでも暗闇の中にいるだけだ、と教えています。ものみの塔協会はその創始者以来、聖書そのものの研究でなく、彼らの特殊な聖書解釈を研究することが、すなわち聖書研究であるとしているのです。もちろん最初に伝道を受ける人々は、ものみの塔のこの特殊な解釈を知らない人が大部分ですから、「聖書研究」は文字通り聖書を研究することだと思い込み、抵抗無く「研究」に入り、いつのまにかこの組織の自画自賛の教義のとりこになってしまうのです。