「バプテスマ問題」と「レイモンド・フランズ事件を知って」に対して−ラハムより

(10-13-03)

真実兄弟と物事兄弟に質問された方へ ならびに

フランズ事件に関して投書された方へ-ラハムより



  わたしは9月にエホバの証人と性の問題に関しての投書をさせていただきま
した。今月はその二を投書するはずでしたが、10月の投書を読んでいて上記の二
つの投書に関してどうしても気になってしまい、こちらのほうを書いてみたくな
りました。

  わたしは物事兄弟や真実兄弟ほど分析力はありませんが、集会の出席に関し
て知っている限りのことを記してみたいと思います。



  まず最初におよそ20年の長期にわたり、辛抱してこられた姉妹とご主人に深
い敬意とねぎらいのことばをお送りしたいと思います。ほんとうにこれまでよく
耐えてこられました。

  組織が研究生に対してバプテスマを受けるための条件を記してある主な出版
物は「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」1983年版、1989年版です。
それ以前には「王国を宣べ伝え、弟子を作るための組織」1973年版です。これら
二冊はライブラリーのCD-ROMには収録されていませんので書籍を直接見ることが
できます。これら以外は王国宣教やものみの塔で公表されていると思います。わ
たしは長老ではありませんので見ることができませんが、協会から長老団宛に来
る手紙にそうした指示があるのではないでしょうか。

  まず「奉仕の務め」のp99では「その人は、会衆の集会でエホバの民と交わ
るようにという聖書の命令に従っていますか(健康その他の事情から見てそれが
できる立場にいるなら)」と記されています。

  姉妹のご主人はご自分のほんらい行くべき会衆の集会に出席できず、かつ神
権宣教学校の割当が果たせないということで、伝道者になれず、バプテスマをも
受けられないということでした。聖書を直接読む限り、そうした条件をしるして
ある箇所はありませんが、JWの組織と交わる人々は研究生が俗に進歩して伝道者
になる前にすべての集会に定期的な出席をしていることを期待し、また望んでい
ます。

  実は、わたし自身がこの集会に関して定期的な出席というのは、どの程度の
出席であるかを20年ほど前に出席した開拓奉仕学校で教訓者の兄弟に直接尋ねた
ことがありました。それは、週に一度、五つある集会のどれかひとつに定期的に
出ていればよいということに変更はないはずだ、というものでした。その根拠と
してお聞きしたのが、わたしの記憶違いでなければ「弟子を作るための組織」の
ほうだったのです。この記述は「務め」のほうにはありませんでしたので、「弟
子」のほうで確認してページまで教えていただいたのです。

  要するにどれかの集会ひとつおよそ1時間を定期的に出ていればよいという
ことでした。姉妹の投書を読んでこうしたやり取りのあったことを思い出し、自
分で根拠の出典をもう一度確認しようと努力したのですが、どうしても見つけら
れませんでした。

  もちろん、二冊の書籍に出ているように健康や他の事情がよければというこ
とですが、わたしはこれらの実例を知っています。ただし、老齢と生まれつきの
障害で自力で動くことが困難であった場合ですので、すべてが姉妹のご主人に当
てはまらないであろうと思いますが、週に一度だけの出席だったことは共通して
いる事例です。

  もう25年ほど前の1978年ごろでした。その方は70代のおばあさんでしたが孫
のような開拓者の姉妹と研究してバプテスマを受けました。高齢だということで
通常日曜日に開かれている、公開講演とものみの塔研究だけ定期的に出席し、夜
の集会には出たことはありませんでした。バプテスマを受けてから、わたしは一
度だけ神権宣教学校の割当を果たしたのを目撃したことを覚えていますが、この
割当のときに話の資料の箇所を間違えてまったくちがった内容の割当を果たした
ことが印象的でした。この姉妹の場合、神権宣教学校に入校せずともバプテスマ
を受けることができたのです。

  さて、姉妹のご主人は20年ほど前から研究されているということですが、わ
たしの友人である姉妹たちは二人とも同じ施設で生活しているときに研究に応じ
バプテスマを受けました。それは1983年ごろですのでちょうど20年ほど前です。
彼女たちは、生まれつきの障害のため自力で起き上がることができずに、他の人
に介助されて横になった状態で車椅子に乗せてもらう必要があります。施設の時
間制限で夜の外出は無理だったようです。神権宣教学校は特例で、日曜日の集会
のあとに10分ほどの時間を割いて彼女たちだけの割当を果たすことができるよう
にされていました。

  さらに、大学の寮に入っている姉妹たちも門限があり、どうしても割当を果
たすことができませんでしたが、バプテスマを受けて献身することが可能でし
た。わたしの所属している会衆で幾人もこうしたことはあったのです。



  たしかにこれらの例は仕事によって集会に出られなかったわけではありませ
んから、姉妹のご主人には直接当てはまりませんが、それでも、全部の集会に出
席することや神権宣教学校の割当を果たすことが、伝道者になりバプテスマを受
けることの絶対的な条件ではないことをあきらかにしているのではないでしょう
か。

  組織が定期的な集会の出席を奨励する聖句としてヘブライ10:23から25がた
びたび引用されますが、そこではある人々が集まりあわないことを習慣としてい
るので、そのようなことをせず、集まりあって励ましあおうではないかというこ
とだと思います。組織は自分たちの行なっていることが一世紀のクリスチャン会
衆にいかに倣っているかということを強調して、多くの聖句を引用し、集会の型
を例示しますが、神権宣教学校のような話し方の訓練の例は聖書にあるとは思え
ません。まして、ものみの塔出版物のようなものを配布することなどはまるであ
りません。印刷技術なんてほとんどない時代のことですから、もしその技術が
あったら一世紀に人々も用いたであろうと強調するだけです。もし当時に倣うの
であれば、巻物の聖書はあったでしょうから、聖書だけ使えばいいのにと思うの
です。

  わたしも20代初めにバプテスマを受け、会社勤めをしましたが、仕事の内容
や遠いことから夜の集会に遅刻ばかりをして悲しかったことをよく覚えていま
す。おいそれと仕事を変えることもできませんでしたので長老に相談に行って冷
たくきつい助言をされたことがありました。結局提案はするけれど、実際的な助
けは得られないのです。

  姉妹の投書からご夫婦が長老たちから好まれていない、いやむしろ嫌われて
いるような印象さえ受けました。この是非はともかくとして、わたし自身も聖書
に述べられていないことと、聖書には直接記されていはいないが聖書的な根拠が
あると主張する組織の提案のはざまで多くの良心の葛藤を経験して苦しみまし
た。それで、結局のところ、聖書に忠実にしたがって、いや人間として良心的に
生きたいと願う人はエホバの証人ではいられないというのが、現在のわたしの結
論です。それで、エホバの証人の組織として公表していることと、隠されてきて
わたしたちが知ることのできなかった事実を慎重に吟味してバプテスマを受ける
ことを検討することをおすすめしたいと思います。



  レイモンド・フランズ事件を知って投書された兄弟の質問について深く考え
させられました。以下のように問いかけておられますね。



《でも、組織の中枢部にいる”イエスの兄弟たち?”の実体を見過ごして本当に
いいのでしょうか?時の経過と共に忘れ去って良いものでしょうか?

冷酷な扱いを受けた聖書研究に熱心だった方々のことを自分に関係のない人たち
と考えたり、あるいはそれと同等の態度を示したままで、純粋な動機を抱きなが
らこの組織の指示に従って奉仕を続けることをどう考えるべきなのでしょうか?
ましてや、長老の立場で良心的に奉仕できるのでしょうか?

繰り返しますが、大部分の仲間たちは何も知りません。ただ聖書そのものの希

の音信に喜びを見出しているだけです。その人たちは知らないまま、いわば、”

だまされたまま”の方が幸福なのでしょうか?お願いです。教えてください!ど
うすべきかというよりもどう感じておられるかにまず関心があります。》



  わたしは去年の今頃、仲のよい仲間の兄弟からこのウェブを知らされ、読み
すすめるうちに呆然としたことを覚えておりますので、兄弟の気持ちはよく理解
できます。そのころから、集会に出席しても話など聞いておらず、腕組みをして
じっと考え込んでおりました。また、奉仕の僕として書籍研究の司会者でしたの
で、自分が偽りだと気がついたことを教える立場にいることが苦しく、当たり障
りのないしかたでこの立場を退く方法がないものかと模索していたのです。

  わたしも自分が知った事実を声を大にして話したいという衝動はあります。
しかしながらそれは非常に危険なことです。わたしの経験したことで、ひとつの
会衆内においてさえ、その会衆で長老たちが行なっていることが聖書でなく、王
国宣教の指示とは違うことを指摘して質問することでさえ、物議をかもし出し、
悪者扱いされる雰囲気が生じるのです。ましてや、統治体に対する疑念を話すこ
となどは、よほど柔軟な考え方の長老たちに恵まれない限り、審理問題にされ、
背教者のレッテルを貼られるでしょう。

  内部改革の傾向がどこかにあるとは聞いていますが、現時点では会衆内でさ
えも内部改革は無理だとわたしは感じています。でも、これはできることが何も
ないということではありません。わたしにも会衆内の矛盾を話してくる人がいま
すので、それについて当人が感じていることの正当性について認め、背教者であ
ると感じさせない程度に組織の矛盾点を話してあげることにしています。わたし
としては、人間として良心的に生きようとし、自分に感情障害を生じさせないた
めに、この組織にとどまり続けることは無理であると判断していますので、まも
なく去っていく予定です。わたしにとって、自分と仲間の兄弟姉妹たちをだまし
続けることはできないことだと感じています。

  ウェブで組織がわたしたちに隠してきた事柄を知ったとき、どうせなら死ぬ
までだまし続けてくれれば楽だったのに、とさえ感じたのを覚えています。多く
の人は真実から目をそむけて、目をつむりたいという傾向があると思います。真
実を知って、それを認めて受け入れ自分を調整していこうとするのは苦難と苦悶
の連続でしょう。大きな葛藤と苦しみがあると思います。困難に立ち向かってい
く勇気と努力が必要です。組織から出ようとする人はこのような特質を持ってい
る人が多いと思います。

  世の中には実にさまざまな宗教があります。JWもそのひとつですが、それら
の宗教内で幸福を見出している人がいるようにJWの組織で幸福な人もいるようで
す。わたしは自分が組織について感じていることを長年の友人に話しましたが、
彼女はこの組織にいて幸福に感じているということでした。多くの人はだまされ
ているのかもしれませんが、人々の精神的な特質や傾向によってはJWのような組
織に所属することが必要なのかもしれません。JWの組織事情を知ってしまうと他
の宗教組織と大差はなく、きわめて人間的、世俗的だという結論になるのです
が、そこで幸福に感じている人のいることも事実ですから、それらの人であれば
自分たちの望むようにすればよいと思います。わたしは組織で幸福に感じている
人にやめさせようと仕向けるつもりはありません。

  それで直接的には改革することは危険ですので、インターネットという文明
の利器を大いに活用して事実を公表し続けることが安全で懸命だと思います。

ご意見やご感想を聞かせていただければ幸いです。

kenbouoh@ybb.ne.jpです。

《編集者より》
エホバの証人の組織の中にいて幸福な人が多くいることは間違いありませんし、組織に入っていることがその人の最大の心の支えになっている人、組織がなければまともに生きていけないであろう人がいることも間違いないと思います。それだからこそ、私はエホバの証人の組織は今後も決して消滅はしないし、今後も一定の勢力を保ち続けるであろうと思っています。エホバの証人に限らず、どんな宗教もそれを力によっても言論によっても排除することはできませんし、そのような努力は無駄に終わると思っています。より大事なことは、最近の社会で一般的になってきた「情報の開示」ということでしょう。役所や会社と同じ様に、宗教団体も内部を完全に開示し、その上で選択の自由を常に保障することが大事なのだと私は思っています。その情報を見るかどうか、それをどう解釈するか、それも個人の自由ですが、少なくとも情報は求める人には直ぐに与えられるようにしておくべきでしょう。その意味でインターネットは画期的な道具なのです。そしてその上でその宗教に留まるか出るかは、全て個人が自由に決めるべきことだと私は思っています。