「研究生の一人として」−2

(11-22-03)

現在のエルサレムは悲鳴をあげています。テロも激しくなってきており、止む気配があり
ません。
私も、心理面でのクリーン・アップを望んでいることは正直に告白いたします。ニセモノ
かホンモノかを見分けるトレーニングが人生の必然ならば、もう疲れました。
イエスでもエホバでも誰でもいいから、早くこの論争を終わらせて強力な統一見解のもと
で正しい関係が見えるようにしてほしい。
 
輸血の問題にしても、戸別伝道や暗記式習得法にしても、私には何ら奇異には思えません。
種々の制約の型とか、誤った解釈ゆえの歪みとかに問題の元凶があるようにはもう思えな
くなりました。そんなものはどこの団体にもありますし、キリスト教自体が神や聖人の名
を掲げて殺戮の歴史を繰り返してきているのです。むしろ、人が集団化した時に生じる権
力欲から‘犠牲者’が出現するということこそ、信仰の悲劇となっているように思います。
 
キリストが「来る」と約束なさっているのなら、ぜひとも来ていただき、正しい関係を知
らせてほしいものです。「偽り」が期待したり、「誤解」が優勢を保つような世界にはな
ってほしくありません。「真実」が力を得、「正直」が喜びをもたらす世界になってほし
い。
 
ちなみに私が考える「正しい関係」とはたとえば次のようなものです。
個人的に多様な価値観はあっていいけれども、私の夫が隣の夫であっていいはずがありま
せん。Aさんの妻かBさんの妻か、はっきりと読み取れる世界になってほしいのです。
 
私たちの父や母は、同じですか? それとも別でしょうか?
私はつい最近も、祈りのなかでこう唱えました。
「できれば5分以内に来てください」

《編集者より》
前回のお便りに続いて再びお便りをありがとうございます。あなたの考え方、見方はよく聞かれるもので、特にエホバの証人やその研究生になる人々に共通に見られるものです。つまり、「今すぐ強力な統一的答えを出して下さい」という態度です。もちろん、ものみの塔は最も手近にあるそのような答えとなります。しかし、もう少し深く考えてみて下さい。人間の原始時代から現代までの歴史の中で、いつテロがなく、いつ戦争がなく、いつ疫病がない世の中がありましたか。これらは人間が生きて行く上で、非常に嫌なものですが、どうしても避けて通ることのできないものなのです。今まで常に人間の生活につきまとって来たように、これからも常に人間の生活につきまとうでしょう。他にももっと嫌なことは過去に沢山ありましたし、将来もまた出てくるでしょう。もちろん、エホバの証人は「地上の楽園」でそれを一気に解決しようとしますが、それは人類の長年の希望を投影した一種の「モデル」でしかありません。「モデル」はあくまで「モデル」であり、現実はあくまで現実です。あなたが現実にこの世の中で生きている以上、現実を先ず見極める必要があるのではないでしょうか。絵に描いた「餅」である「モデル」が棚から落ちてくるのを首を長くして待つより、現実を現実として受け止め、その中で何が自分で出来るか、何が出来ないかを見極めて、自分なりに精一杯生きて行くことが、われわれの人生の意義ではないでしょうか。少なくとも私はそのように生きて行きたいと思っています。

キリスト教自体の悲劇が、人が集団化した時に生じる権力欲から来ていることは、私もその通りだと思いますし、エホバの証人の悲劇もこの「組織第一主義」から来ていることでは同じことだと思います。だからこそ、私は組織や集団の宗教ではなく、個人単位での宗教をお勧めしてきました。何が「正しい関係」なのかは、難しい問題です。絶対的な倫理道徳の規範というものはあるでしょうが、それさえも大きな人類全体の世界と歴史を見れば、本当に絶対と言えるものは非常に少ないのではないでしょうか。あなたが挙げた夫婦関係についても、現代の世の中ではほとんどの社会で一夫多妻は「正しい関係」ではありませんが、ある社会(イスラム世界など)、ある時代(聖書の時代でさえ)では一夫多妻は「正しい関係」でした。十戒にある「殺すな」でさえ、キリスト教の歴史を見れば例外だらけでした。「正しい関係」についても、「棚から落ちてくる」のを祈るのではなく、自分の頭と耳と目とで判断して、ご自分の「良心」を先ず第一にされて判断されたら如何でしょう。聖書にも、イエスの代理者が永遠に信者の中に宿ると述べています(ヨハネ14:16-17)。これこそがあなたの「良心」なのではないでしょうか。いずれにしても、何かを待つ、何かを要求する、という態度から、自分で探す、自分で作り出すという積極的な態度に変わることが、あなたのエホバの証人への傾倒から始まった堂々巡りから抜け出る道ではないでしょうか。