「研究生の一人として」−3

(12-23-03)

カルト論議に教義批判は無用だという専門家の指摘もありますが、「永遠の命」について
考えるとき、本末転倒になってはいないかどうか、もう一度見直してみたほうがいいよう
な気がします。
 
私がいつも疑問に思っているのは「永遠の命」を得たいがために善良さを発揮するのは邪
道ではないかということです。彼らは多分、真に無報酬な態度というよりも、見返りを期
待する気持ちによって親切であるということができるでしょう。
聖書の基準で生きれば「さわやかに」なるとは言われていますが、調教用の馬が視野を狭
められてニンジンで釣られて走っている光景のようにも見えなくはありません。「永遠の
命」を得るための矯正といったところでしょうか。
 
純粋さということでは他の場所でも問題があります。
インドでは身分差別が今も激しいと聞いています。でも彼らは施しをした分だけ来世がよ
くなると信じていますので、物乞いする人にも親切にふるまうことがあります。
中国では、悪いものを身に引き受けると反対によいことがあると信じる人たちがいます。
吉凶が縄の目のように絡んでいるのが人生であるという考えです。
 
 
思い出すのは『ソフィーの世界』の著者ヨースタイン・ゴルデル氏と広末涼子さんとの対
談(NHK教育TV)です。オウム真理教が社会を騒がせてからまだ間もないころだったと思
います。
ゴルデル氏が広末さんにふっかけます。
「若いままで永遠に生きられたらいいと思いませんか?」
でも彼女は、永遠の命なんていらないと言いました。一度しかない人生だからこそ貴く、
大事にしたいと思えるという内容のことをおっしゃっていました。
ゴルデル氏によると、彼の妻を含めてほとんどの人が広末さんと同じ意見だったそうです。
私は逆に、広末さんの意見のほうが極めて少数派だと思いましたから、リサーチ結果に不
審を抱くほどでした。
いかにも残念そうな、理解し難いといった様子のゴルデル氏が印象に深く残っています。
「哲学を知れば、カルトには簡単にひっかからない」というのが、彼の日本へのメッセー
ジの中で語られていたと思います。
とても興味深く思ってしまったのは、ゴルデル氏が反カルト的姿勢であったにもかかわら
ず、「永遠の命」というおとぎ話のような甘い約束を信じているらしいことでした。「永
遠の命」にはよほど強い魅力があるのでしょう。さすがファンタジー作家の面目躍如かな
とも思いました。
 
 
私は前回の投書で、編集者様に「良心」のことを触れられました。そこで質問させていた
だこうかと思うのですが、宗教者の中には、「人類には共通普遍の本質がある」と信じる
人たちがいます。彼らはそれを「良心」とも呼ぶのです。
エホバの証人たちは「良心にはそれぞれ差がある」と言っており、私も温度差はあるだろ
うという仮説を採用しています。
この場合、個人的良心を優先すべきなのか、それとも一段優位な立場の者にゆだねるほう
がいいのかという問題が出てくるでしょう。一方で、個人的良心のぶつかり合いというこ
とも考えなければいけません。私も、うかうかしてられないというわけです。
編集者様のお考えは前者でしょうか。つまり、良心は万民が共有できる類いのものと思わ
れますか。
私は残念ながら後者なので、一人一信仰が平和を生み出すような社会なんて幻想に思えて
くるのです。
 
戦争にしても、いじめにしても、同じ経験をしながら結論が正反対になることがあります。
「勝つために戦わなければいけない」という人と、「もう戦争(いじめ)なんてこりごり
だ」という人と。
同じ痛みを共有したとはとても思えないようなへだたりの大きい意見があちこちで聞かれ
ます。
両者はいずれ同じ結論に至るしかなくなるのでしょうか。
どうしても全員一致の統一見解は得られそうにない、というのが私の考えです。前者をと
ると、全体主義にもなりかねないような気がして、いつのまにか異なる意見は圧力によっ
て封殺されてしまうのではないかと危惧してしまいそうです。
 
私に云えるのは、私自身についての見解であり、現段階での感想でしかありません。別の
隠された思いが影響しているとしても、その時に感じたことや意図したことが違ってくる
ことはありません。そんなふうに「神」にも直接語っていただきたいと思ったのです。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ神を慕っているのですから。エホバでもいい、
代弁者としてのイエスでもいい、誰でもいいから、中東をはじめとする全世界をうならせ
るような強力な真実がほしいと思うのです。
人間同士で解決できると信じるのは麗しい願望ですが、今ではもう傲慢にしか聞こえませ
ん。現代の思想的バベルの塔です。
 
ホームページを立ち上げるのも、投書によって訴えるのも、伝道奉仕も、また祈りでさえ、
私は「行動」だと思っております。
お互いのストレスを軽減するために、この交差点がよい実を結ばせてくださることを願っ
ております。
まだ私のことをあちら側の代弁者だとお感じになられていますか?でも信者にはけっして
なりません。自分を殺して心を調整するほどにはストレスに強い人間ではないのです。
「永遠の命」欲しさに自分を変えることは邪道のゆえにできそうにないし、無償で信じる
ほどには魅力的な活動ではありません。
何よりも「世の人はサタンに属している」とは一概に思えないのです。いいえ、思えなく
もないですが、それをいうならエホバの証人だけが神に属しているとはとうてい思えない
のです。
もっと純粋に神の特質を慕う気持ちが強ければ尊敬が増すかもしれないのに、というのが、
今回の投書テーマです。

《編集者より》
前回に続き本質をつく対話が続けられて幸いです。先ず、永遠の命についてですが、私個人は、永遠の命は考えれば考えるほど欲しくないと思います。人生は限りがあり、初めがあって終わりがあるからこそ、その中間の「人生」の意味があり、生きる目的が出てくるのだと思います。終わりのない人生ほど退屈でつまらないものはないと思います。始めもなければ終わりもない劇にどんな面白みがあるでしょう。「地上の楽園」での「永遠の命」はよくよく考えてみれば嫌気がさしてきます。これは丁度、ご馳走を食べる時に、満腹になる直前ぐらいで止めておくのが丁度いいのと似ています。大好物の食べ物を限りなく、いつも満腹になるまで限りなく食べつづけたら、私はきっと吐き出すことになり、それ以後そのご馳走は見るのも嫌になると思います。それだからこそ「永遠の命」は絵に描いた餅、理論では最高、現実では最低という代物になるのです。

良心についてですが、ある種の良心は全ての人に共通のものであり、別の種類の良心は人様々と言えると思います。例えば、苦しんでいる病人やけが人を見て何らかの形で助けたいという気持ちが起こるのは、ほとんど人類共通の本能で、宗教や文化を超えています。これは共通の「良心」とも言える隣人愛でしょう。しかしその一方で、良心という心の状態は外からは見ることは出来ませんから、行動として表現された事柄によって良心の内容を推測するしかありませんが、その表現は人と場所と時と状況によって異なってきます。従って我々が外から見ることの出来る「良心」の表現は様々になり、それが人と時と場所で異なるのは当然とも言えるでしょう。そうなると、人が異なったり、時代が異なったり、場所や文化や習慣が異なると「良心」も自然に異なるわけで、それらの異なる「良心」同士が衝突することになります。

それでは異なる沢山の「良心」をどうしたらいいのか、という疑問があなたのような方から出されます。「良心」が沢山あったのではたまらない、誰かが統一してそれに人類が一致したらどんなに素晴らしいか、と考えます。ここに偉大な指導者、組織、国家、教祖、教義にあこがれる気持ちが起こり、エホバの証人のような宗教が栄える素地があるのです。私は「良心」を統一するという考えそのものが、沢山ある「良心」の一つの形ではありますが、それは「永遠の命」と同様、理論では最高ですが現実には最低であると思います。確かに世の中の全ての人があなたと同じ「良心」を持っていたら、どんなに素晴らしいとあなたは思うでしょう。でもちょっと考えて下さい。あなたの隣に座っている人の良心があなたと異なっていて、その人があなたと同じ様に、全ての人が自分と同じ良心を持つべきであると考えたら、あなたは自分の良心を殺してその人の良心に従わなければなりませんし、逆もまた同じ問題が起きます。そのように自分の良心で他人の良心を束縛しようとする所に、ものみの塔の問題も世界的な宗教問題から戦争に至るまでの全ての問題の根源があると私は思います。

良心は人により、時により、場所により、文化により、習慣により異なります。全ての人を全ての場所と全ての時間と状況とで同じ良心で統一することは不可能ですし、その不可能を可能にしようとすると、ものみの塔がやっているような歪みと問題が起こります(「血を避ける」の教義がその最もよい例です)。全ての良心を統一するより、全ての人が自分たちの良心は異なることを認識して受け入れ、その上で共通点は何かを見出し、異なる点は寛容に受け入れることが、世界中でますます多様化する良心同士が共存できる道ではないでしょうか。あなたがおっしゃる「全世界をうならせるような強力な真実がほしい」という希望は、素朴で誠実で常に人々が持ち続けた希望ではありますが、「地上の楽園の永遠の命」と同様(これも歴史を通じて常に人間が持ち続けた希望ですが)、理論的に最高である絵に描いた餅でしかなく、現実にはあり得ないばかりか危険であることは、人類の歴史全体が示していることであると思います。

最後に、私はあなたを「あちら側の代弁者」であるとは思っておりません。あなたは、他の多くの人々と同様、真摯に誠実に現実の問題を見つめてよりよい生き方を求めておられる方と、私は思っておりますし、そのように接して行きたいと思っています。またご意見ご感想をお聞かせ下さい。