『異邦人の時再考』に対する批評−K.M.

(1-26-04)

第二章 新バビロニア王朝の年代計算について
この点の反論については「あなたの王国が来ますように」という本の付録(185-189ページ)
に載せられています。以下はその引用です。
歴史家たちは、バビロンがキュロスの軍の手に落ちたのは西暦前539年10月であったと考
えている。その時の王はナボニドスであったが、その子ベルシャザルもバビロンの共同統
治者であった。一部の学者は、ナボニドスの最後の年からさかのぼってネブカドネザルの
父ナボポラッサルまでの、新バビロニアの王たちと彼らの統治年数のリストを作っている。

その新バビロニア年表によると、皇太子のネブカドネザルは西暦前605年にカルケミシの
戦いでエジプトを破っている。(エレミヤ 46:1、2)ナボポラッサルの死後、ネブカドネ
ザルは王位を継ぐためバビロンに戻った。彼の治世第1年はその翌春(西暦前604年)から
始まった。

聖書の伝えるところによると、ネブカドネザル配下のバビロニア人は、彼の治世の第18年
(即位した年を含めると第19年)にエルサレムを破壊している。(エレミヤ 52:5、12、
13、29)したがって、上記の新バビロニアの年表を受け入れるとすれば、エルサレムは西
暦前587年から6年にかけて荒廃したことになる。しかしこの一般の年表は何に基づいてお
り、聖書の年表とどのように比較されるだろうか。

この一般の年表の主な証拠資料を幾つか挙げると次の通りである。

プトレマイオス王名表: クラウディウス・プトレマイオスは西暦2世紀のギリシャの天文
学者である。彼のカノン、すなわち王名表は、彼が著わした天文学関係の1冊の著書と関
係がある。現代の歴史家の大半は、新バビロニアの王たちと彼らの統治年数(ただしプト
レマイオスはラバシ‐マルドゥクの統治は省いている)に関するプトレマイオスの資料を
受け入れている。プトレマイオスの史料は、キュロスのバビロン攻略から250年以上後に
始まったセレウコス時代以降の資料に基づくもののようである。それゆえにプトレマイオ
スの示す数字が、セレウコス時代のバビロンの祭司ベロッソスの示す数字と一致していて
も不思議ではない。

ナボニドスのハラン石柱(NABON H 1,B): 同時代のこのステラ、すなわち碑文の刻まれ
た石柱は1956年に発見されたもので、ネブカドネザル、エビル・メロダク、ネリグリッサ
ルなど新バビロニアの王たちの統治について記している。この3人に関係した数字はプト
レマイオス王名表の数字と一致している。

VAT 4956: これは、西暦前568年のものと測定できる天文学上の事柄を記した楔形文字の
粘土板である。この粘土板には、ネブカドネザルの第37年から観測が行なわれたと述べら
れている。これはネブカドネザルの治世の第18年を西暦前587年から6年とする年代計算と
符合する。しかし、この粘土板が西暦前3世紀に作られた写しであることは明らかである
ゆえに、その歴史的資料はセレウコス時代にのみ受け入れられていたものかもしれない。

商業用粘土板: 簡単な商取り引きを記録した同時代の新バビロニア楔形文字の粘土板が幾
千となく発見されている。それらの粘土板には、商取り引きが行なわれた時のバビロニア
王の年名が記されている。この種の粘土板は、一般に認められているその時代の年表の中
の、よく知られている新バビロニアの王たちの統治期間中のすべての年のものが発見され
ている。

一般的な見地からすると、そのような証拠資料は、ネブカドネザルの第18年(およびエル
サレムの破滅)を西暦前587年から6年とする新バビロニアの年表を確証するもののように
思えるかもしれない。しかし、現在知られているバビロニアの歴史が誤解を招く、あるい
は間違っているかもしれないことを否定できる歴史家は一人もいない。例えば古代の祭司
や王たちが、時折自分の目的に合わせて記録を書き変えたことはよく知られている。ある
いは発見された証拠がたとえ正確なものであっても、現代の学者がそれを誤って解釈した
り、証拠そのものが不備であったりして、これから発見される資料によってその時代の年
表は大幅に変えられることもあり得る。

エドワード・F・キャンベル2世教授はそのことを認めているらしく、新バビロニアの年表
を含む一つの表を紹介するに当たって慎重を期し、こう述べている。「これらのリストが
仮のものであることは言うまでもない。古代近東の年代学上の問題の複雑さを知れば知る
ほど、どんな発表も最後的なものとは考えられなくなる。そういうわけで、およそという
語はもっと自由に使われても差し支えない」―「聖書と古代近東」(1965年版)、281ペ
ージ。

聖書を信じるクリスチャンは、聖書の言葉が多くの批判に耐え、その正確さと信頼性が証
明されてきたことを再三知らされた。聖書は霊感による神の言葉であるゆえに、一般の歴
史や見解を評価する尺度として使用できることを彼らは認めている。(テモテ第二 3:16、
17)一例を挙げると、聖書はベルシャザルをバビロンの支配者として述べているが、彼の
存在や身分もしくは地位について説明した一般の記録がなかったために、学者たちは何世
紀もの間ベルシャザルには当惑していた。しかし考古学者たちはついに聖書を確証する一
般の記録を発見した。聖書の内面的調和や、その筆者たちが年代学上の事柄にまで細かな
注意を払っていることに強く心を動かされるクリスチャンは、一般の歴史家たちの絶えず
変化する見解の権威よりも、聖書の権威を重視するのである。
しかし聖書はエルサレムが破壊された時を測定するのにどう役立つだろうか。またそれは
一般の年代表とどのように比較されるだろうか。

預言者エレミヤは、バビロニア人がエルサレムを破壊してその都市と国土を荒廃させるこ
とを予告した。(エレミヤ 25:8、9)彼はさらに、「そして、この地はみな必ず荒れ廃れ
た所、驚きの的となり、これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければなら
ない」と述べている。(エレミヤ 25:11)その70年はキュロス大王がその第1年にユダヤ
人を釈放し、彼らが故国に戻った時に終わった。(歴代第二 36:17‐23)その70年は、バ
ビロニア人がエルサレムを滅ぼしてユダの地を荒廃させた時から始まったとするのが、エ
レミヤ 25章11節と他の聖句の一番正しい解釈であるとわたしたちは信じている。―エレ
ミヤ 52:12‐15、24‐27; 36:29‐31。

その期間の年代計算を主に一般の資料に頼る人々は、もしエルサレムが西暦前587年から6
年に破壊されたとすれば、キュロスがバビロンを征服してユダヤ人をその故国に戻すまで
の期間は70年にならないことを認めている。それで彼らはその辺のつじつまを合わせよう
として、エレミヤの預言は西暦前605年から成就し始めたと主張する。後代の著述家たち
は、カルケミシの戦いのあとネブカドネザルはバビロニアの勢力を全シリア‐パレスチナ
に伸ばし、バビロンに帰還する時(彼が即位した西暦前605年)、ユダヤ人捕虜を故国か
ら連れ去ったというベロッソスの言葉を引用する。このようにして彼らは70年を、西暦前
605年に始まったバビロンへの隷従期間とする。これは70年の期間が西暦前535年に終わる
ことを意味する。

しかしこういう解釈には幾つかの大きな問題が残る。

ネブカドネザルは彼が即位した年にユダヤ人捕虜を連れ去ったとベロッソスは主張してい
るが、これを裏付ける楔形文字の記録はない。さらに重要なことに、エレミヤ 52章28‐
30節には、ネブカドネザルが、彼の即位した年ではなく、彼の第7年、第18年、そして第
23年にユダヤ人捕虜を連れ去ったことが注意深く記録されている。また、ユダヤ人史家ヨ
セフスは、ネブカドネザルがカルケミシの戦いの年に、「ユダヤを除く」シリア‐パレス
チナ全体を征服したと述べており、ベロッソスの言うこととも、またネブカドネザルが即
位した年にユダヤ人の隷従の70年が始まったという主張とも矛盾する。―ユダヤ古代誌 X、
vi、1。

さらにヨセフスは別のところで、バビロニア人によるエルサレムの破壊について記述し、
それから「全ユダヤとエルサレムそして神殿は70年の間ずっと荒れ地となっていた」と述
べている。(ユダヤ古代誌 X、ix、7)「我々の町は、キュロスの時代までの70年間、荒
廃していた」とはっきり述べている。(アピオーンへの反論、1章19節)これは、予告さ
れていた70年が、国土の70年にわたる完全な荒廃であったという点で歴代誌第二 36章21
節およびダニエル 9章2節と一致する。(西暦)2世紀の著述家、アンティオキアのテオフ
ィロスも、70年が、ゼデキヤの11年にわたる統治のあと、神殿の破滅とともに始まったこ
とを示している。―列王第二 24:18‐25:21も参照。
しかし聖書自体は、70年が西暦前605年に始まったとか、エルサレムが西暦前587年から6
年に破壊されたとかいう主張を否定する、さらに有力な証拠を提供している。先に述べた
通り、もし西暦前605年から数えるとすれば70年の終わりは西暦前535年となる。しかし、
霊感を受けた聖書筆記者エズラが伝えるところによると、70年は、ユダヤ人の故国帰還を
許可する勅令を出した「ペルシャの王キュロスの第一年」まで続いた。(エズラ 1:1‐4。
歴代第二 36:21‐23)歴史家たちは、キュロスが西暦前539年の10月にバビロンを征服し
たこと、またキュロスの治世の第1年が西暦前538年の春に始まったことを認めている。キ
ュロスの勅令が彼の治世の第1年の遅い時期に出たとしても、ユダヤ人は、エズラ書 3章1
節にあるように第7の月(ティシュリ)までには彼らの故国に容易に帰還できていたはず
である。それは西暦前537年の10月になる。
<補足>バビロンの征服の後、ほどなくしてキュロスはエクバタナ(現代のハマダーン)に
戻りました。エクバタナはアルワンド山麓の海抜1,900km余りの高地にあり、冬の豪雪や
厳寒が、気持ちのよい夏の季節によって埋め合わされる所です。エクバタナからは、エル
サレムの神殿再建に関するキュロスの覚え書きが、公布の数年後に発見されました。(エ
ズラ 6:2‐5)彼が次にバビロンに帰還したのは冬ですから、キュロスの勅令は彼の治世
の第1年の遅い時期に出たといえます。
しかし、キュロスの第1年を西暦前538年から535年まで引き延ばす道理にかなった方法は
ない。一部の人はこの問題の無理な説明を試み、エズラとダニエルはキュロスの治世の正
式な数え方とは異なる、ユダヤ人独特の見地から「キュロスの第一年」と言ったのだと主
張した。しかしその主張は認めることができない。というのは、聖書筆記者たちが注意深
く明確に伝えている通り、非ユダヤ人の総督が言ったこととペルシャの公文書保管所にあ
った一文書の内容とが、勅令はキュロスの第1年に出されたという点で一致しているから
である。―エズラ 5:6,13; 6:1‐3。ダニエル 1:21; 9:1‐3。
第五章 「バビロンで七十年」の計算法について
A.エレミヤ25章

ものみの塔協会は決して、この七十年間が「バビロン王に仕えた」、すなわち「従属」の
期間であることも、ユダという一つの国についてではなく、その周囲の諸国の民について
述べていることも、決して問題にはしない。

これはジョンソン氏の解釈の間違いです。

ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、すなわちバビロンの王ネブカドレザルの第一
年に、ユダの民すべてに関してエレミヤに臨んだ言葉。 預言者エレミヤはそれを、ユダ
の民すべてとエルサレムの全住民に関して語って、こう言った。「……万軍のエホバはこ
のように言われた。『「あなた方がわたしの言葉に従わなかったので、 いまわたしは人
をやって、北のすべての家族を連れて来る」と、エホバはお告げになる、「すなわち、わ
たしの僕、バビロンの王ネブカドレザルのもとに人をやって、彼らを来させ、この地とそ
の住民と周囲のこれらすべての諸国民を攻めさせる。わたしは彼らを滅びのためにささげ、
彼らを驚きの的、人々が見て口笛を吹くもの、定めのない時に至るまで荒れ廃れた所とす
る。 そして、わたしは彼らの中から歓喜の音と歓びの音、花婿の声と花嫁の声、手臼の
音とともしびの光を滅ぼす。 そして、この地はみな必ず荒れ廃れた所、驚きの的となり、
これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない」』」―エレミヤ 
25:1-11。

下線の部分を読むなら、これが「従属」ではなく、「荒廃」であることが分かります。文
脈から考えて、「この地」がユダ、「その住民」がエルサレムですから、「周囲のこれら
すべての諸国民」とはエルサレム周辺に住む諸国民のことでしょう。11節だけ考慮すれ
ば「従属」ともとれますが、前の節から考えてそれはありえません。

B. 七十年間はいつ終わったのか?

エレミヤの25:12の言葉は、ものみの塔協会が主張する、七十年間は西暦前537年
に終わったという説とは、真っ向から矛盾する。

これもよく読んでください。

 「『そして、七十年が満ちたとき、わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開き
を求めることになる』と、エホバはお告げになる、『彼らのとがを、カルデア人の地に対
してである。わたしはそれを定めのない時に至るまで荒れ果てた所とする。 』」。―エ
レミヤ 25:12。

バビロンを征服したペルシャ人のキュロス大王が、エルサレムにダビデの家系の王国を再
興することはありませんでした。キュロスが西暦前539年に、つまりユダの地の「70年」
の荒廃が終わる二年ほど前に、異教国バビロンを征服したのは事実です。しかし、キュロ
スは自分が「バビロンの王」であることを宣言し、最初のうちは、ネブカデネザル王のバ
ビロニア王朝の政策を変えませんでした。それゆえに、ネブカドネザルに征服された諸国
民は「バビロンの王」に70年間仕え続けました。キュロス大王はユダの荒廃の70年目に、
まず流刑の身のユダヤ人を、バビロンの王への直接的隷従から解放して、荒廃した国とそ
の首都エルサレムおよびその神殿を再建させるべく故国に帰還させました。(エズラ 1:1
から3:2)こうしてエホバは、バビロニア人に対し、イスラエルの神に対して犯した「彼
らのとが」の責任を問われました。―ものみの塔 1979年12月15日号 24ページ10節

C. エレミヤ29:10について

もしものみの塔協会の解釈のように、七十年間がエルサレムの破壊によって始まるとする
なら、このエレミヤ29:10の手紙では、「バビロンで七十年」は将来の事として言及
されなければならず、その時点での流刑者は、まずその七十年が始まるエルサレムの破壊
まであと数年を待たなければならず、つまり計七十数年という、預言に矛盾する年数を待
たなければならなくなる。

エレミヤ29:10をもう一度読んでみてください。

「エホバはこのように言われたからである。『バビロンで七十年が満ちるにつれて、わた
しはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わた
しの良い言葉をあなた方に対して立証する』。

最後の言葉が示すように、「バビロンで七十年」には「[エホバ]の良い言葉」、つまりエ
レミヤ25:11 が関係していました。前の部分で扱ったように、この聖句はエルサレムの荒
廃が関係していましたので、この手紙を読んだ人たちは、読んだ時点からではなく、エル
サレムの荒廃から数えると容易に理解できたはずです。(この手紙を読んだ人たちの中に
は年長者や祭司、預言者が含まれていたので、ほかの民に十分説明できたはずです。)
「わたしはあなた方をこの場所[エルサレム]に連れ戻(す)」とあるので、七十年にはエ
ルサレムへの帰還が関係していることも分かります。

D.ダニエル9:1−2について
ダニエル9:2で述べられていることは、その時点でエレミヤの預言した「バビロンで七
十年」が終了したことの認識と、その時点でエルサレムの荒廃状態が終わるという希望で
ある。

  これはうそです。ダニエル9:3にはこうあります。

わたしは自分の顔をまことの神エホバに向けた。祈りと懇願により、断食と粗布と灰のう
ちにあって神を求めるためであった。

もしこの時点で70年が満了しているなら、ダニエルが断食をしているのはなぜなのでしょ
うか。また、エレミヤ 29:11に「あなた方[流刑に処された民]は必ずわたしを呼び、来て、
わたしに祈り、わたしはあなた方の言葉を聴くであろう」とあるのに、ここではダニエル
一人しか祈っていないのはなぜなのですか。

E. 歴代第二36:20−23について
その上、彼は剣を逃れた残りの者たちをとりこにしてバビロンに連れ去り、こうして彼ら
は、ペルシャの王族が治めはじめるまで、彼とその子らの僕となった。これはエレミヤの
口によるエホバの言葉を成就して、やがてこの地がその安息を払い終えるためであった。
その荒廃していた期間中ずっと、それは安息を守って、七十年を満了した。―歴代第二3
6:20-21

「安息を払い終える」とは何でしょうか。これは申命記 15:1,2,12にある「安息年」と
関係があります。これは7年に一度土地を休耕させることでした。もしイスラエルが律法
を正しく守っていたなら、流刑に処せられるまでに、その地には17回のヨベルの年のほか
に121回の安息年が訪れたことになります。しかし、安息年は部分的にしか守られません
でした。ユダヤ人が守らなかった安息年の回数がちょうど70回だったとは聖書のどこにも
述べられていませんが、エホバはその地を強制的に70年間荒廃状態にして、守られなかっ
た安息年すべての埋め合わせをされたと考えられます。21節はそのことを説明していま
す。

F. ゼカリヤ1:7−12について
この聖句はゼカリヤが、み使いがエルサレムを測量する幻を見たことを述べている箇所で
す。エルサレムの測量は神殿の再建が始まる前にあったはずですので、ゼカリヤ1:12の
「七十年間」とはバビロン捕囚中の70年を指しています。
G.ゼカリヤ7:1−5について
これも文脈をよく捉えてください。
   「この地のすべての民また祭司たちに言うように、『第五の月また第七の月にあなた
方が断食を行なって泣き叫んだ時、しかもそれは七十年に及んだが、その時あなた方は、
本当にわたしに、このわたしに対して断食を行なったのか。 また、食べたり飲んだりし
た時、あなた方自身が食べ、あなた方自身が飲んでいたのではなかったか。 あなた方は、
エルサレムに人が住んでいて安らかであり、それに属する諸都市がその周囲にあった時、
ネゲブにもシェフェラにも人が住んでいたころにエホバが以前の預言者たちによって叫ば
れた言葉に従うべきではないのか。……[やもめや父なし子]が呼んでも彼らが聴かなかっ
たように、彼らが呼んでもわたしは聴こうとしなかった』と、万軍のエホバは言われた。
 『そうしてわたしは、彼らの知らなかったあらゆる国民の中に彼らを激しく投げ込んだ。
その土地そのものも彼らの後ろで荒廃に捨てられ、通り過ぎる者もそこに戻って来る者も
いなくなった。彼らはその望ましい土地を驚きの的とした』」。―ゼカリヤ7:5-14。
下線から分かるようにこの七十年はエルサレムの荒廃と関係があります。
H.まとめ
七十年間はユダの国だけでなく、諸国に当てはまらなければならない。いいえ。この諸国
民はエルサレム近郊に住む諸国民です。 
七十年間はこれらの諸国の荒廃でなく、バビロンに属国化した状態に当てはまらなければ
ならない。(エレミヤ25:11)いいえ。文脈からエルサレムの荒廃について述べてい
ます。 
七十年間はバビロンが支配していた期間でなければならない。(エレミヤ29:10)後
半の言葉からエルサレムへの帰還が関係しています。 
七十年間の満了はバビロンとその王が罰せられた年、つまり西暦前539年でなければな
らない。(エレミヤ25:12)キュロスは自分が「バビロンの王」であることを宣言し、
最初のうちは、ネブカデネザル王のバビロニア王朝の政策を変えませんでした。それゆえ
に、ネブカドネザルに征服された諸国民は「バビロンの王」に70年間仕え続けました。 
七十年間の開始はエルサレムの破壊の何年も前でなければならない。(エレミヤ27、2
8章;ダニエル1:1−4、2:1;列王第二24:1−7) いいえ。 
ゼカリヤ1:12、7:5に出てくる七十年間は、エレミヤの七十年間をさすのでなく、
神殿の破壊から西暦520−51年に行われた神殿の再建までの期間をさす。いいえ。 
70という数は旧約聖書の中で7ニ並んで特に意義のある数字と考えられていたというこ
とである。70という数は旧約聖書の中で52回にわたり、別々の事柄、重さ、長さ、人
の数、時間の長さなど、色々な量を表すのに使われている。また聖書の中で七十年と書か
れている時、概算の数字として書かれていることがある。イザヤ23:15には「王の日
数」は七十年と書かれている。また詩編90:10にも人の寿命は七十年と書かれている。
これらは、決して正確な70という数を問題にしているのではなく、大体の数がそうなる
という意味である。従って、エレミヤの預言の七十年間という期間もまた、概算の数字と
して使われた可能性は充分ある。

いいえ。バビロン捕囚期間の70年は安息年と関係がありました。何人もの預言者が取り
上げていることからしても、70年は概数ではありません。また、この七十年はアッシリ
アの滅亡とは何の関係もありません。

《編集者より》
『異邦人の時再考』に関しての細かな反論を頂きました。HTML形式で投書されたので、内容が分かり難い部分があると思います。『あなたの王国が来ますように』の付録は、著者のジョンソン氏が自身で書いているように、彼の1977年に協会に提出した論文に対するものみの塔協会の1981年の対応でした。ジョンソン氏は、これに対して1998年の『異邦人の時再考』の改訂第三版の第七章で、『あなたの王国が来ますように』の付録について詳しく反論を述べています。本ウェブサイトではその部分は未だに訳出しておりませんので、この投書者も含めて、それを読んでいない人は、ものみの塔が1981年に一応反論できたように感じているようです。もし読者の希望が多ければ、第七章を翻訳して掲載することは可能ですが、現在この編集者に時間とエネルギーがないもので、できれば読者の中で英文翻訳の仕事をしていられる方がいれば、是非お願いしたいと思います。

ただ、細かい技術的な議論はさておいて、大きな全体像を見れば、ものみの塔協会がネブカドネザル王の18年目に起こったエルサレムの破壊が起こったのが紀元前607年であるという数字を出した根拠は、1914年から2520年を引いて逆算した「理論的」な年であること以外に、新バビロニア帝国が終わった紀元前539年から70年を差し引いて、更に2年を付け加えた計算によります。この計算は、考古学者たちが一致していて、ものみの塔協会も受け入れている紀元前539年以外は、全て聖書の解釈によっており、ものみの塔協会の論理は、もし「世の」学者の言っていることと聖書の解釈が合わない場合は、聖書の解釈を取るべきである、というものです。これに対し、ジョンソン氏は、考古学者の誰一人としてものみの塔協会の紀元前607年を支持する考古学的証拠を示すことはできず、現在考古学的証拠はほぼ一致して、紀元前586/587年がその年であるとしていることから、ものみの塔協会の607年は協会自身の独自の聖書解釈以外に根拠がないことを示しました。そして、協会の聖書解釈が考古学的な証拠と一致しないことを解消するために、ジョンソン氏は70年に関する協会とは別の解釈を示したのでした。それに対して反論しているのが、この投書ということになります。この問題に対するものみの塔協会の対応は、当時統治体にいて、ジョンソン氏の論文に反論しようとしてこの問題を研究したレイモンド・フランズが言っているように、ものみの塔協会の年代を支持する考古学的証拠は何一つ見つからないために、仕方がなくそれまでにある証拠の不完全さを強調して、あとは「世の」学者より(ものみの塔の解釈する)聖書につくようにと書くことが精一杯であったわけです。そのようにして作られた反論が、この投書者の引用する『あなたの王国が来ますように』の付録となったわけです。これはいわば、「攻撃は最大の武器」という態度で、相手にまともに反論できない時は、相手の欠点を探して攻撃することで、相対的に反論者の立場を弱め、自分の強さを示そうという、ものみの塔協会の苦肉の策でした。

私は、聖書や考古学の細かな証拠を論じる以前に、このものみの塔協会の根本的態度に、大きな問題があると思います。それは進化論と創造論の議論でも使われた同じ様な議論です。つまり、科学の証拠が自分たちの聖書解釈と合わないと、自分の聖書解釈がおかしいのではないかと謙虚に自省するのでなく、科学に対して「世の知恵」などと言って見当外れな攻撃をしかけるのです。しかし、文字通りの七日の創造についても到底科学を攻撃しても勝ち目がないとなると、今度は「日」の解釈を勝手に変えて、「日」とは言っても聖書はもっと長い時間を指していたのだなどと、勝手な解釈を持ってきて科学の常識とつじつまを合わせようとします。しかし、それなら生き物や人間の創造などの他の聖書の記述だってもっとあいまいなことを指している可能性はないか、と指摘されれば、それは「今の進化生物学が間違っているからだ」と、これに関しては自分の聖書解釈を変えるのではなく根拠の無い攻撃に出るのです。この何が何でも自分たちの頭の中で作られた聖書解釈にすがりつき、それに合わない証拠を攻撃するというものみの塔協会の態度は、創造論でも、異邦人の時でも、同じ様に一貫しているわけです。私はこのようなものみの塔協会の態度を見る限り、科学や学術の証拠を使って協会を反論する価値すらもないと思うようになりました。ただ、エホバの証人の中の一部の目ざめた人々にとっては、それでも科学的証拠とものみの塔協会の欺瞞を知ることは重要であると思い、そのような証拠をこのサイトでは取り扱っているわけです。