「(・・・)をあなたがたの中から除きなさい」−フリーダムより

(9-30-03)


「その邪悪な人をあなた方の中から取り除きなさい」コリント第一5章13節にはそのよ
うに書かれています。,それは「清さを守るために。」神の組織の中の清さを守り,会衆
の清さを守るために。その「清さ」を守るために設けられた組織の取り決め。それは「神
の聖霊により任命された」長老たちによる「審理委員会」による,あの恐ろしい「聴問会」
・・・。統治体の成員レイモンド・フランズ兄弟の時も,そして北海道の広島会衆で起き
た事件の時も、それは開かれました。それは会衆の「清さ」を守るという「大義名分」の
名のもとに・・・。そして,それは私の身近な家族の中でも起きたのです。以下に書き綴
った私の経験は特別な事例といえばそうなのかもしれません。すべての巡回監督が同じわ
けではありません。事実,わたしの今まで接してきた,見てきた巡回監督はその誰もが謙
遜で一途に、訪問する会衆のために仕えていた兄弟がほとんどでした。
 
それは,新たに私たちの巡回区に任命された一人の巡回監督、****兄弟の主導のもと
巡回訪問の時に引き起こされました。その兄弟のうわさはすでに、その兄弟が任命されて
私たちの会衆に巡回訪問に来る前に近隣の会衆から伝わってきました。「名は体を表す」
というようにまさにその兄弟は「明治憲法」そのもののような兄弟でした。聖書の知識
(組織の教える出版物からの)に通じ、その兄弟が話す聖書からの話はとても感心し、思
わず聴衆を「うならせるような話」をしました。しかし組織の「上位」の立場の者に対し
ては謙遜に振舞いますが,「下位」の者に対しては、まさに巡回監督風を吹かせ、自分の
権威を振りかざす,そのような兄弟でした。王国会館で開かれた「開拓者学校」で前列に
座った若い兄弟が、緊張して少しも手を上げて注解に参加できなかった時,その巡回監督
は怒鳴りながら「たぬきの置き物でもあるまいし、後ろのほうで寝ていなさい !」と言
い、その若い兄弟はとてもショックを受けました。十代前半の若者が王国会館でその巡回
監督に歓迎の握手をしようとして手を差し出すと、その巡回監督の兄弟はその若者に「年
下の者が最初に手を差し出すものではなく、年上の者が手を差し出してから、はじめて手
を年下の者が差し出すものなのだ」と冷たく「常識」を説いたのです。長老と奉仕の僕の
集まりの時も,その兄弟はテーブルの前にふんぞり返り、聖書の一節を開き,とても長老
たちも答えられないようなむずかしい質問をわざと用意し、それに誰も答えられないと
「ちゃんと個人研究をしているのか」と言わんばかりに自分の知識をひけらかし,上から
下に言うようなものの言い方で、それが自分よりはるかに年長の年をとった兄弟たちに対
してでも「教えてやろう、とする態度で」教えるのです。それと違って、自分にへつらっ
てくる「お気に入り」の長老には巡回区内で良い待遇,つまり「特権」というものを用意
しますが、ひとたびその「逆鱗に触れる」とたちまちその特権は剥奪され、長老の資格そ
のものを危うくするようなマイナスとなる「短所」を探り出し、その兄弟を長老の座から
引きずり落とそうとするのです。事実,私のお世話になった身近な主宰監督の兄弟はその
巡回監督によって,自尊心をボロボロにされ長老の特権を下ろされ、「うつ病」になって
しまいました。その兄弟は現在でも治らず治療中です。そして、そのうつ病にされた兄弟
の代わりに主宰監督として新たにわたしたちの会衆に派遣されてきた兄弟は「口も八丁手
も八丁」、その巡回監督に「しっぽを振る犬、ポチ」のような「忠実な」兄弟でした。
 
私の兄は高校卒業後,すぐに開拓者になり数年後特別開拓者として東北地方のある会衆で
働きました。数年間その会衆で働いた後体調を崩し,地元の会衆に戻ることになりました。
長老として働いていましたが兄は会衆の書記として奉仕していた時に,協会との事務手続
きでトラブルを起こしてしまい(協会へ送っておくべき雑誌の予約された申し込み用紙
「数枚」が兄の机の引き出しに保管されたままで,3ヶ月間放置してしまった、兄は協会
からそのことで連絡が来るまで気がついていなかった)、私の父親の説得もあってそれが
原因で自ら長老の特権を降りたのでした。その時はすでに結婚をし家族を持ち二人の息子
の父親になっていました。そして,巡回監督である**兄弟が訪問してきた時にはすでに
姉妹のお腹の中に女の子が宿っていたのでした。 
 
**兄弟が私たちの会衆を訪問をした2巡目の時、群れの何組かの家族で水曜日のお昼の
食事招待をしようと取り決めました。私の兄の家族もそれに参加し,私もたまたまその中
にいました。食事中、話しの話題がつぎつぎと移っていく中でその巡回監督の兄弟が、私
の兄が以前特開時代奉仕していた東北地方の同じ会衆で奉仕していたことがあるというこ
とがわかりました。そして、まさにその時兄の出したその言葉(会話)が、巡回監督の逆
鱗に触れてしまったのです。巡回監督が昔のその会衆の一人の年老いた姉妹のことをみん
なの前で話し始めました。その姉妹が年老いていながらも,熱心に会衆の広い区域を歩い
て奉仕していること,その姉妹が裕福でありながらも自分の子供からエホバの証人になっ
ていることを激しく反対されてそれに耐えつづけたことなど・・・。その時兄はその巡回
監督がどんな兄弟なのかを知っていませんでした。兄はその時の「その場の空気」が読み
きれていなかったのです。だから、兄はその話に「付け足す」ようなことを言ってしまっ
たのです。当然なことながら兄もその年老いた姉妹のことを知っていましたし、兄のほう
が姉妹が聖書を学び始めた初期のころからのことを詳しく知っていたため、巡回監督も
「知らない」励ましの情報をその時みんなに話したのです。私は心の中で「まずい」と思
いました。一時的であってもその時のみんなの注目が巡回監督から私の兄に移ったのです。
言わば兄はその時巡回監督の前で「先輩面」をして振舞ってしまったのです。巡回監督の
表情が変わっていました。兄を見る目が違っていたのです。以前は特開の経験があったと
しても、以前は長老として奉仕していたことがあったとしても,今となっては「ぺいぺい
の」平の兄弟が口に出してはならないことだったのです。
 
木曜日の奉仕で私は**兄弟と群れの奉仕で一緒になりました。援助こそ受けませんでし
たが、その群れの奉仕の司会もしていました。奉仕をしてしばらくして巡回監督が私に近
づいてきて「兄弟,お兄さんはいつもどんなテレビを見ていることが多いいですか?」と
質問してきたのです。私はその時,その質問の意味がわかりませんでした。兄の見るテレ
ビが何の関係があるのだろう。その質問の意図を探ろうとして私の頭の中は?マークがぐ
るぐる駆け巡りました。私は「兄は普段あまりテレビは見ないほうだということ,見ると
してもNHKの科学ドキュメンタリー番組ぐらいなこと」を話しました。事実それは本当の
ことでした。姉や私がテレビの歌番組を見ている時でも,流行のトレンディードラマ番組
を見ている時でも、隣の部屋で一人机に向かい、兄はなんというか「学者肌」タイプで黙
々と難しい本を読んでいるような,そんな兄だったのです。巡回監督にそう素直に答える
と監督は「なにかお兄さんは悪霊の影響を受けているような気がする」と言ってきたので
す。私は思わず「えっー !」と大きな声を出してしまいました。「悪霊の影響を受けてい
る・・・」私は、何でそんなことを言ってきたのだろう、私はその日ずっと考えてしまい
ました。そして兄がそのように言われたことをとても悲しくなってきてしまったのです。
次の日の金曜日の午後私は親しくしている意気の合う一人の主婦の姉妹から巡回監督が私
の兄のことを援助の取り決めのある一人一人の姉妹たちから聞きまわっているらしいとい
うことを教えてもらいました。その主婦の姉妹は巡回監督に兄が「今までに不道徳的な傾
向の思い当たるふしが無かったか」、聞かれたというのです。なんということなのでしょ
う,巡回監督は会衆の兄弟姉妹たちを励まし,牧羊(傷ついた羊を癒す)の業が本来の訪
問のための目的なのではないでしょうか。**兄弟はこの訪問期間中私の兄のあら捜しに
全精力を注いでいるのです。
 
金曜日の夜、私は奉仕の僕と長老の集まりに参加するためT兄弟の家に私はいました。集
まりでは相変わらずの横柄な、そして威圧的な態度で終始行なわれてゆきました。そして,
その後に行なわれる長老たちだけの集まりのため私たち奉仕の僕だけが帰ろうとしたその
時、私の兄がT兄弟宅の玄関に入って来たのです。何でこんなところにいるんだろう,と、
その瞬間頭の脳裏にいやな予感がしました。巡回監督が兄のことで何かを聞き出していた
のは知っていました。何のために呼んだのだろう、「どうしたの?」とっさにそう聞くと
兄は「自分でも良くわからない,突然さっき電話があって呼ばれた」と言いました。兄は
「キツネにつままれた」様子でした。私は帰ってから兄のことが気がかりでなりませんで
した。そして兄が帰ってくるまでずっと待ったのです。兄は2時間位して自宅に帰ってき
ました。そして私にその2時間を話し始めたのです。
長老たちと**兄弟のいる部屋に入るなり**兄弟は兄に「兄弟,兄弟はなんか私たちに
言うことがあるだろう」と言ってきたのです。兄は自分がいったい何の目的で呼ばれてい
るのかも知らされず,頭がパニックになっていたのです。「何か言うことがあるだろう」
という言葉に兄は言い返す言葉が見つかりませんでした。しかし,その時の異様な「雰囲
気」は感じ取ったのです。テーブルの前に座って兄がそのことで聞き返すと,**兄弟は
「胸に手を当てて考えなさい!」と強い調子で言いました。少しの無言の時間が過ぎた後,
巡回監督の隣にいた主宰監督の長老が兄に「兄弟は最近H姉妹の娘さんであるM姉妹の髪の
毛を触りませんでしたか?」と、突然質問をしてきたのです。そしてM姉妹を最近不道徳な
目でじっとながめていることもある・・・と。兄にはまったく身に覚えがありませんでし
た。すかさず「いや,そのようなことをしていません。」と否定したのです。しかし,兄
は今起きていることが「審理委員会(聴問会)」ではないかと察したのです。証拠となる
事実は何かと兄が尋ねると,それは単に「本人であるM姉妹から聞いた」、というだけで
した。二十分ぐらいのやり取りの後,事態は変わりました。それは兄が、もしこの件が事
実だとされれば「上訴」の手続きをしたいと申し出た時でした。兄は昔長老をしていたの
でそうしたときの「手続き」を知っていたのです。その「上訴」という言葉が兄の口から
出た瞬間,**兄弟はその部屋に一緒にいる長老たちに「今からすぐに2階の部屋に移動
してください」と言いました。巡回監督と長老たちがT兄弟宅の2階の部屋にすぐに移り
階段を上っていってしまいました。そして1階のリビングの部屋に一人私の兄だけが取り
残されたのです。三十分以上待たされてから**兄弟と長老たちが2階からリビングの部
屋に下りてきました。そして,**兄弟は今までの話がまるで無かったかのように、たわ
いもない「世間話」を兄にしてきたのです。「もうじきお子さんがもう一人生まれるそう
ですね」「姉妹の体調は順調ですか」「世俗の仕事はいかがですか」・・・など。10分ぐ
らい経った後、**兄弟は「それでは長老の集まりを行ないたいと思いますので,兄弟は
帰って頂いてかまいません。」と兄に言い、兄は帰されました。
 
「このやり方」でこの巡回監督「****兄弟」は今までやってきたのです。おそらく、
このようなやり方で今まで何人もの人たちがやってもいない「濡れ衣」を着せられてきた
のです。自分の持っている独特の「威圧感」と巡回監督としての「権威」を利用して震え
上がらせ、やってもいないことを「やった」と、暗黙のうちに認めさせようとするのです。
しかしそれが「手のかかる」上訴など事が大げさになり公の問題になりそうになると、と
たんにそれは「無かったこと」と、とぼけてしまうのです。そして,その「審理委員会」
という「独特の雰囲気」と「威圧感」に負けてしまった兄弟姉妹たちは「えん罪」の罪を
かぶせられるのです。
 
この兄弟のやったことはいったい何なのでしょうか。それは中世のキリスト教世界で行な
われた「魔女狩り」裁判そのものではありませんか。
あの当時「この女には魔女の匂いがする」と言って何人もの無実の汚名が着せられた人た
ちが反論する余地も無く、魔女に仕立て上げられ「火あぶりの刑」「拷問」を受けたので
す。会衆の中で「巡回訪問中」にその巡回監督が先頭に立って私の兄のことで「何か罪は
ないか」「何か罪はないか」と犬のようにくんくん嗅ぎまわり、ようやくの思いで見つけ
た「罪」、それは若い一人の高校生の娘さんからやっとの思いで聞き出したもの、「髪の
毛に触れた」・・・。若さゆえにおそらくその姉妹は巡回監督のいわば「誘導尋問」にま
んまと載せられ、ついそう言ってしまったのでしょう。あの狭い王国会館の玄関で靴箱に
靴を出し入れするとすれば,M姉妹の長く肩下まで伸ばした髪は偶然兄に触れ、そう受け
取られてしまったのかもしれません。兄はその後、M姉妹が自分を不道徳の目で見ている
と言ったとについて、自分にもやがて女の子が生まれる時だったので,「ああ,自分の生
まれてくる子も将来あんなかわいらしい娘さんになるのかなぁー」,としみじみ眺めてし
まったのかもしれないと言っています。しかし,そんなことで事が済まされるはずがあり
ません。この巡回監督がやったことは兄を「霊的破滅」に追い詰めたのです。この巡回訪
問が終わってから会衆の姉妹たちの兄に対する態度が極端に変わったのです。兄はまるで
「汚らわしい者」であるかのような姉妹たちからの視線にその後耐えなければならなくな
ったのです。考えてもみてください、あれだけ巡回監督が「あの兄弟は何か不道徳な傾向
はありませんでしたか?」と手当たり次第聞きまくったのです。何か私の兄にそのような
不道徳の疑いがあるので,巡回監督はみんなに聞いて回っているのだろうと姉妹たちが想
像するのも無理なことではありません。エホバの証人の中では「裁く」傾向が強く,いっ
たん広まってしまった噂やイメージはなかなか払拭することが出来ません。兄は会衆の人
たちから「不道徳」という烙印を押されてしまったのです。ある時王国会館の集会で兄の
家族が座席を取ろうとした時,開拓者の若い姉妹が座った席の隣に兄が座ろうとするとそ
の姉妹はすぐに座席を代えて別の場所に席を取りました。ショックを受けたのは本人だけ
ではありません。その家族も自分の父親がそのような目で会衆の人たちから見られている
のをいやでも感じ取るのです。集会から帰ってきた後,兄は「集会へ行くことが辛い」と
妻である姉妹に言いました。姉妹は「人につまづいてはだめ,エホバとの関係を大切にす
る事,神はあなたの事を理解しているんだから。」と何度も何度も言いました。「(その
邪悪な人)をあなた方の中から除きなさい。」と聖書は教えています。兄は何も悪い事を
していません。兄は邪悪な者ではありません。兄には会衆の中から取り除かれるようない
われなど全くなかったのに,審理委員会が開かれたのです。兄は「邪悪な者」として巡回
監督に「仕立てあげられた」のです。魔女ではないのに魔女のレッテルを貼られ,それは
兄にとって「火あぶり」「拷問」に等しい苦しみを会衆のみんなから受ける結果になった
のです。
 
現在この巡回監督「****」兄弟は「地域監督」として働いています。各地の巡回監督
を「教える立場」として奉仕しているのです。彼が巡回監督としての「鏡」として、模範
となっていることに私は理解ができません。巡回監督から地域監督へと推薦され,任命さ
れる時、そこに「聖霊の導き」があって然るべきだったのではありませんか。
 
ものみの塔2001年 1月15日号 16ページ「 神権的に任命される監督と奉仕の僕」には次の
ように書かれています。
 
○神権的な任命は,み子を通して,また目に見える,神の地上の経路である「忠実で思慮
深い奴隷」およびその統治体を通して,エホバから来ます。(マタイ 24:45‐47)その推
薦と任命の過程すべては,聖霊によって指導され,導かれます。そう言えるのは,その資
格が聖霊の霊感による神の言葉に明示されているため,また任命される人たちが霊の実を
生み出している証拠を示しているためです。そのようなわけで,それは聖霊による任命と
みなされるのです。1世紀に監督や奉仕の僕たちは神権的に任命されましたが,今日でも
同じように行なわれています。
 
この巡回監督が推薦され選ばれる過程で,この時果たして聖霊は働いていたのでしょうか。
それとも,「居眠り」していたのでしょうか。いいえ,そのようなことはありません。そ
もそも組織そのもの「中枢部である統治体の兄弟たち」が「聖霊によって任命」されたも
のではないからです。レイモンドフランズ兄弟の場合もそうでした。フランズ兄弟が排斥
された時の理由はただ「背教者と食事をした」というだけ。フランズ兄弟の審理委員会の
場合も私の兄の場合もそれは「金太郎飴」のようにどこを切っても同じ、審理委員会で悪
行者でないものを悪行者に仕立て上げる構図は組織の上層部から末端の巡回監督に至るま
で同じなのです。フランズ兄弟をとことん追い詰めて組織から亡き者にしようとしていた
当時の統治体のメンバーが次々とその後「会長」として「聖霊の導きのもと?」推薦され
て任命されていきました。私の兄の場合はまるで「魔女狩り裁判」そのものですが、フラ
ンズ兄弟の場合は「背教者」というレッテルを貼るための審理委員会であり、そこで行わ
れた事はキリスト教世界の「異端審問所」そのものだったのではないでしょうか。エホバ
の組織の中で行なわれる取り決め「審理委員会」と中世の「異端審問所」にはその裁判の
仕組みそのものに共通の類似点が多く見られるのです。
 
 
*** 目97 5/8 19ページ “異端者”の裁判と処刑 ***
 
○異端審問の制度では,告発された人に対する公正な扱いは全く保証されませんでした。
事実上,審問官には無制限の権限がありました。「嫌疑や告発だけでなく,風評でさえ,
審問官が人に出頭を命じ得る理由になった」のです。(カトリック百科事典[イタリア語])
 
 
*** 塔91 12/15 22ページ 「それでも地球は動く」 ***
 
○カトリック教会は,コペルニクスの天文学を使って復活祭などの日付を定めていました
が,公式にはコペルニクスの見解を採用していませんでした。教会組織は,地球が宇宙の
中心であるというアリストテレスの説を支持していたのです。しかしガリレオの新しい考
えは,教会の名声と権力に対して挑戦を投げかけました。
 
ガリレオは正しい事を主張しただけなのにそれは当時の教会組織の「名声」と「権力」に
挑戦をする結果となったので,「異端者」としての濡れ衣を着せられ,一方的な裁判で有
罪とされました。そこには弁護する立場の者がいませんでした。同様に組織の「審理委員
会」もそこに3人の長老が揃いますが、それは一人の代表する「権力の一番ある一人の長
老」が排斥と思えば排斥になり,この人は「悔い改めていない」「反抗的な傾向がある」
と判断すればそれは決定されるのです。残りの二人の長老は単なる「お飾り」的な立場で
しかないのです。もし,その一人の権力ある長老の判断とは違う,弁護するような発言を
その時したとしたならば,今度はその権力者である長老に「にらまれる」「目をつけられ
る」結果となり、自分の身を危うくしてまで弁護するような勇気ある長老はまずいません。
その権力のある長老の「名声」と「権力」に挑戦してはならないのです。
 
「(その邪悪な人)をあなた方の中から取り除きなさい」コリント第一5章13節にはそ
のように書かれしとています。,それは「清さを守るために。」神の組織の中の清さを守
り,会衆の清さを守るために。と,言ってもそれは表向きのこと。本当は(自分たちの権
威や名声に挑戦するような態度を持つ人)または(組織の教義や取り決めの間違いに気付
き,それを指摘する人)そういう人を「あなた方の中から除くよう」そう教えるのです。
背教者というレッテルを貼り付けて「邪悪な者」として仕立て上げるのです。背教者って
誰のことですか,レイモンドフランズ兄弟は組織の教義(聖書解釈)の間違いに気付いた
のであって,聖書そのものの中の間違いに気付き、異議を唱えたのではありません。組織
の教義の間違いを指摘したことは組織の名声と権威に挑戦することになったので彼は「背
教者」とされたのです。
 
世代の預言の解釈の変更も、ものみの塔の1995年以前に組織の解釈に疑問を抱いたとした
なら,間違いなくその人は審理委員会で「背教者」として排斥されるでしょう。「世代の」
聖書解釈の変更、組織はいつも「真理の光が増し加わる」「タッキングのような仕方で絶
えず前進して行く」として自分たちの教理の変更を説明します。しかし,その理解の仕方
は「前進した」というような理解の仕方でしたか。
 
 
*** 塔95 11/1 11‐12ページ 「邪悪な世代」から救われる ***
 
「この世代」―それは何か
 
○ オリーブ山でイエスと共に腰を下ろしていた4人の使徒たちは,「事物の体制の終結」
についてのイエスの預言を聞いた時,「この世代」という表現をどのように理解したので
しょうか。福音書の中の「世代」という言葉は,ギリシャ語のゲネアという言葉を翻訳し
たものです。現代の種々の辞書はゲネアを次のように定義しています。「字義的には,共
通の先祖から出た人たち」。(ウォルター・バウアー編「新約聖書希英辞典」)「生み出
されたもの,一族; ……一つの系図上の代々の人々,……または……一種族の人々,……
または同じ時に生きている人々の集団全体,マタイ 24:34; マルコ 13:30; ルカ 1:48; 
21:32; フィリピ 2:15,とりわけ同一の期間に生きているユダヤ民族の人々」。(W・E・
バイン編「新約聖書用語解説辞典」)「生み出されたもの,同じ系統の人々,一族; ……
同じ時に生きている人々の集団全体:マタイ 24:34; マルコ 13:30; ルカ 1:48; ……とり
わけ同一の期間に生きているユダヤ民族について用いられる」―J・H・セア編「新約聖書
希英辞典」。
 
○ このように,バインとセアはどちらもマタイ 24章34節を引き合いに出し,「この世代」
(ヘー・ゲネア・ハウテー)を「同じ時に生きている人々の集団全体」と定義しています。
「新約聖書神学辞典」(1964年)はこの定義を支持し,「イエスが『世代』という言葉を
使ったことには,包括的に言おうという意図が表われている。イエスは民全体を対象とし,
罪における彼らの連帯責任を意識しているのである」と述べています。確かに,イエスが
地上におられた時のユダヤ国民に『罪における連帯責任』があったことは明らかでした。
今日の世の体制もそれを特徴としています。
 
バインの新約聖書希英辞典やセアの聖書辞典も組織が何年も前から幾度と利用してきてい
るものです。今になってバインとセアを利用して新しい理解だ(発見した,気付いた)と
説明するのはおかしいのではないですか。新約聖書神学辞典は「キリスト教世界」からの
知識の引用なのではありませんか。仮に誰かが1995年以前にこの新約聖書神学辞典を根拠
に組織のいう世代の解釈は「おかしい」と疑問を投げかけたならどうだったのでしょうか。
言うまでもなく組織はこの「世代」の解釈においては「新しい理解」ではなく「前進した
理解」でもなく、キリスト教世界が今まで理解していた「古い理解」に後戻りしただけに
過ぎないのです。そして,そのことに気付いた人は「背教者」として組織から除かれるの
です。
 
「(その邪悪な人)をあなた方の中から取り除きなさい」組織の上位の者の「名声」と
「権威」を傷つける人たちは容赦なく邪悪な者として「仕立て上げられて」ゆくのです。
私の兄の場合も巡回監督の「プライド」に触ったというだけ、北海道広島会衆で起きた事
件も,フランズ兄弟の時もそれは同じ、恐怖の審理委員会,それは「神の名において」
「清さを守るという大義名分のもとで」現在も平然と行なわれている,現代の「魔女狩り」
であり,「異端審問所」なのです。
 
pfreedom@nifty.com
 

《編集者より》
問題の巡回監督の氏名が何度も実名で出てきましたので、個人攻撃であるという批判を避けるため、****兄弟として実名を隠しました。 エホバの証人の審理委員会が、審理委員の好みにより、ある場合には「魔女狩り」になり、ある場合には個人的な恨みを晴らす場所になり、別の場合には単なる警察のような機能を果たしているのは間違いないことであると思います。人間のやる間違いだらけの事柄を、エホバの権威を振りかざして押し通そうとする、この組織の本質に根本的な原因があるのだと思います。


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