「神権宣教学校のランク付けについて」−ラハムより

(12-28-03)

神権宣教学校のランク付けについて-ラハムより

  フリーダム氏の投書を読んだ方から、神権宣教学校のランク付けは、講話で
ある第一の話よりも聖書通読の目立った点の方が上であるというものがありまし
た。またその投書に対するコメントの中で、村本氏は神権宣教学校のランク付け
に聖書的な根拠があるのだろうかとも述べておられましたので、わたしは面白い
発想だなあと思った次第です。

  まず、神権宣教学校のランク付けについてですが、わたしの知りうる限り聖
書的な根拠はないと思います。ただし、フリーダム氏の言われるように各自の心
の中にはあると思います。なぜなら、わたしの心のうちにもフリーダム氏と同じ
思いがあったからです。それを考察する前に最近の神権宣教学校に加えられた調
整と変化を考えてみたいと思います。

  2002年に「神権宣教学校の教育から益を得る」という教科書を組織から与え
られました。これはそれまで過去30年以上用いられてきた「神権宣教学校案内
書」にとってかわるものでした。この新しい教科書が用いられ始めたのが、2003
年の1月からです。この時点からですが、神権宣教学校ではそれまでいちばん最
初におこなわれていた、第一の話の前に「話の特質」というプログラムが加えら
れました。これは新しい教科書の内容に基づく5分の話です。これを扱う人につ
いてですが、毎年10月の王国宣教の折り込みによる神権宣教学校の指示を読みま
すと、「学校の監督、補助助言者、あるいは他の資格ある長老」となっていま
す。さらに「長老の数が限られている会衆では資格ある奉仕の僕も用いることが
できる」となっています。

  そののち「第一の話」になるわけですが、これは以前15分だったのですが、
10分に短縮されました。これを扱う人は「長老あるいは奉仕の僕」となってい
て、それ以上の資格は問われていません。

  その次に「聖書通読の目立った点」になるわけですが、6分で扱われていた
ものが10分間に延長され、6分の話のあとに4分を用いて聴衆に30秒以下の注解を
述べてもらうことになりました。これについての質問も、統制するためかその王
国宣教の折り込みに指示があります。扱う人については「資格ある長老か奉仕の
僕」となっています。

  わたしとしては以前からですが、神権宣教学校や王国宣教の指示を読んでい
て、長老や奉仕の僕の前に「資格ある」と記されていることが気になっていまし
た。というのは、逆に「資格のない」長老や奉仕の僕なんているのだろうかと
思ったからです。エホバの証人の世界では、会衆を教えることは長老の仕事で、
奉仕の僕は雑用係が原則です。だから、奉仕の僕に長老の仕事である教えること
を依頼するのであれば、資格うんぬんも意味があるでしょうが、もともと、教え
る資格があるとされている長老に「資格」を要求するのはつじつまが合わないと
感じたのです。たぶんこれは、開拓奉仕に関する話であるなら、それをおこなっ
ている長老に、というようにできるだけ立場上ふさわしい人に割り当てて、話に
説得力を持たせようとしたのだろうと思います。

  フリーダム氏が会衆に交わっておられたころは、上記のふたつだけで、話の
特質はなかったであろうと思います。資格があるとされているのは、話の特質と
目立った点ですが、話の長さは第一の話と聖書通読です。ひとつの会衆では長老
以上にはなれませんし、その立場が異なっていても、ほとんど割り当ての数は増
えません。それで割り当てられたプログラムの数でランク付けするのは難しいで
しょう。

  資格の観点からランク付けをおこなうのであれば、1.話の特質 2.聖書通読
の目立った点 3.第一の話 ということになるでしょう。長老はこれらすべてを
おこなうことができますが、奉仕の僕は長老から割り当てられない限り、資格が
あるとみなされないので、割り当てられるとほんとうにうれしいものです。

  わたしが奉仕の僕に任命されたのは15年以上前で、最初に割り当てられたの
は第一の話でした。それから数年間は聖書通読の割り当てはありませんでした。
この期間わたしは心に葛藤を感じたことを覚えています。それは、わたしと同じ
年で家族がいて、10年以上も新しい兄弟が任命されたのですが、彼のほうがわた
しよりも先に聖書通読の割り当てを受け、さらには書籍研究の司会者になってし
まったからです。それまでの経験でエホバの証人の世界は年功序列でないことは
わかっていたのですが、懸命に努力している自分がなぜ報われないのか理解でき
ませんでした。そして自分のうちで、なぜ自分はそうした特権を得られないの
か、どこがいけないのか、彼はどうしていいのかなどと自分を責める自己問答を
おこない苦しみつづけることになったのです。

  いまになってみれば、こうした葛藤はエホバの証人特有のマインドコント
ロールの結果、何か悪いことが生じるとすべて自分のせいにしてしまうというパ
ターンになっていたのでしょう。また、エホバの証人は世の中の仕事や組織とか
かわって業績をあげたり、報いを受けることを避けるようならされていますの
で、低い自尊心を保つために会衆内での特権や目立つことを追い求めるように
なっていたのだと思います。

  ウェブでいろいろな兄弟たちが述べているように、会衆内であっても、多く
の特権を得ている人々は長老に働きかけたり、組織に対して盲目的に従順な人が
多く、悪く言えばマインドコントロール度が高いということになるのでしょう。
たぶんこれをいわゆる「霊的な人」と高く評価しているわけです。こうした人々の
表情を見ていますと、口では笑っているようですが、目は笑っていないようで
す。そして何か特有の沈んだような重々しい雰囲気を醸し出し、近づき難い印象
を受けます。それから目が半開きのようで、いかにも精神病者のような感があり
ます。

  わたしは聖書と組織の教える聖書理解に精通し、努力していれば奉仕の特権
は増し加わっていき、自然に長老などの立場に任命されるものだと思い込んで、
純粋に努力していたのですが、そうはなりませんでした。わたしとしては、奴隷
のように盲目的になにかに従うなどということは、とうていできないことだった
のです。そして、あるところでエホバの証人は理性による神聖な奉仕を強調して
いますので、自分の考えや感情を組織や人に全面的にゆだねるのもおかしいと感
じて、自分というものを大切にしていました。

  そのようではあったのですが、いわゆる世の中で自尊心を保つことも避けて
いたわたしは、会衆内で得られる特権としての割り当ても非常に大事にし、フ
リーダム氏が述べているように他の人の割り当てと比べて、喜んだりがっかりし
たりしてもいたのです。わたし自身もそうでしたが、割り当てがないとなにか自
分に落ち度や失敗があったのだろうかと考え始めるのです。事実わたしはひとり
の兄弟がそのようなことを主宰監督に質問しているのを目の前で聞いたことがあ
ります。

  現在のように目が覚めてしまえば、そのような特権には何の意味もありませ
ん。事実、2002年の秋ごろから、ウェブで組織がわたしたちに隠してきた事柄を
知ってしまい、それがこれまでの自分の苦しみの原因であることがわかってか
ら、いかに割り当てを避けようかと考えるようになってしまったのです。組織の
教える事柄が、真実であると信じることができていたときは喜びと生きがいを感
じさせてくれていたことが、偽りであり欺きであることを認識したとたんに、苦
しみと悲しみのもとになってしまったのです。真実のために奉仕しようとして献
身しバプテスマを受け証人になったはずなのに、偽りと欺きのために若い時間と
労力を費やしてしまったのです。それを取り戻すことはできません。それで、自
分の良心と仲間を欺き続けることは不可能であり、人間として良心的に生きよう
とする人はエホバの証人ではいられない、というのがわたしの結論です。苦しい
苦しい歳月でした。それで、わたしは2003年をもって集会に行くことをやめまし
た。エホバの証人として生きることに終止符を打ったのです。

  さて、神権宣教学校にランク付けの聖書的根拠はないというわたしの根拠で
すが、それは、その「神権宣教学校」という言葉そのものが聖書にはないからで
す。「神権的」という言葉でさえ聖書中に見たことがありません。わたしが長老
団との話し合いで、その神権的という言葉の聖書的な根拠を示してほしいと告げ
たのですが、誰も答えることをしませんでした。主宰監督は机の上に聖書をぽん
とおいて「ここに書かれているはずだ」と言っただけだったのです。彼らは聖書
を開かず、わたしの人格攻撃をしました。わたしは組織の提案にしたがって、日
本語訳の聖書を10種類近く読んでみましたが、これらの言葉を見た記憶がありま
せん。もっともわたしの記憶に残らなかっただけで、読むことができた人もいる
かもしれませんが…。

  組織はキリスト教世界の偽善について、非聖書的な教えを非難するとき、そ
の語句そのものが聖書にないことを述べます。たとえば、三位一体、地獄、法王
など数えればたくさんあります。しかしながら、自分たちが用いている語句にも
同様のことがあることをわたしたちには教えないのです。統治体、開拓奉仕、巡
回監督などですが、神権宣教学校もそのひとつでしょう。良いたよりをよりよく
述べ伝える訓練をする目的ということであれば、聖書にかなっているという主張
もできるでしょう。しかし、他の組織が聖書にない語句を用いて非聖書的なこと
をおこなっていると述べるのであれば、自分たちも同様のことをおこなってお
り、人為的に作られたものだということになります。

  たしかに、イエスは弟子たちを訓練して伝道活動に備えさせましたが、聖書
の記録から現在のエホバの証人がおこなっている神権宣教学校のような、組織化
された教育プログラムがあったとは読み取ることはできません。使徒たちも必要
に応じてさまざまな話をおこなっていますが、どれのランクが上だとか下だとか
比べられるとは考えられません。そのようなわけで、割り当てを受ける兄弟たち
は内心自分ではランク付けをすることはあると思いますが、神権宣教学校の割り
当てをランク付ける聖書的な根拠はないというのがわたしの結論です。

  感想などはメールでくださるとうれしく思います。kenbouoh@ybb.ne.jp で
す。

《編集者より》
詳しい説明をありがとうございました。「神権的」、「神権」という言葉が聖書にあるかどうか、という点ですが、あなたのおっしゃるようにこれは聖書に基づいた言葉ではないと思います。実際、「洞察」の第一巻 619 ページにはこう書いてあります。

神の政府は機構や機能の点で純粋の神権政治<テオクラシー>(ギ語,テオス[神]とクラトス[支配]に由来する),つまり神による支配を表わしています。英語の“theocracy”という術語の元の言葉は西暦1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスの用語とされており,彼はその著書「アピオンへの反論」の中でその言葉を造り出したようです。(II,164,165 [16])イスラエルを治めるためにシナイで樹立された政府に関して,ヨセフスはこう書きました。「ある民族は最高の政治権力を君主政体にゆだね,他の民族はそれを寡頭制に,さらに別の民族はそれを大衆にゆだねてきた。ところが,我々の律法制定者はこのような政治形態のいずれにも魅力を感じず,―もし強いて表現することが許されるならば―『神権政治[ギ語,テオクラティア]』と呼べる形態の政体を定めた。つまり,主権と権威をすべて神のみ手に置いた政体である」。
すなわち、協会自体が、この言葉はヨセフスの使い出した用語であることを認めているのです。ヨセフスはもちろんクリスチャンではありませんでしたから、協会は非聖書的、非クリスチャン的な概念と用語とを導入していることになると思います。ここにもあなたが指摘されたように、ものみの塔協会の自己矛盾が見られると思います。