「エホバの証人と性の問題‐その二」−ラハムより

(11-19-03)


レイプについて

  わたしがバプテスマを受けて2、3年たった25年ほど前、女性がレイプを受け
た場合の扱いについて聞いたときショックを受けたことがありました。それは、
レイプのときに声を上げて抵抗しなければ、排斥になるということだったので
す。

  このときに聞いたことはこのことだけだったのですが、なぜそんなにきつい
処置がなされるのかわからなくて厳しすぎると思いました。このときわたしは聴
覚・言語障害の人々とわずかながらの接触がありましたし、声がどうにも出せな
い場合のことを考えると、物理的に声を出さなければ排斥だということが、どう
しても理解できなかったのです。また、聖書的な、出版物的な根拠もぜんぜん知
りませんでした。

  そのようなある日、古い年配の姉妹から1960年代のものみの塔をもらうこと
ができて、それらの中に理由を発見したのです。その記述は1964年3月1日号191
ページ、読者よりの質問で扱われていました。これは日本語版のCD-ROMであるラ
イブラリーには記載されていませんが、近年製本が再版されましたので多くの人
は実際に読むことができるでしょう。しかし、参考にOCRで読み取って全文を提
供させていただきます。このころの雑誌は縦書きでしたので、漢数字を算用数字
に置き換えました。



≪●申命記22章23-27節によると、婚約したイスラエルのおとめは、強姦されそ
うになった時叫ぶことが要求されていました。もしクリスチャンの婦人が今日同
じような事態に直面したならどうしますか。暴漢が武器で殺すとおどしても叫ぶ
べきですか。‐アメリカの一読者より



神の律法によると、イスラエルのおとめは叫ばねばなりませんでした。「もし処
女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯した
ならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければ
ならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またそ
の男は隣人の妻をはずかしめたからである」。しかし、もし野でおそわれて、女
がのがれようとして叫んだなら、その女を石で打ってはなりませんでした。なぜ
なら彼女は力で負け、救う者がいなかったからです。‐申命、22:23-27。



しかし男が武器をもっていて、一緒に寝ないなら殺すとおどすならどうします
か。これらの聖句は女が叫ばなくてもよい場合をあげてその趣旨を弱めたり変え
たりしていません。事情がどうあろうと女は叫ぶことによって暴行に反対しなけ
ればならないことをはっきり示しています。もし彼女が力に負け、あるいはたた
かれて無意識になり、彼女の叫び声に応じて助けが来るまえに犯されたなら、彼
女に責任はありません。この聖句の趣旨は明らかに、たとえ暴漢が、おとなしく
言うとおりにしないなら殺すとおどかしても、娘が叫んで近所の人の注意を引く
なら暴漢は驚いて逃げ、娘は救われることにあります。聖書のそういう判例は、
「不品行を避けなさい」という戒めのもとにあるクリスチャンにも適用されま
す。(コリント第一6:18)したがって、もしクリスチャンの婦人が叫ぶことをせ
ず、また逃げるためにあらゆる努力をしないなら、暴行に同意したものと見られ
るでしょう。身を清く保って神の戒めに従うことを望むクリスチャンの婦人が、
今日このような事態に直面したならば、勇気をふるって聖書の提案どおりに行動
し、叫ばねばなりません。実際のところこの戒めは、クリスチャンの婦人の福祉
になるものです。というのは、もし男の欲望に従うなら
ば、彼女は淫行あるいは姦淫に同意することになるばかりでなく、恥ずかしい思
いをしなければなりません。そのいやな経験からばかりでなく、配偶者以外の者
と性関係を結ぶことによって神の律法を破ったということから恥ずかしい思いを
します。そればかりでなく、未婚の母親になるかも知れず、その堕落した暴漢か
ら病気をうつされないとも限りません。暴漢がおどしを実行する危険に女が直面
することは事実です。しかしそういう逆上した犯人が欲情を満足させたのち女を
殺さないという保証がどこにありますか。事実、そういう男は恐らくすでにおた
ずね者になっているので、暴行を働いたのち女を殺す可能性が大きいとみねばな
りません。というのは女はその男を観察する機会がかなりあるために、警察に彼
のことをくわしく説明できるからです。そういう場合、聖書の助言に従って叫ぶ
なら、人々の注意を引き、また相手は、あとで証言されると困るから殺してしま
おうという殺意を抱くすきもなく最初から逃げるので、女の命は助かるでしょ
う。

ほとんどの場合、問題は、暴漢のおどしにはのらないということを見せつけるこ
とにあるのはたしかです。娘が叫べば暴行未遂で逮捕される恐れがあるからで
す。また、もしそのおどしを実行して殺人をしたなら、男はそのためにもっと重
罪に問われることを心配するかも知れません。もちろん暴漢は、すぐに逃げず
に、叫ぶのを止めさせようとしてたたいたり、ちょっとした傷を負わすかも知れ
ません。しかし、不道徳な男に従う恥辱とくらべるなら、そういう肉体的な傷を
がまんするのはささいなことではないでしょうか。

クリスチャンの婦人は、自分の処女性あるいは貞操を最後まで守る権利がありま
す。自分を犯そうとする者から、どれほどよく自分を守るかは、その人の勇気と
気転にかかっています。すでに述べたように、まず少なくとも叫び声をあげ、助
けを得るためにできる限りさわぎ立てて、暴漢を追い払わねばなりません。それ
が役に立たないなら、ほかのあらゆる手段を用いて自分の貞操を守る権利があり
ます。

この世代の道徳は、聖書がこの終りの時代について預言したとおり前例のないほ
ど低下しています。アメリカだけでも、一年に15000人-半時間に約ひとり-の婦
人が強姦されるという事実をみてもわかります。またそれは、危険を避けるよう
に注意しなさい、という婦人への警告です。婦人が襲われるのはほとんどの場合
ひとりのときです。ですから、とくに暗くなって外を歩くときは、連れと一緒に
歩くようにしなければなりません。昼間でも危険とされている地区では、婦人は
必ずほかの人と一緒に歩かねばなりません。神のことばはこう述べています。
「人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三
つよりの綱はたやすくは切れない」。(伝道、4:12、新口)女の人がしばしば襲
われる都市とか地区にひとりで行くと言い張るクリスチャンの婦人は、わざわざ
問題を起し、不必要に命を危険にさらす人です。特定の状態のもとで何が起るか
を考慮し、それに対して警戒することは知恵です。賢明な人は危険を見てそれを
避ける手段を講じます。「さとき者は自分の歩みを慎む」。

-箴言14:15、新口。≫

  

  わたしはついに長老にはなることができませんでしたので、ここに記述され
ている聖書的な根拠とされるものによって、実際に排斥された人が存在するのか
を確認できません。しかし、融通性がほとんど利かず、杓子定規に人を扱う組織
のことですから、これを根拠にして排斥処置をとられた人のいることは想像に難
しくありません。

  しかし、ここに示されている原則は変更されたと思います。それは2003年2
月1日号の読者からの質問で何らかの理由で声が出せなくてもやむをえない事情
があることが認められているからです。わたしの調査した限りでは実に39年ぶり
の変更なのです。CD-ROMで検索しても、このたぐいの出版物は見つけられません
でした。

  やむをえない事情のあることが認められてよい方向に向けられたのだからそ
れでいいじゃあないかという人がいるかもしれません。でも物事はそれほど簡単
ではありません。わたしは以前に主宰監督だった兄弟と食事をしたときに次のよ
うなことを話しました。



  わたしは研究生だったときにマスターベーションを淫行だと思い込み、自分
を非常に罪深い人間だと考えていた。でも、後ほどその思い込みが間違っている
ことを知った。だから、このように間違って理解し、思い込んでいる人は大勢い
るだろう。もし誰かが、審理問題として淫行の罪に問われ、本当はマスターベー
ションをおこなっているだけで、他の人が関係していないのに、あるいはまった
く性的な問題ではないのに、当人は淫行であると告白して排斥になり、後日その
審理が誤りだとわかった場合、無条件で復帰させてくれるのか?

  これを聞いて元主宰監督だった兄弟は、確かに調べてみると誤った審理のた
め無実で排斥された事例があったことを認めていましたが、無条件で復帰させて
くれるかどうかについては返事をしませんでした。

  

  わたしは今年の2月1日号を読んだときこれらのことを思い出したのです。39
年の長期にわたっておこなわれてきた、人を傷つける処置をあたかも新しい解釈
のように指し示し、以前の変更点を伝えずにこっそり変えてしまうとは!こうし
たことは近年おこなわれてきた、選挙について、兵役の代替勤務、成分輸血など
数えればきりがありません。

レイプなどはほんとうに恐ろしい経験で、出版物を読んで声をあげて抵抗しなく
てはいけないことを頭で知ってはいても、恐怖で身がすくんでしまい大声をあげ
ることさえできない場合もあるのではないでしょうか。今回の記事ではそうした
ことのあることが、はっきり認められています。今年の読者からの質問ではそう
した事情もあることが考慮され、39年前の記事と比べると非常に柔軟な考え方や
対応が示されています。最近の記事ですので部分的に引用してみたいと思いま
す。ものみの塔2003.2.1号31ページです。



≪申命記22章23-27節がどう適用されるかを理解するにあたって,この短い記述が
あらゆる状況を想定しているわけではないことを認識しなければなりません。例
えば,襲われた女性が叫べない状況については何も述べられていません。その女
性は口のきけない人かもしれず意識を失っていたり,恐怖で身がすくんでいたり,
叫べないように手やテープで口を無理やり覆われていたりする場合もあるでしょ
う。しかしエホバは,人の動機を含め,すべての要素を考慮できるので,理解と公
正をもってその種の事例を扱われます。「そのすべての道は公正である」ので
す。(申命記32:4)エホバは,実際に何が生じたかということも,被害者が力を尽く
して相手を退けようとしたこともご存じです。ですから,叫ぶことはできなかっ
たものの,その状況下で出来る限りのことをした被害者は,物事をエホバのみ手に
ゆだねることができます。一詩編55:22。ペテロ第一5:7≫



この記事で述べられていなくても、39年前はおろか人間の歴史が始まって以来、
口の聞けない人や耳の聞こえない人がいたのは当然のことです。聖書時代のイス
ラエル人の社会にもいましたし、何よりイエスがそのような障害のある人を奇跡
によって癒したことが聖書には記録されています。また、恐怖や何かの理由で声
を出すことができない場合もあるでしょう。わたしとしては、そのようなわかり
きった当然の事柄がなぜ過去において一言も言及されないのだろうかと思うので
す。そのようなわかりきった当然の事柄が考慮されずに排斥処置がとられたこと
があるのなら、恐ろしいことです。



冤罪、つまり無実の罪で排斥されることがあるのだろうかということを最初のほ
うで書いたわけですが、わたしの友人の親友にその処置が取られたということを
知りました。彼の親友が排斥されたということですが、この親友のところにひと
りの姉妹が訪ねてきて、その姉妹が玄関先で泣き出してしまい、彼に抱きついて
きたので両肩を抱いて引き離したそうです。ところが後日この姉妹は自分の会衆
の長老に“彼に抱かれた”と話したということなのです。そして、この出来事の
次の日に長老たちから呼び出されて、彼女を抱いたのだから排斥だと一方的に告
げられ、気の弱かった彼は自己弁護することもできず、その処置がなされたとい
うことでした。

後日彼は事実を報告して復帰することができたのですが、長老たちは審理問題の
誤りを認めることもなく、当然会衆にも復帰以外の発表はなされませんでした。

また別に、本人には実際に直接事実を確認もせずに排斥処置がとられたという例
もあります。

  わたしたち日本人の場合、ちょっとでも触れるとかなりの疑いの目で見られ
ますが、同じJWでも、外国人の場合は両肩を抱くぐらい何でもないことが多いも
のです。たしかに性的な関係を持つことを“抱く“とか“寝る”などと表現しま
すが、この場合は実際文字通り抱いたわけで、性行為をしたわけではありませ
ん。そうしたことの確認もせずに排斥に追い込むというのは、いったいどういう
精神構造の長老団なのだろうといぶかりたくなるのです。そういえば、JWの用語
で信者同士や未信者と交友関係を持つことを“交わる”といいますが、これなど
は、一般的には性関係を持つときに使用されると思います。中学生だったか、二
世の女の子が学校でこの言葉を用いたらまわりの人が驚いたといっていました。
わたしもJWと“交わり”はじめたころこれを聞いて、いったいなんだろうと思っ
た覚えがあります。

JWの組織がおこなう排斥処置のあり方についてもわたしなりに別の機会に考慮し
てみたいと思いますが、人間として生活し、生きている以上は個々の人としてど
うしようもやむをえない事情のあることは当然のことです。それを理解して思い
やりや憐れみという特質を十分に発揮して物事に対応していくことこそ、人間の
人間らしい生き方であり、キリストの特質を真に反映させた組織のあり方ではな
いでしょうか。

一世紀当時、パリサイ人たちは旧約聖書の律法を細部に渡って守ろうとして細か
い規則を作り上げ、人々をうんざりさせ、生活を息苦しいものにしてしまい、自
分では負わない重たい荷物を他の人に負わせました。キリストはこのことを非難
して、ほんとうの神の愛や憐れみを教えました。彼の教えた必要な原則はわたし
の読み取る限り三つぐらいしかないと思います。

「良心の危機」でも詳しく記載されていますが、統治体が読者からの質問を用いて
さまざまな性に関する規則を作り上げ変更していったいきさつがあります。それ
によって離婚問題に発展し、必要でない排斥措置や夫婦不和が多くもたらされま
した。規則がよい方向に改善されても、これらの感情的な痛みは元に戻せませ
ん。冤罪で排斥された人の無条件での復帰は聞いたことがありません。結局は組
織が神の教えにないことを、神の言葉を踏み越え、定めて実行したことに問題が
あったのでしょう。上のように記した性に関する事柄もJWの歪んだ教理と規則の
一面だと思います。

《編集者より》
この、レイプの被害者が叫んで抵抗する必要性の教えは、私も大変興味があり、これについて記事を書こうと思っていましたが、時間がなくてそのままになっていました。ラハムさんも言及されていると思いますが、排斥になった事例は、叫ばなかったことそのことを理由にしたのではなく、叫ばないことが淫行をしたことに当たるとして排斥になったのでした。この規則は上に引用されたように、2003年2月の記事で、はっきりと撤回されたようですが、その前にも幾つかの記事で、叫ばないことが淫行には必ずしも当たらないという記事は出ています。たとえば、1993年3月8日の目ざめよ誌、4ページは次のように述べています。

*** 目93 3/8 4 レイプの実態 ***
レイプ神話と真実

次に挙げるのは,昔からあるレイプに関する誤った考え方です。こうした考え方があるため,被害者は非難され,加害者の肩を持つような見方はいつまでたってもなくなりません。

<中略>

神話: 体を激しく動かして抵抗しなければ,レイプの被害者にも責任がある。
事実: 定義からすればレイプは,暴力や脅迫によって相手の意思に反した性交を行なう,またはそれに類する行為をする時に成立します。嫌がる相手に暴力を振るえば,その人はレイピストです。したがって,レイプの被害者は淫行の罪には問われません。近親相姦の犠牲者と同様に,相手が振りかざした力に圧倒されて望まない行為を無理やりさせられることもあります。恐怖におののいたり,気持ちが混乱したりしたためにレイピストの思いどおりになったとしても,女性がその行為に同意していることにはなりません。同意とは,脅されずに行なった選択に基づく能動的なものであって,受動的なものではありません。

ここでは、直接「叫ぶ」ことを述べていませんが、レイピストの言いなりになったとしても、淫行ではないとはっきり述べていることで、1964年の教義を否定しています。恐らく、目ざめよの筆者は、その29年前の教義をうっかり忘れて、「次に挙げるのは、昔からあるレイプに関する誤った考え方です」と言い切っていることです。ここにもまた、人間が作った、言ってみればいい加減で都合によって勝手に変えられる教義によって、無数の人の人生が左右された、あわれなエホバの証人の実態が見事に出ているのです。

しかし、このレイプの教義はこれだけでは終わりません。なぜなら、この十年も前に、既にものみの塔誌で次のようにはっきりと述べられているからです。

*** 塔83 6/15 30 敬虔な結婚を誉れあるものとしなさい! ***
無理やりに強姦された男性あるいは女性はポルネイアの罪があるものとはされません。
しかしその二年後には、レイプされかけたが叫んで抵抗して、怪我をしながらもレイプされなかったエホバの証人の体験談を掲載して、次のようにこのエホバの証人の口を通して教えています。
*** 目86 5/22 23 「よし,殺してやる!」 ***
でも,私は勝ったのです! 強姦されなかったのです! 勝利者であって,犠牲者ではないのです! 良心も汚されず,自尊心も尊厳も傷つきませんでした。そして全能の神エホバに対して忠誠を保ちました。
ここで上の申命記22章23-27節を引用した上で、目ざめよ誌は、この女性の口を通して次のように教えています。
私はこの簡明な言葉を知っていたことを心の底から感謝しました。この言葉は私に道徳的義務を教えてくれました。この言葉のおかげで,混乱することも,あいまいな態度を取ることもしなくてすみました。この言葉を知っていたために,なすべきことは正確に分かっていました。私は叫び,反撃も加えました。聖書の教えを信頼し,それが堅固な基盤であることに気づいていました。
つまり、この目ざめよの記事の主旨を裏返しにすれば、叫んで抵抗せずに強姦された女性は、「全能の神エホバに対して忠誠を保ちました」とは言えなくなるわけで、この記事を読む限り、たとえ強姦が二年前のものみの塔誌が教えるようにポルネイアの罪ではなくても、エホバの証人の女性は命がけで叫んで抵抗しなければならないということになります。これもまた、ものみの塔協会の見解が全く一貫していない、指導者の気分でどうにでも変えられるよい例と言えるでしょう。
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