「忘れられない蜜の味」−フリーダムより

(11-4-03)

日曜日の公開講演の話し手の最後の特権、その兄弟はその日の集会が終わる際の最後の祈
りの特権があるんだ。そして祈りがし終わって「アーメン」・・・。するとすぐに会衆の
たくさんの子供たちから姉妹たちから感謝されるんだ。祈りを終わってステージを下りる
か下りないかっていう時に、もうそこは自分の話しに対する「感謝のあらし」「感謝の握
手責め」・・・。たまらないんだなぁ−、このときの特別の高揚感、ああ,一生懸命時間
をかけて努力して準備した甲斐があったな,と。よーし、今度の次の公開講演の割り当て
も今回以上にがんばるぞーっ。
 
ある日王国会館で主宰監督の兄弟から声をかけられて,「兄弟,再来週の日曜日K北会衆
に出張講演に行ってもらえますか?」と。「え−ッ,いいんですか,僕みたいな者でも。」
と、一見謙遜ぶって答えるんだけど、本当の自分の心の中では,うれしくて,うれしくて。
「やった−」っていう感じで,もうその場で「小躍り」しそうなぐらいうれしくて・・・。
自分にはじめて回ってきた出張講演の特権。それはたまたまその会衆に行くはずだった兄
弟が都合で行けなくて,その他の兄弟もそれぞれ大会関係の準備の用事があり,たまたま
自分が代役として出張の特権がもらえたわけで・・・。「棚からぼた餅」でもいいんだ。
憧れの出張講演だったんだから・・・。
 
振り返ってみると自分が今まで準備してきた中でこの時の公開講演の準備が一番、「力」
入っていたな,何ていったって、あそこK北会衆には巡回区の中で一目も二目も置かれて
いるS兄弟がいるし、その兄弟の前で話すのだから緊張しっぱなしってなわけで。K北会
衆までには1時間もあれば行ける距離なのにあの時は前もって2時間も余裕を持って家を出
発し、王国会館近くのファミレスでコーヒー飲みながら講演の原稿に目を通していた。集
会の始まる二十分前ごろ王国会館に着いて玄関に入るなりみんなから歓迎の挨拶を受けた
んだ。それは自分にとって忘れることの出来ない「蜜の味」の経験だったな。あっ、いた
いたS兄弟、まずは王国会館の座席を確保しようと探しているとS兄弟が近づいてきて
「今日は楽しみにしています。」と挨拶に来てくれた。緊張したな,あの時は。あれだけ
準備に力を入れた講演だけに自分にとっても満足できる話しが出来た。そして,集会最後
の祈りを終えた後の「感謝のあらし」見ず知らずのたくさんの兄弟姉妹たちから感謝され
るんだ。「ありがとうございました。」って。あの時の気分は最高だった。講演の準備に
かけた沢山の時間と努力なんかもうぜんぜん惜しくなんかないんだ。この気分を味わって
しまった自分は今最高に自分の中の「自尊心」をくすぐられ、小さな「名誉欲」の中にど
っぷりと浸かっているんだ。
 
この蜂蜜にも勝る「蜜の味」は男性の兄弟なら本当においしいんだ。それは組織によって
「特権」と呼ばれる蜜の味。未信者のご主人も最初はこんな「蜜の味」が味わえると知ら
ずに組織の一員になる。そう,最初は誰もが純粋な動機、聖書の教えが家族のしあわせに
なると信じ,組織の教えである楽園を希望を抱いて純粋な気持ちで神エホバに一途に信仰
を働かせようと一所懸命,ただそれだけが動機だったんだ。
でもいつのまにか組織は自分たちの前に「特権」を捕らえなさい,捕らえなさいとしきり
に強調する、「あなたは捕らえようと努めていますか?」と。人間の,特に男性の究極の
欲望は「権力」と「名誉」なんだ。組織はこの権力欲、名誉欲を利用して組織に「忠実な
犬」として多くの兄弟たちを,いわば「飼い慣らす」ことに躍起になっているんだ。組織
の成員の増加と出ナ物の配布(寄付)の拡大のためだけに忠実に働く仕組み,そこは極め
て「封建的」な絶対主義的組織構造であり,組織の中枢部「統治体」を頂点とするピラミ
ッド型の階級組織なのだ。この中央集権的な組織の「底部」に兄弟たちはいやでも入らざ
るを得なくなっていくんだ。それは神権宣教学校に入る頃から,兄弟たちによる「特権争
奪競争」へといやとなく巻き込まれていくんだ。その競走に参加していくにつれ,いつし
か本来のキリスト教の「利他的な精神」は薄れてゆき,自分の権力欲と名誉欲ばかりを目
に留めてゆくような極めて「利己主義的」な精神構造に知らず知らずのうちに変えられて
しまってゆくんだ。考えてみてみると,一般社会で一人の男性が自分の人生の中で百人近
い人の目の前で話しをする、そんな経験を体験できるのはどれほどの確率なのだろうか。
しかも,その時にその百人の人たちから自分が賞賛され感謝される、そんな経験一般社会
ではよほどのエリートとして出世しない限りまず出来ないと言っていいかもしれない。今
まで普通のサラリーマン生活を行なっていた一人の男性が、ある時神権学校の割り当てを
果たした時、今まで人生で経験できなかった「賞賛と賛美のあらし」を経験する、その時
からその人は組織から与えられる「蜜の味」を経験するんだ。
 
一つ一つの集会の中にも確実に特権のランクが存在する。神権宣教学校では「第二の話」
を割り当てられた兄弟がバプテスマを受けて間もない兄弟か,バプテスマを受けていない
伝道者の割り当てられる特権。次は「第四の話」、そして「聖書朗読の目だった点」から
が奉仕の僕になった兄弟たちだけが果たせるようになる特権、そして神権宣教学校の中で
の最高の特権が「第一の話」そして,その集会で一番の頂点となる特権,それが神権宣教
学校の「監督」としての特権だ。この監督としての特権は準備にすごく時間を取られるけ
れどやりがいはある。なんといっても特権を果たす兄弟姉妹たちの話の助言をすることが
出来るからだ。続く奉仕会の集会の中でも特権のランクが存在する。この集会は奉仕の僕
と長老のみで進められてゆくもので、兄弟たちの中でこのプログラムのどの部分の特権を
果たすかが自分のその会衆の中の位置付け、つまり「ランク」を意味する一番気になる集
会だ。「発表」を扱う兄弟は奉仕の僕、続いて「質問と答え」この部分は長老か奉仕の僕
が扱う,やや中堅の奉仕の僕か主宰監督以外の長老が扱う。そして「聴衆との討議」、こ
の部分をもし奉仕の僕が扱えるとしたなら,それはもう「次期長老」のお声がかかる寸前
だといっていいだろう。こうしてこの「奉仕会」のプログラムの中で自分がどの割り当て
が割り当てられるのか,長老を狙っている奉仕の僕にとってはそれは一番気にかかること,
だから毎月の奉仕会の割り当て表が会衆の掲示板に貼られる時に,まず自分はどの割り当
てを果たすのかチェックし,その次にちょっと気になるライバル候補ともいえる「あの兄
弟」がどの特権の割り当てをもらったのかも目に留めておくんだ。主宰監督が選ぶその割
り当てでいつも「一喜一憂」して・・・。
 
「聖霊の任命による,聖霊の導きによって選ばれた」それぞれの特権の立場。組織はそう
教えるんだけど実際は極めて「人間的」さらなる上の特権を捕らえようとする兄弟たちは
組織のお望みどおり「行動に移し」会社を辞めて開拓奉仕の出来る仕事に変えていったり
し、上位の者の兄弟たちの「お気に入り」なろうと躍起になっていくんだ。特権の任命、
それは不完全な人間が不完全な人間を「査定する」過程に過ぎない。しかもそれは組織の
都合に左右され,組織にとって必要とされたときに「その数を満たすため」だけの理由で
あったりするんだ。自分の人生全てを犠牲にして,組織の「特権」それだけのために生き
てきたいわば「古参」」の長老たちはある時,自分のその得た特権がいつまでも永久に約
束される立場なのではないことに気付く。組織の成員が増加傾向にある時はまさにそれは
「需要と供給」の関係で空いている椅子にどんどん新しい長老が任命され増やされてゆく。
しかし現在の日本の伝道者の数の低迷が続く現状ではそれは無理、さらに「MTS」なる次
期幹部クラスのために養成されてくる若い長老たちが次々と現れてくる中で、組織はそれ
らの若い長老たちにその特権を与え続けなければならない。したがって今まで重要な特権
に預かっていた古参の長老たちの「査定価値」は必然的にどんどん下がってゆき,その甘
い蜜の味にあり付けることはいつまでも続くものではない。そしてそれは「使い捨てカイ
ロ」のようにいずれ何らかの理由で特権を下りる時自分が単に組織から利用できる時に利
用されていただけの存在だったんだということにいやとなく気付かされるのです。その兄
弟の特質がどれだけ「霊の実」にあふれていようと,どれだけ会衆の中の弱い立場のお年
よりや病気の人に声をかけてあげたり,援助を差し伸べていたとしても,それは意味をな
さないのです。要は組織の拡大に必要な状況が生じた時にある兄弟がピックアップされ、
組織の出版物の配布に多大な貢献をしたことを証明した兄弟たちが組織によって高い評価
を得,特権を与えられていく極めて人間的なものなのです。
 
会衆の中の特権で一応長老になり,主宰監督の立場を得ることが出来たとしても自分の中
の名誉欲はそれで満たされるものではなく,今度は巡回区の中でさらなる特権を欲しがる
ようになり,それは何千人もの前で話をする地域大会での特権を目指す、次から次へとそ
の「名誉欲」は麻薬のように中毒となり,それはたしかに甘い蜜の味がするのだけれども
その陰で実際は,それは重い病気,「権力病」ともいえる病に侵されていく。地域大会や
国際大会で大会監督となり,会場をプログラム中まるで「大名行列」のようにお供の者を
ぞろぞろ従えて視察に回る、尊大で横柄な態度で連れ歩く一人の兄弟の姿を何度目撃した
ことだろう・・・少なくともその大会会場においては唯一自分が敬意を全ての者から得る
に値する者なのだということを強く意識し,その大会における人事を含めた特権の任命,
取り消しの決定権は自分にあるんだぞと、そしてその会場では自分が「神」を代表してい
るに匹敵する立場と権力を有しているというような錯覚に陥り・・・、完全に「権力病」
に侵されている。
 
今になってはくだらない「特権」、自慢にもならないけれど自分の中での権力病にかかり
始めたのは巡回大会での「実演」の特権の割り当てを果たした時からだったのかもしれな
い、高校生の時だった。割り当てを果たした後,大会でみんなから感謝されたんだ。自分
の中の「名誉欲」なんてけっして意識していたわけではなかったけれど,とにかく「気持
ち良かった」甘い蜜の味を感じ始めたんだ。それからはたくさんの特権を意識するように
なっていった,大きな大会で「経験」を話す若い兄弟姉妹たちがあこがれだった。高校生
の時となりのクラスメートに証言をして研究を取り決め,そのクラスメートは高校卒業後
バプテスマを受け自分と同じ開拓者になったんだ。高校生の時のその業績(非公式の証言)
がやがて巡回監督に知られるようになり,その「経験」は千葉の松戸の競輪場での地域大
会で話す特権となり、一万人以上の集まる聴衆の前で話す特権はなんともいえない蜜の味
がした。それからは次から次へと「進歩」してゆき、奉仕の僕になり,必要な会衆へ移動
し・・・、この特権を追い求める生活はずっと続くものと思っていた。それが唯一「やり
がい」だったから。 
 
スティーヴン・ハッサン氏の「マインドコントロールの恐怖」の本に出会ってからは、こ
の甘い蜜の味は自分の中で「非常に苦い味」に変わっていったんだ。だんだんと自分の中
で「特権」の価値がどんどん下がっていき,その特権を果たすことが苦痛になっていった。
もはや会衆の集会で立派な注解をすることもばかばかしくなっていったし,自然とものみ
の塔の研究記事の予習も「答え」と思える活字、そこにただアンダーラインを適当に引く
だけのものになっていった。正規開拓者としての特権も下り,それから数ヶ月後会衆の群
れの書籍研究の司会の特権も新しい兄弟に代わった。ちっとも「惜しい」とは思わなかっ
た。逆にうれしかった。ああ,またひとつ特権を果たさず済むんだ、という「開放感」で
いっぱいだった。書籍研究の司会者を下りてから数ヶ月たったある日、新しく代わった司
会者が自分のところに来て「兄弟、今度MTSに招待されたのでわるいんだけどその間自分
の代わりに司会代わってくれないだろうか,と」MTSに招待されたことがうれしいことが
その兄弟の表情で見て取れた。ぜんぜんうらやましくなかった,かえって心の中で「かわ
いそうに」と感じてしまう自分がいた。逆に「いい迷惑だな」なんて考えながらOKした
んだ。その兄弟がMTSに行っている間,たしか1ヶ月近くだったと思うけど、その司会の代
役を果たすことが辛くて,辛くて。「早く帰ってこないかな」と心待ちしていたんだ。は
じめて出張講演の特権をもらった時は、あれもたまたま自分に回ってきた「棚から落ちて
きた餅」だったんだけど、今度はそれが自分の中で百八十度違った反応を示している。あ
れは自分にとって最後の「巡回大会」だったな。1日目の大会に出席して、あらためて
「蜜の味」に浸りきっている兄弟たち冷静に観察していたし、より重要な特権に浸りき
っている兄弟たちが「パリサイ人」のように自分の目に映った。そして,もうこんなくだ
らない場所,無意味な場所に自分が居ることが腹立たしくなったんだ。次の日は自発奉仕
の特権も放棄して一人車でスキー場に向かったんだ。「ああ、もうダメだ,これ以上自分
をだましつづけられない、と」
 
組織が自分たちをだまして組織の拡大と出版物の配布による寄付の増加を推し進めている。
では,その動機は何なんだろう,統治体の兄弟たちが何らかの金銭をくすねているような
証拠もないし、豪華な家に住んでいるのでもない。しかし,真実な事が一つある、それは
人間の究極の欲望「権力欲」と「名誉欲」だ。この欲望はなにも「ものみの塔」の組織だ
けに存在する者ではない。あらゆる人間の組織の中でそれは見られ,皆が組織の頂点を目
指しあこがれる。でも「ものみの塔」の組織の中に見られる「名誉欲」は特別な名誉欲で
はないだろうか。それは,組織のピラミッドの頂点に近づけば近づくほど「神」のように
なれるという事だ。エホバ神だけが受けることの出来るような「敬意」と「尊敬」、そし
て「自分たち組織とその代表者に信仰を働かせなさい」(ものみの塔1984年7月1日号P15)
などと言いはばかるようになり「立場を踏み越える」ところにまで行ってしまうのである。
ちょうどサタン悪魔がエホバ神と同等な自分が神のような存在になりたいと考えたように。
 
pfreedom@nifty.com

《編集者より》
最近の他の投書にも書きましたが、宗教は本来個人に属するものであるのに対し、巨大で高度に組織化されたエホバの証人のような組織宗教では、その本質は社会政治活動と変わらないのです。あなたがご自分の経験から克明に描写された、エホバの証人内での権力志向、特権の蜜の味は、まさに組織化された宗教は、ものみの塔も含めて例外なく、世俗化し社会政治団体の性格を完備して、やがて共通の腐敗と堕落への道を辿るのということを示しているのではないでしょうか。聖書の時代から現代まで、宗教団体の腐敗は歴史の中で常に繰り返し続いています。