「1+1=2」−フリーダムより

(9-1-03)

エホバの証人を辞めてまだ数ヶ月しか経たなかった頃、大野教会の中澤牧師にこんな質問をぶつ
けたことがあります。それはまだエホバの証人の教えの中でも正しいと思える教義がまだあると
思えていたからで、それはある意味で心の中で中沢牧師を「どのような答えを出すのだろう」と
いわば試そうとしてそんな質問をしたのかもしれない。「先生,神は地獄という場所を本当に死
後用意されているんでしょうか」と。そして「愛にあふれる神がそのような場所そのものを考え
つきも,思いにのぼることさえ有り得る事なのか」と。エホバの証人ならだれでもするであろう
「お決まりの質問」を私はしたのでした。そして返ってきた中澤牧師の答えは「聖書の中に地獄
としか理解できないような記述があるので、地獄はあるだろう。」との事。でも「愛ある神がそ
のような地獄という恐ろしい場所を考えたり,思いにあがるだろうかと考えれば,無いのかもし
れない・・・・。」と。そのとき、なんともいい加減な答えをもらったな、と感じ中澤牧師がな
ぜそのように答えられたのか私には理解できませんでした。そのとき私はハッキリとしたどちら
か一つの「答え」が欲しかったのです。「地獄は存在するのか,存在しないのか」,このどちら
かの答えが正しいのか、これは大事なことだと思い私はそれからずっと考えつづけました。地獄
が存在するのだとすれば、それはエホバの証人の今までの教えが間違っているのであり,地獄が
存在しないのであれば一般のキリスト教の教えが間違った教えを教えていることになり、そのど
ちらかの答えを得ることは自分にとって必定のような気がしました。
 
エホバの証人を辞めて八年が過ぎようとしている今,私はひとつの大切な答えがぼんやりと見え
てきたような感じがします。そしてなぜあの時地獄があるのか無いのかあれほどこだわったのだ
ろうということも。結論からいうと組織は私たちが聖書を理解しようとするとき,ちょうど「算
数の答えを導き出すかのような聖書の理解の仕方や答え」しか教えられてこなかった、というこ
と。1+1=2、のように。組織の用意した聖書の答えはいつも1か0のどちらかでそこにはい
つもハッキリとした答えがあるのです。「神はなぜ悪の存在を許しているのだろう?」から始ま
って、「若い人は尋ねる・・・携帯電話を持つことはふさわしいことだろうか?」なんていう聖
書の中にそんな「携帯電話」のことなんか知る由もないのに組織はいつもそこに一つのハッキリ
とした「答え」を提示してきます。以前の投稿の中で組織は「白か黒か」どちらかの答えを私た
ちにいつも要求してくると書きましたが、それも言いかえれば「算数のような一つの答え」を成
員の前にいつも提示していることに過ぎないのかもしれません。組織の出す答えはいつも「0か
1」なのです。エホバの証人の中で生活していく時、成員はいわば組織の出す答え、そのどちら
かの「数字」にいわば「信仰を置く」ことが出来るかにかかってきます。
 
そしてエホバの証人の教義の信仰の基礎ともいえる「神の王国」の到来。こんな大切な教義にも
組織は「ある独特の数式」を考え出して「1914」という数字に信仰を働かせなさいと。聖書の中
で「主人が到着したときに、当時のいろいろなクリスチャングループを観察してみて、その中で
ちゃんと栄養価フある霊的食物を供給するだけの十分の資格を持っていた」のがラッセル兄弟の
「聖書研究者」グループだったわけで、イエスがラッセルのグループが資格ある証拠、根拠とな
ったのが1914年という特別な年を言い当てていたというもの。「1914」という数字もやはり当時
のラッセル兄弟たちの独特の数学の計算(方程式みたいなもの)から導き出されたわけで、成員
はその組織が提示した「年代計算の答え=1914」という数字に「信仰」をいわば働かせなければ
ならないのです。この数字がいい加減なものだったのだということがわかるとエホバの証人の信
仰の基礎というものががたがたと崩れていってしまうのです。組織は今までその他にもさまざま
な計算によって導き出された数字を成員に提示して、そこに「信仰を働かせなさい」と言ってき
ました。人類創造の6000年の年代計算から導き出された1975年という数字。そして「世代の預言」
も1914年の出来事をハッキリ理解できた人たちがまだ生きているうちに、というものでした。そ
して、この「1914」という数字と「1975」という数字が組織が提示する次の聖句によって見事に
つなぎ合わされてしまったわけで。
 
「 わたしたちの年の日数そのものは七十年です。 そして,特別の力強さのために,たとえそ
れが八十年であっても, ただ難儀と有害なことが付きまとうだけです。それは必ず速やかに過
ぎ去り,わたしたちは飛び去ってしまいます。」(詩篇90章10節)
 
振り返ってみるとこの聖句もいわば過去に組織によって捨てられてきてしまった「真理」と呼ば
れていた聖句の中の一つなのかな。この聖句をあの頃(1970年代前半)耳にタコが出きるほど親
から聞かされていた。つまり、1914年の「世代」に生きていた人たちとは何歳ぐらいのことを指
すのだろうと、そしてそれは詩篇の聖句からすると「人の人生は70年か80年」という結論が導き
出されてきて、その時代の状況がハッキリと認識することの出来る年齢の人たちがまだ生きてい
るうちに終わりが来るわけで、仮に「14歳」だとすると1914年の時に14歳だった人がまさに終わ
りを迎える年が人生七十年から八十年の中間である「1975」にぴったりと当てはまるわけで。や
がて1975年が過ぎ去り、1980年代に差し掛かってくると組織はそれら1914年の出来事を理解でき
た人たちの年齢を14歳ぐらいの年だろうと予測したのが、いや、それは0歳、当時生まれた赤ん
坊も含まれる解釈に変わり、組織はこの「当時のことを認識できる年齢」という数字をその他に
もコロコロ変えて、成員の心はいつもこの組織の提示する数字に翻弄されてきました。「論じる
の本」の中にはたくさんの数学のような「定義」とされているものが書かれています。悪とは何
か、購いとは何か,偽預言者とは何か、三位一体とは・・・。すべての聖書の教えに定義付けら
れた算数のような答えが用意されているのです。すべてハッキリとした答えがそこにないと不安
になり,答えがあるときエホバの証人はそこに安心感をおぼえます。なぜなら組織はエホバ神よ
りも、そしてイエスの払われた罪からの救い、つまり「贖いの代価」に信仰を働かせるよりもは
るかに組織が提示する答えそのものにいつも「信仰を働かせなさい」と要求するからです。
 
ものみの塔1984年7月1日号P15には次のような記述があります。
 
○同様に,クリスチャン会衆の頭,つまりいま統治しておられるわたしたちの王は,忠実を保つ
ための多くの励ましをご自分の民に与えてこら れました。マタイ 10章27,28節,24章9節から
13節,ヨハネ 16章33節などの句にそうした励ましが見られます。エホバへの信仰,エホバが 
代弁者として用いておられる人々に対する信仰,そうですエホバの組織に対する信仰です! わ
たしたちが今日エホバへの奉仕に「出て行く」とき,そのような信仰を働かせるのは本当に重要
なことです。
 
組織に対する信仰,そしてその組織を代表する人たち「統治体」に対する「信仰」を働かせなけ
ればなりません。組織が提示するさまざまな聖書を理解するうえので答えに「信仰を働かせ」そ
の答えに至るままでのさまざまな方程式のような理屈、理論に一切疑問や疑いを持ってはならな
いのです。そして,救われるためには「業」が大きく関係してきます。そう,今度は業によって
評価される成員各自の「信仰の度合い」も、やはり「数字」で評価されるのです。各自が毎月組
織に対して提示しなければならない数字。「野外奉仕報告」の中で記載されるための数字の計算、
どれだけの時間を野外奉仕にあてたのか、何冊の出版物を配布できたのか、何人の研究生を組織
に導くことが出来たのか、開拓奉仕に何年携わってきたのか、月末になると要求された奉仕時間
に満たないとなると、わざと奉仕時間を「稼ぐ」ために意味のない留守宅訪問やわざわざ区域の
遠い端の所まで出かけてゆき、そこまで到達するまでの時間(数字)を稼ぐこと。そんな意味の
ない「業」「信仰の度合い」を成員は組織から「その数字」によって自分が評価されることに神
経を遣いすり減らしてゆくのです。成員が救われるためにそんな数字、組織の年代計算からひね
り出された数字に対する信仰を持つこと、逆に奉仕報告によってひねり出された信仰のバロメー
ターである数字、そんなものがキリスト教の人々の「救い」に本当に関係してくるのでしょうか。
組織の年代計算からひねり出された数字に信仰を働かせることによってそこに成員に本当の救い
が関係してきますか。いいえ、かえってそれは成員の心にいわば「終わりの日」にたいする「恐
怖心」または「緊迫感」を生じさせるだけだったのではないでしょうか。野外奉仕報告用紙にた
くさんの「数字」を書き込み組織に報告する時、そこにどれだけの人が「自分の救い」を意識し
ながら、または「神への愛」を意識して奉仕している人がいるのでしょうか。
 
一般のキリスト教の「救い」の答えは聖書に書いてあることをそのまま教えるだけです。そして,
その「救い」に関して理解しようとするときに必要なこととは、神の用いられる「組織に対する
信仰」など必要無くて「キリストに対する信仰」という要素だけが大きく関係していることも。
「救い」を算数を理解するような理解の仕方でなくて,聖書の中の「救い」を理解するときは
「キリストに対する信仰」という「こころ」のフィルターを通して理解するようにと。
 
○ これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正し
い良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているの
です。(ペテロ第一3章21節)
 
○まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,こ
れはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。 そうです,それは業によるのではありま
せん。だれも誇ることのないためです。(エフェソス2章8、9節)
 
油注がれている人たちはすでにこの聖句が当てはまり、「大群衆」には適用されないという組織
の独特の教え。そして組織が新世界訳聖書や出版物の中で頻繁に用いる,「過分のご親切」とい
う言葉。新世界訳聖書以外の聖書でこの「過分のご親切」という語句は、単に「恵み」という簡
単な言葉が使われています。救いは神からの「恵み」によるもので,「恵み」とは恵む側の者が
恵まれる立場の者に「たくさんの条件」を付けて恵むなんてことはまずあり得ません。まさに
「救い」とは神からの恵みであり「無償の賜物」なのです。すべての人がキリストに信仰を働か
せる、ただそれだけ。 
 
主人に奴隷が借りた一万タラントのたとえ(マタイ18章)これらは私たち一人一人の罪が許され
るうえで神がどれほど寛大に、いわばただ同然で許されるかということ、救われるために単にキ
リストに信仰を働かせることだけでよいということを教えてくれます。その男は主人に一万タラ
ント借りていましたが、それがとても返すことの出来ない額だとすると主人はそれを帳消しにし
てあげました。しかし、その男は今度は自分からたった100タラント借りている者に対して「そ
れをすべて返すまで許さないぞ」と言い張り牢屋へ入れてしまいます。私はこのたとえ話の中に
出てくる「男」が組織が大群衆に対して行っていること(教えていること)に思えてならないの
です。組織は自分たち(油注がれた者)は神からすでに罪を(帳消しにされている)許されてい
るので、すでに救われている(完全な者とみなされている)と主張しますが、今度はおまえたち
(大群衆)に対しては「神はおまえたちの罪はまだまだ許してないんだぞ」と脅すのです。その
ためには神に対して(実は組織)に対して「100タラント返すまで働け」と教えるのです。その
100タラントとは「野外奉仕」、自分の人生を組織の拡大のために捧げることが唯一神に対して
「私たちの罪を許してもらうための手段であり、そのことに対しての感謝の表し方の方法だ」と
教えるのです。それでも成員が救われるのは,まだまだ先のこと、たとえ「終わりの日」がやっ
てきたとしても,そのあとまだ「1,000年間」自分の忠実さが試されつづけるのです。組織が用
意する聖書にある私たちが「救われるための答え」・・・。言い換えると「救われるためにクリ
アしなければならない途方に暮れるほど先にまで提示されるさまざまな条件」こんな「答え」を
用意しているのはエホバの証人の組織だけ。私たちの罪を許さないのは神ではなく、組織なので
す。
 
○ しかし,賜物の場合は罪過の場合と異なっています。一人の人の罪過によって多くの者が死
んだのであれば,神の過分のご親切と,一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う[神]の
無償の賜物とは,いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。(ローマ書5章15節)
 
エホバの証人はあなたには「救われる見込みがある」と教えられますが、未だに「救われていな
い」と教えられるのでいつも不安なのです。何時間野外奉仕をしても、何人の研究生をバプテス
マまで導いたとしても、そこに「自分が救われている」という感覚や喜びが沸き起こってこない
のです。だから聖書からのハッキリとしているいろいろな算数のような「答え」あるいは「知識」
をたくさん欲しがるのです。
 
地獄は存在するのか,しないのか,そんな答えはすでに自分が信仰によって「救われている」人に
とってはどうでもいいことなのかもしれません。中澤牧師が「地獄はあるのだろう」と言われた
のはそのような記述がされている聖句が確かにあり、「聖書にただただ忠実」だっただけのこと
で、その聖書の理解に組織のように自分自身の考えや独自の解釈を付け加えたくなかっただけの
ことだったのです。 子供が親に信頼を寄せる際に父親や母親の細かい過去や考え方まですべて
知る必要が無いのと同じように,聖書にあるすべての疑問に答えがあるのか知る必要も無くなっ
てきてしまうのです。イエスの払われた「贖い」に信仰を置くことや、その深い愛について思い
巡らすだけで「救われている」ことを実感しそこに安心感がすでにあるのでしょう。
 
1+1=2、いつも組織が出す答えは算数のように答えがいつも「一つだけ。」他の答えはそこに
存在しません。 組織が用意した「方程式」を当てはめるとなるほど理路整然としたように思え
る「教義」が成立するようになるのです。若者にとって人生を有意義に過ごすための答えも一つ
だけ,それはイコール開拓者としての道を撰ぶこと。それ以外の答え、「選択肢」はもう無いん
です。それ意外に神を賛美しつづけながら生活して行く方法はないと暗黙のうちに訴えるのです。
親も聖書の教えに基づいた子供を立派に育てるための方法も一つだけ答えが与えられています。
それは,組織のために自分の子供をささげることだけ。それ以外の育て方をすれば「育てること
に失敗した親」という烙印が押されます。
そして、成員が神を賛美し、神の愛に対する感謝の表明の仕方も一つだけ。奉仕、奉仕に明け暮
れなさいと。
 
神を賛美するための方法なんて、100人いれば100通りの方法がそこにあるのではないでしょうか。
人々に愛を表す方法があるとすればそこには人それぞれの心のこもった愛を表す方法が見出せる
はずです。都会のホームレスの人たちに定期的に食事を配っている教会のクリスチャンたちがと
きどきテレビで放送されます。エホバの証人の組織はまずそんなことはしません。そのようなこ
とは「意味のないこと」だと成員に教えます。それよりも根本的に問題が解決される神の王国の
希望を宣べ伝えることだけが人々に愛を表し、神に見倣う方法だと教えるからです。伝道者一人
一人もそんな研究生になる見込みのほとんどないホームレスに証言しても意味が無いし、関心を
払う価値さえないと感じて無視します。ホームレスの人たちに関心を示し食事を「恵み」(そこ
に何かを期待するので無く)そこに純粋の「愛ある気遣い」を示す教会のクリスチャンとでは、
どちらが神に見倣い 愛を実践しているといえるのでしょうか。少なくとも神はそれらの行為が
「意味のないことだ」とは思われないはずです。人々が自分に見倣って愛を示すための「100通
りある方法の中のひとつ」として喜んでそれらの「賛美」を受け入れてくださり、評価してくだ
さるはずです。組織を離れて私は群馬県にある「星野富広美術館」を訪ねました。その方の書か
れた本も読みましたが、頭から下の身体が事故で麻痺し、唯一動かすことの出きる口で絵筆を持
ち野草の草花を表現し詩を綴っておられます。クリスチャンとしてその方はくちびるで筆を動か
すことにより、絵を書くという仕方で神を賛美しています。すばらしいことだと思いました。そ
して感動もしました。
 
○知識は人を思い上がらせるのに対し、愛は人を築き上げます。(コリント第一8章1節)
 
組織が教えるさまざまな沢山の知識は確かに私たちを思い上がらせるだけで、知識を持てば持つ
ほど人を高慢にさせるのです。あの組織の中にいたとき、知識はとても重要なものでした。エホ
バの証人の組織の中にはその知識を振りかざし、歩く生き字引まさに「出版物索引」のような兄
弟たちが沢山いました。そしてそのような知識を沢山持っている兄弟ほど周囲から「エリート」
として評価され、組織の中で出世していくのです。そしてその考え方は自分の場合も当てはまっ
ていたわけで、私は長野県で働いていた時にその知識をまさにパリサイ人のようにひけらかして
いました。ある一家族のもとに山形の天童市で教会の牧師をされている方が説得のため訪れた時
がありました。その家族の親戚が心配して呼んだのでした。その家族のご夫婦ははバプテスマを
受けてまもなくだったため、自分たちのところへ相談に来られました。結局私がその話し合いに
参加することになり、その話し合いは夜中の2時過ぎにまで行なわれました。あの当時その牧師
がエホバの証人について知っている事柄といえば、輸血をしないこと、選挙に投票に行かないこ
と、格闘技の授業を拒否すること、ぐらいの知識しか持っていませんでした。私はその話し合い
の中で聖書から、論じるの本の中から牧師がしてくるさまざまな質問に答えてゆきました。エホ
バの証人がこれほどたくさんの知識を持ち、聖書を用いて答えていったことに驚き、その牧師は
戸惑ってゆき、そのうちイライラして感情的になってゆきました。私やそのご夫婦はその牧師が
イライラ感情的になってきた様子を見てその態度を、その牧師の聖書に関する知識の無さを軽蔑
しました。そして何よりも自分たちエホバの証人が唯一正しい宗教なのだということに確信を強
めたのです。次の日の野外奉仕で私は会衆の兄弟姉妹たちにその時の話し合いの様子を自慢げに
話しました。キリスト教の牧師を論破したこと、そして自分の持っていた「知識」がどれほど役
に立ったのかということをみんなに自慢したのです。
 
「知識は人を思い上がらせるのに対し、愛は人を築き上げます。」この聖句の正しさを知ること
が出来たのはエホバの証人をやめた後でした。そして何よりもその「知識」が本当の知識ではな
く、組織が勝手に解釈した間違った知識であったことも。「大いなるバビロン」「野獣」「偽預
言者」「パリサイ人」「悪霊の影響」・・・これらの言葉を聞いただけで寒気がするほど忌み嫌
っていた知識。あの時身につけたこれらのキーワードの「知識」がみんなエホバの証人の組織に
当てはまってしまっていたとは何ということなのでしょうか。組織はその「誤った知識」によっ
て成員をだまし、神よりも聖書よりもまず組織に対する信仰を、自分たち組織が与える答え、
「知識」に信仰を働かせなさいとしきりに強調するのです。そしていつのまにか組織の出す算数
のような一つの答え以外のものを心の中で排除し、その答え以外の選択をする人たちを軽蔑し、
裁くよう教えるのです。 
 
pfreedom@nifty.com

《編集者より》
いつもの事ながら、フリーダムさんの明晰な分析と説得力ある論理には敬服いたします。エホバの証人としての優等生であったあなたが、クリスチャンとなってその観点からエホバの証人の見方を分析する時、あなたはエホバの証人の本質的な問題を見事に取り出すことが出来るのだと思います。恐らく組織に忠実なエホバの証人は、自分たちには白か黒かだけでなく、「聖書に基づいた良心」で個人が決めることもある、と反論すると思います。しかし、興味あることは、組織が「クリスチャンは神のみ前で自分の良心に従って決定しなければなりません」などと教えると、それは結局「白」を意味してしまうことです。私の知っているエホバの証人でも、誕生日は祝わないという教えは絶対的な「黒」として守っていますが、結婚記念日を祝うことは「良心の決定」ですからつまり「白」であるとして、大きなレジャーボートを借り切って、何十人のエホバの証人の家族や会衆の人々を招待して、船の上で豪華なドンチャン騒ぎをした例を知っています。何をするにも中庸が必要であることが分からず、「黒」であれば絶対にしない、「白」なら徹底的にするというこの態度は、たとえ「良心の決定」の事柄があったとしても、結局は「白黒」の思考には変わりがないことになるのです。