「エホバの証人に傷ついて今は幸せなひとりより」

(11-9-03)


エホバの証人の情報センター様

初めまして。こんにちは。
私は日本に住む、8年前までエホバの証人だった20代の女性です。

何からお話ししたらいいのでしょう。
ついこの間、このHPをみつけ、このような問題をこのように取り上げている方が
すでにいたんだ!という驚きと、
でも、本当は巧みな現役のエホバの証人が作っていて、
エホバの証人の実態に気が付いた人、批判的な人を、割り出すものなのではないのか??と
半信半疑でした。

長くなるかもしれませんが、どうぞ書かせてください。
私にとって、もしもこの編集者の方が本当にあの組織の変革や、間違いを信じていてこのHPが本当なら
そこに、私の経験をお話する事ができて、聞いていただけるのなら
それは私の生きていく力に変わると、思うのです。

20歳の時に自殺未遂をしました。
その前まで私は子供の時から母に連れられて集会へ行く2世でした。
小学校、中学校、高校、学校での出来ない行事、周りの人たちと親密に関わる事を恐れながらの生活、
何よりも誰よりも自分達は「生き残れる」間違いのないグループ・・・と
あそこの「中」で教えられた事を、私も例外でなく教えられながら、
価値観として持って生きていました。

結構いい加減に集会へ通っていた方だったと思うのです。
ムッとして座っているだけだった王国会館での私や、「予習」は線を引くだけ、とか。。
でも高校生の時に、同じ会衆内に好きだった兄弟ができたり、友達の女の子が姉妹になったりと、
生活から離れない習慣となって、姉妹になりました。
望み通りの、あの価値観を持つ人間になっていったと思います。

ここから出たら「サタンの世」という恐怖感。
何より、母親の監視のまなざし。
その頃父は「未信者」でした。
夜の集会から帰宅が遅くなると、家に帰っている父親の不機嫌が恐くて、機嫌取りの様な存在の私と妹。
母は模範的な「エホバの証人」として育ったから!というわたしたち子供を見せたがっていましたし、
父にも信仰の問題以外では、あえて楯突かない「良い妻」をしていました。
いつか父も滅ぼされてしまうこの世じゃなく、こちら側にくるのが、「希望」だったのです。

条件付きで愛して、でも今思えば、愛はそんなもののはずはないのに。
世の中の平和を祈りながら、現実の世の中は嫌悪して、見下していた。
エホバの証人以外は「悪」だから、より一層集会の仲間は「霊的パラダイス」。迫害者に「売って」はならない「仲間」。
あの頃それが私たちの価値観でした。

だから、
会衆の中に「ひどい人間」がいるなんて信じられませんでした。
教えてもらっていなかった!
悪いものは「この世」にあって、この中は「避難所」とまで宣言していた会衆。
戦争が始まってエホバの証人が捕まり始めても、名簿を迫害に負けて手渡してはいけない、とか、
本当に、ものすごい個人的犠牲を強いても、守るべき場所と仲間だと教えられてきたのです。

18歳の時、専門学校に行くのに親元を離れて、行った先の会衆に行って、
その頃、まじめに姉妹をするようになってました。
父も、母や妹と時々集会に出るようになって。
研究もしたりして。いまの会社を辞めて、奉仕に費やす時間が取れる仕事に変えたらいいと、言われました。
でも幸運にも父は今もその時の仕事を続けていますが。

ある時、専門学校に行きながら、週3回の集会や、週末の奉仕に行く中で
とても性格の悪い最悪な開拓者の姉妹に、失礼な事を、「長老」がいない時によく言われたりするようになり、
でも、その開拓者は「模範的」な姉妹で通っていましたから、
その人に私が傷つけられているなんて、私自身信じられず、
ある日泣かされた時に、それを見ていたからと、頼みもしないのにわざわざ電話してきた他の姉妹が、しつこく私から理由を聞き出すと、
最後に、「この事は他言無用ね」と言ったのです。
口封じと、他の仲間の悪口(事実の報告であっても)は御法度、と、傷付いている人間に「わ」をかけていきました。

自転車で必死で通う私に、わざわざ呼び止めて極端なわけでもないのに
スカートの長さに意見を言うおばさん姉妹。でも私に口答えは許されず、かわすだけのユーモアもありませんでした。

地元に帰ったら、帰ったで、そこにいた、これまた開拓者で「尊敬」されているおばさんに無神経に接せられたのです。
でも誰も 『変!』とは言わない・・・
研究司会をどれだけした、経験者であるらしい、ということで量る価値観。


なんと表現したらいいのか分からない気持ちに私は病みました。

それでも集会に行く。あの場所に慰めがあると思っていたのか、
あるはずでしょうと、信じていたのか・・?
ただこの「世」には私の存在は許されていないのですから、そこしかなかったのですね。

第2会場にいるだけが精一杯になっても行ったりして、
涙が止まらず、からだが震え、訳が分からなかったけれど、ここの人、この周りが恐くて恐ろしくて泣いていました。
エホバの証人で精神科医の方の病院に行く事が出来て、
今の自分は「弱く」なったわけではないと、納得できて、
それで「お休み」を決め、
母も行った先の強い姉妹に傷つけられた私を分かっていたので、それを許してくれました。

そして20歳の成人式の日に、
私は気がめいっていたし、その時すでに内科で睡眠薬をもらって眠ったりするという状態だったのですが
成人式に行きたい、と思いました。
自分が今までの人生で関わってきた懐かしい友人の顔が見たかっただけです。
母に言うと、
あの嫌悪した表情を私に見せたのです。
エホバの証人の、あの価値観の、強制的な顔。この世への嫌悪感の顔でした。

私は「わかった」と答え、諦めて、部屋に戻りました。
もう十分だと感じていました。もう何も感じたくなかったのです。本当に。
それで、もらっていた睡眠薬を、そんなつもりはありませんでしたが、密かにためていたものを、ほとんど飲んでいきました。

でも、病室で目覚め、神経科に行き、薬をもらい、2週間後に退院しました。
退院して、私を苦しめたのは、あそこで培われた価値観です。
私を彼等がなんと言っているか、手に取る様に分かったし、
その後だったと思いますが、信じられない事に、私の自宅で書籍研究をする様になったのです。
私は追いつめられました。
母に叫びました。
父とも話が噛み合ない。
こんな貧弱になっている娘など、両親にとってもお荷物だと信じられました。

こんなところで暮していられないと思い、独り暮しを始めました。
ほとんど眠る生活でした。
自分を許せないプライドと、夜に家にいて父と顔を会わせなくてすむから選んだ夜のカフェのバイトを続けました。
本や、音楽と、絵と、私より先にとっくに集会に来なくなっていた男のこだけが電話をくれたりしたこと、
世の中で出逢った「好きな事を必死で追いかけている」素敵な人達。
そういうものに救われていきました。
素敵な生き方をしている人たちには、いままで知らなかった、手に出来なかった輝きがありました。
だれも自分だけが救われるなんて考えていない。
永遠に生きられる時が来るから、今はいいや、なんて言わない。
自分に敵対する人を、神に殺させようなんて思っていない。
表面だけの能面みたいな笑顔を素敵だと思わない。
本音を言う時に相手とぶつかるのを恐れない。
自分は、なんと感じているのか、なんて信じているのかが、自分に問われる生き方。


いままでになかった人や場所や、関わり方、考える事を通してだけ、私は生きる先を見つけようとして
支えられていました。
ただ、以前の価値観は恐ろしく私に襲いかかってきたので本当に消耗しました。
なんども彼等の残像のような「声」に「顔」に殺されそうになるのです。
私は「落ちたんだ」と。

そしてあの頃、集会に行けなくなった直後さえ、
子供時代から関わったあの、何よりも優先させられたあの場所の人々は、私に会いにもきませんでした。
私が嫌がるだろうと。
とても傷つきました。
私以外の心で、私以外からは、誰も会いには来ない関わりしかなかったという証拠でした。
それは、今の私にも傷を残しています。
だれも私に責めさせないのですから。
正しいとだけ信じてるのです。
何度か、昔関わった長老や、来た巡回監督(笑えますが)、友達だとおもっていた姉妹、兄弟に
会ったり、電話をかけたり、たたみかけたりしました。
彼等は、
心でひとの話は聞けない人だと解りました。
「本当のエホバの証人はそうではないのです」なんて言った人もいました。
だから私は言いました。
「今そうして信じていられるうちは幸せです。本当に独りきりになって、頼れるものが本当になくなった時に
 あなたが死ななければいいです」

子供時代からあんな価値観を持たされて、そのなかから分からないうち省かれて忘れられ、「世」と呼ぶ中に放り出された人間が
どれだけ生きていく事が困難にさせられているのか、彼等は、考えもしていないのですね。
フォローする機関も作らず、カウンセラーも置かないで、
人が費やした人生の時間を、なんと思ってもいないのです。
あんなものだけ教え込んでいくエホバの証人は、危険としかいいようがないと身をもって思います!

私の
嵐の様な「反抗期」と、目の前にさらされたエホバの証人の薄情さ、
そして、こんな娘でも、両親がもしもこれでも「信仰」をとろうとするなら、子供は目の前で死ぬんだ、という現実の年月の中で
私の家族は変わりました。
母はACプログラムに通う様になったり、私はカウンセリングを続け、父は必死で言葉をかけてくれて必要な支えをくれて、
妹も傍で同じ2世として育った傷を共有する、ほんとうの「証人」として傍にいてくれました。


だれも死なずにこの家族が家族でいられたことは幸運です。
ものすごい圧倒される以前の価値観と、薄情なエホバの証人の記憶と、この先の生き場所を探す困難に襲われながら、
ふと訪れる、穏やかな光みたいな感じられる支えは、私の感じ取れる「奇跡」だな、と思いました。
私は誰かが気づかってあたえてくれた優しさを
「神よね」なんて言葉で、チャラにして、遠い目で神様を信じると言ってきた彼等を、笑います。
そんな生き方で、生きているなんて、いえない。
愛も神も、そんなもののはずがない!

私は私が幸せになる事が「復讐」だと思ってしまいます。
まだ、許せないのです。
子供時代を返せと言いたい。
謝罪して欲しい!

謝らなければいけないのは、母や父や傷付いてその後出てきた人じゃないはずです!

父も母も妹も私も「目覚め」ました。

母は距離をおいて集会に時々行き今も気づかない彼等を情けなく思い、今もその中で傷つき病む人があまりにも多いので
「おかしいのは組織の方だ」と、証言したいと思っている様です。
でも私は、自分が最悪に大変だった頃、同じあの宗教を知る人から
慰められる事はなかったので、新たに生き場所を見付けた作業は孤独のなかでの事だったのです。
その孤独感はいまもフラッシュバックしてわたしを苦しめたりしているので
母であれ、私の苦悩から築いたエホバの証人の「おかしさ」から精神を守る術を、
私以後の他の、病んでいく人に優しさを分ける事を、私はどうしても快くは思えません。

今、本当にエホバの証人でおかしい人が多くなってきていて
傷付き病む人が多くなっているというなかで
私は、もう彼等に対して愛もありませんから、
自分の不安定な精神があの頃から感じ取ってやってきている不安定さだと気づくたびに、
あのエホバの証人が出し続けている結果として、病んだり、自殺者がいるというならば、
どんどん自殺者でもなんでも増えればいいじゃないか!!
それが答えじゃないか!!
と思ってしまうのです。
たとえ肝心な彼等自信が認めようとしなくても、
悲惨な気持ちに陥る方々が、本当はもっといきいきと生きられるのにと、かなしくなっても。

私の、孤独だった、その上、私がサタンの世の人になったと思われたという価値観からの傷が私をなかなか離さないのです。
もう8年も経つというのに。
どうにか好きな人生を送れる様になったというのに。

でも!
納得出来ない記憶を持ちながらもここまで来れたのです。
幸いにも、心強い見方もいるのですから、この先だって自分の人生を幸せにバランスを持てると私は信じようと思います。
そして、気が付きませんでしたが
同じ様にもう7年もこうして日本にこのようなHPで警告していた方がいたのですね。
何かあの組織は変わるでしょうか?
こんな傷を背負って価値観に殺されそうにならないで、人間らしく生きていける人が増える事を、
自分自身にも、
心から祈ってやみません。

大変長くなり、すみませんでした。
まとまらない部分も沢山あるのですが、あの組織と関わり過去に捕われて、いまだにくるしんでいる私がいる事を
知って頂きたいと思いました。

村本さま、とてもお忙しいと思います。
どうぞ、エホバの証人のうんざりする事件の為に、素敵な趣味の時間が削られ過ぎない事を日本から願っております。

オレゴンからの風景、また覗きにいきます。

                   エホバの証人に傷ついて今は幸せな ひとりより。


《編集者より》
あなたの体験は、「エホバの証人と精神疾患」のページに書いたことに大きく関係してくると思います。エホバの証人の教えと環境が、信者を精神病に追いやる傾向を持っていること、そして信者たちがそのことに気づかず、協会は適切な指導ができず、信者の精神疾患患者たちを悪化させていることです。ただ、あなたの闘病の体験を読んでみると、病気が全て悪い方向に働いたとも限らないかもしれないと思います。エホバの証人だけでなく、多くのカルトと言われる宗教から抜け出すことが出来た人々が、病気をきっかけとして宗教活動を一時的にせよ中止せざるを得なかったことがきっかけになって、自分の宗教を見直すことができたことで、その宗教の現実に目覚めることが多いからです。あなたが心も体も頑強な人だったら、今でもものみの塔の奴隷のように働き続けていた可能性はあるのではないでしょうか。いずれにしても、「今は幸せ」と言えるようになって、本当によかったですね。


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